手帳・詐欺・肉じゃが(ミステリー)

 煮崩れしないように、そのうえで程よい柔らかさを保たれたジャガイモは、だしと素材そのものの甘さが非常に上手く融合していて、驚くほどに美味であった。以前から料理上手だと自慢してはいたが、康子がこれほどの技量を持っていたとは、まだまだ調査不足であったと民雄は少しだけ自分を戒める。たったそれだけのことでも、この仕事をしていく上では致命傷になりかねないのだ。


 そんな思考をしているものの、民雄は箸を止めることはできなかった。視界に入っただけでも食欲を圧倒的に刺激する肉じゃがにつられて、深皿へとさらに手を伸ばす。次に箸が掴んでいたのは、黄金色にコーティングされた牛肉だった。勢いそのままに口に放り込むと、凝縮された旨みが舌の上を駆け回る。ほとんど同じ料理だというのに、母親が作った肉じゃがとはどうしてこうも味の質がかけ離れているのだろうか。やはり、肉のグレードが桁違いであるからなのかもしれない。


さん、お味はどうですか?」


「こんなに上手い肉じゃがを食べたのは初めてだよ。得意料理は肉じゃがです、なんて月並みなことを言うもんだから、少々不安だったんだけど、それについては謝らないといけないかもしれないな。特にこのジャガイモ。煮込み具合がもう最高」


「あら、ジャガイモを食べ慣れてる方にそこまで言っていただけるなら本当に嬉しいですわ」


「康子、いくら北海道出身だからと言って年中ジャガイモを食べてるわけじゃないぞ。でもまあ、こいつはずっと食べていたいって思えるくらい特別美味しいよ」


 この時ばかりは、世辞を抜きにして民雄は心からの称賛を送った。職業柄、いつもは嘘で塗り固めた言葉しか吐かないのだが、この料理を前にしてそうすることは憚られたのだ。民雄の言葉に、康子は薄く紅が塗られた肉厚の唇を少しだけ吊り上げて、慎ましく微笑みを作った。


「お肉はどうです? 変じゃありませんか」


「変なんてもんじゃないよ。違う意味で大変だ。こんな上等な牛肉を舌が覚えてしまったら、明日から何を食べて生きていけばいいのか分からないや」


「……あらあら、義郎さんったらお上手ですね」


 口元に手を当てて、康子は上品な笑い声をあげた。先ほどから、所作の一つ一つに気品が溢れている。さすがは良家のお嬢様だ、だが所詮はちょろい女だな、と民雄は心のうちでほくそ笑んだ。気位が高いのはなにも彼女の動作だけではない。おそらく、何気なく肉じゃがが盛られているこの皿にだって、途方もない金が使われているのだろう。それがもうじき、手に入る。


「それで、話というのは何なんだい?」


 何気ない風を装って、民雄はそう切り出した。至高の肉じゃがに毒気を抜かれてしまってはいたが、本題を忘れてはいなかった。計画も中盤に差し掛かろうとした大事な時期に、急に康子に呼び出されたのだ。警戒を怠るな。改めて気を取り直そうとしたが、ついつい肉じゃがを口に運んでしまう。しっかりと煮込まれた玉ねぎは、上品な余韻を残して民雄の咥内で溶けていった。


「いえ、もういいんです」


「そう言われると逆に気になるよ、康子」


 言いながらも、民雄はまた肉じゃがをしっかりと食べていた。牛肉とジャガイモと玉ねぎ。それぞれ別々に味わっても格別であったが、同時に口に含むと、何とも言い難い至福の調和で味覚すべてが満たされた。まさに桃源郷。思わず頬が緩みそうになった。


「だからいいんですよ。もうあなたにお話しすることは何もありませんから」


「え?」


 民雄が驚きの声を上げたのは、康子の声が突然豹変してすっかり冷めたものになったのもあるが、その大部分の原因は肉じゃがであった。先ほどまでの極上の味わいが、まるでスイッチで切り替えたかのように突如として消え去ってしまったからだ。まるで泥を噛んでいるような感触に、民雄は思わず口の中のものを吐き出してしまった。


 そんな民雄の粗相を見ても、康子は眉一つ動かさなかった。口元には微笑が張り付いたままではあるが、その瞳には影が差しており、何の感情も籠っていないように民雄には思えた。


「これを見つけた時には、本当に悲しかったんです。何かの間違いだと思いました」


「そ、それは俺の手帳か」


 どうしてそれを、と民雄は続けようとした。しかし、まるで唇に透明なセロハンが巻かれているかのように、上手く言葉を紡ぐことはできなかった。痛いような、痒いような、奇妙な感触が民雄の口を中心としてじんわりと全身へと広がっていく。


「結婚詐欺。あれだけ優しくしてくれたことも、囁いてくれた愛の言葉も、全部全部全部全部。でまかせだった。信じられない。読み終わったときには私はすでに地獄へと突き落とされていました。ねえ、地獄ですよ。どう思います、義郎さん、いえ、さんとお呼びしたほうがいいですかね」


 すべてが白日のもとへ晒されてしまった。入念に準備して、もう半年も積み重ねてきた計画が足元から一気に崩れ去っていく。思わず顔を伏せてしまいたかったが、どういうわけか首筋が硬直していうことを聞かなかった。すでに何かが、民雄の全身を縛り付けていた。


「間違いだったらいいなって。こんな手帳を民雄さんが持っていたのも、間の悪い偶然だったらいいなって。だから最後の希望にかけたんです。でも、あなたは美味しそうに肉じゃがを食べてしまった。何の疑問も抱かずに! ああ、もうここは地獄なんです!」


 まだ並々に中身が残っている寸胴鍋を、康子はテーブルの上から跳ね除けた。床の上に、極上の肉じゃがたちがぶちまけられていく。明らかに普通ではない康子の様子に、民雄は何もかも投げ出して逃げたくなった。彼を支配しているのはもはや警察に突き出されるという矮小な恐怖ではない。命の危機であった。


 だが、体は動かない。薬か。ようやく民雄は見当がついた。おそらくは、あの肉じゃがの中に。


「知ってましたか、民雄さん。北海道の人は、肉じゃがの肉というとほとんど豚肉が主流らしいんです。だからね、民雄さん。普通はおや、と思うはずじゃないですか。なんでこの肉じゃが、牛肉使ってるのって。ねえ、聞いてますか民雄さん。本当はどこのご出身なんです。民雄さん、民雄さんってば」


 うわごとのように民雄の名前を連呼する康子の手元には、いつの間にか鋭利な出刃包丁が握られていた。危なげな手つきで、その切っ先をゆっくりと民雄へと向ける。


「どうして何も答えてくれないんですか。黙ってちゃわからないですよ。ああ、そうですか。肉じゃががお気に召しすぎて、口を開けるのももったいないですか。いいですよ。じゃあ。私が開けてあげます。私、こう見えても料理には自信があるんですよ。あれ、これは前に言いましたっけ」


 麻痺したはずの頬が、はっきりと刃の冷たさを伝えていた。民雄は死に物狂いで腕を動かそうとするが、まるで糸の切れたマリオネットのように微動だにしなかった。恐怖はすでに閾値を大幅に上回っていたが、涙すら民雄は流せなかった。


「民雄さん、おいしくなあれ」


 康子は死人のような眼差しのままそう言って、包丁を力強く引いた。床に散乱した肉じゃがの上に、まるでアクセントの香辛料であるかのように鮮烈な朱色が混じり、それでもまだ肉じゃがは食指を誘う香りを放っていた。

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無作為に三題噺を書こうと思います(練習用) パンドさん @pandsan

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