第74話 普通の休日 その3
旅行が始まってすぐに招待された雪乃が運転席に向かって御礼の言葉を伝える。
「あの……家族旅行なのに招待してくださって有難うございます」
「いいのいいの。今回は旦那がドタキャンだから家族って感じもあんまりしないでしょ」
そう、今回、いつきの父は旅行に参加しない。数日前に休日出勤が急に決まった為に予定が合わなかったのだ。
でもそれはそれで女性だけの旅行と言う事で気が楽でいいかも知れなかった。今回は家族以外に可愛いお客さんもいるしね。気分良く鼻歌を歌いながら運転する母親に向かって、助手席に座ったいつきが声をかける。
「で、どこの海まで行くの?」
「ふふん、それは着いてからのお楽しみだよ」
上機嫌な運転手はそう言って娘の質問をはぐらかした。そうして車は順調に渋滞知らずの早朝の高速道路を走り抜けていく。この旅行の為に少し無理して早起きしていたいつきと雪乃は、快適な車以内環境にまぶたを下ろした。車には人を眠りに誘う超音波が発生していると言う説もあるけれど、あながちそれも真実なのかも知れない。
そんな中、実はこうして車に乗るのも初めてのヴェルノは、車窓から見える流れる景色を目にしてすこぶる興奮していた。
「おお……これはすごい」
「流石にヴェルノ君は興奮で眠れないようだねえ」
「はい、ここから見える景色、みんな素晴らしいです。空も、雲も、野山の緑も、それから……街の景色も、その先に広がる海も!」
興奮した気持ちのままに矢次早に言葉が出てくる彼を見て、母親は同じくらい上機嫌になっていた。この時、少し遅めの車を一台抜きながら彼女は声をかける。
「みんな寝ちゃったからさ、良かったら話し相手になってくれるかい?」
「僕で良かったら、喜んで!」
ヴェルノが車のどの席にいたのかと言うと、助手席に座ったいつきの膝の上だ。事故でも起こそうものなら大変な事になる所にいたものの、ドライバーの運転技術を信じた彼はその場所を全く危険だと思ってはいなかった。
彼と母親との楽しい会話は途切れる事なく続き、ヴェルノは魔界の話で、彼女はいつきの話で大いに盛り上がった。その会話もあって、車は危なげなく目的地までスムーズに走り抜ける。
高速道路を3時間ほど走った後、通常の道路に降りて30分程度で車は無事今回の旅行先に到着する。車を駐車場に停めると、母親は寝ていた2人の体を優しく揺さぶった。
「ほら、着いたよ。取り敢えず荷物を預けようか」
「民宿……『ねこもいっしょ』?」
辿り着いた民宿の名前を見たいつきはその名前を口に出した。見た目は普通の民宿なものの、看板は猫をアレンジしたポップな感じで可愛らしい。じっと立ち止まっている娘の肩にポンと手を置いて、母親がここを宿に決めた理由を笑顔で説明する。
「そ、ペットOKの民宿。ここを見つけたから旅先をここにしたんだ。ロケーションもいいしね」
「いい宿ですね」
すぐに雪乃がその言葉に相槌を打つ。いくらペット可と言っても普段の姿を見せる訳にも行かないのでヴェルノは飽くまでも普通の猫のふりをしてチェックインを済ませた。宿の人に部屋に案内されている道中で、いつきは雪乃に興奮しながら声をかける。
「荷物置いたらさ、海行こうよ海」
「いきなり行くの?」
「そうだよ!いきなり行くんだよ!」
その言葉の通りに2人は部屋について荷物を下ろすと、すぐに水着とか着替えとかそう言う必要なものだけを選び取って部屋を出ていく。初めての車移動に少し疲れていたヴェルノが部屋でまったりを決め込んでいたところ、それを目にしたいつきが強引にその腕を引っ張った。
「ほら、べるのも一緒に!」
「えええっ」
と言う訳で3人はその宿の近くの海岸にやって来た。海に来るのが目的だった為にいつきの気合の入れ用は最初からマックスだ。浜辺が見える場所までやって来たみんなは吹き抜ける風を受けて思わず深呼吸をする。
「うーん、潮風がいい感じぃ~」
目の前に広がる海は雄大で、夏と言えば海と言う認識の彼女はもっとこの季節を満喫しようとキョロキョロと周りの様子を観察する。
「あれ?意外と観光客は少ないみたい」
「最近は若者の海離れが進んでいるんだって。ほら、海って潮水だから」
そう、喜び勇んで海まで来たものの、この海がそこまで大きな観光名所ではないためか意外と浜辺に人影は少なかった。雪乃の説明を聞いたいつきは腕を組んで海人気が減少している事を嘆く。
そんな中、この世界の海が初めての彼だけは新鮮な喜びを持って目の前の景色を目に焼き付けていた。
「おおお……」
そんな瞳キラキラを興味深く眺める彼女は彼を高く抱き上げて好奇心の赴くままに話しかける。
「べるのはどう?海?感動した?」
(車の中ではともかく、人前で喋っていいの?)
周りにバレる事を恐れたヴェルノがテレパシーでいつきに話しかける。その指摘で初めて問題点に気付いた彼女は焦って証拠隠滅に走った。
「あ、そっか。じゃあ、羽も隠した方がいいね」
用心したヴェルノがとっくに羽を隠しているのにいつきは更に押し込もうと強引にヴェルノの背中に力を込める。その行為を受けた彼は強い刺激に思わずテレパシーで会話するのも忘れて悲鳴をあげた。
「痛い痛い、もう隠してるからっ!」
「ちょ、いつき、やりすぎだって!」
「あ、ごめん……」
そう言うミニコントを挟みつつ、いつまでも浜辺の入り口に突っ立っているのもアレなので3人は早速本来の目的を実行しようと歩を進める。
「んじゃ、取り敢えず楽しもっか」
2人は海の家の更衣室で買ったばかりの水着に着替えた。胸が控えめないつきはピンクのワンピースの水着で、それなりに豊かな雪乃は青いビキニタイプの水着だ。2人共結構似合っている。着替え終わった2人が外に出ると、いつの間にか先回りしていた母親とばったり遭遇した。
「お~やってるね~」
「お母さん、いい年してそんな水着……」
いつきの母は年齢に似合わなさそうなハイレグでカラフルなどぎついビキニの水着を自然に着こなしている。赤の他人なら美魔女とか言って持て囃すところかも知れないけれど、実の娘からしたらそんな若作りの実母はただ恥ずかしいだけの存在で、目にした瞬間、速攻で顔を赤らめながら目をそらして他人の振りをした。
「何よ、しっかり体型維持してるんだから大丈夫だって」
「赤の他人ならともかくさ……」
イマイチその問題に気付いていない母親はキョトンとした顔で娘の友人に話を振った。
「そう?雪乃ちゃんはどう思う?」
「す、素敵だと……思います」
雪乃は旅行に連れてきてもらっている立場な訳で、ここで気を使わない訳がない。
けれど母親はそんな手心が入っている事を全く考慮に入れず、ただただ自分が認められたと思いこんでドヤ顔になる。
「ほら」
「や、そりゃそう言うでしょ」
この母親の態度にいつきは顔をそらしたまま呆れたようにつぶやいた。この流れでは娘の思うがままだと考えた彼女は、味方を増やそうともうひとりの同行者にも同じように意見を求める。
「ヴェルノ君はどう……あ、ここじゃ喋れないか」
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