第8章 久米御前

七.


朝から庭で近習たちと蹴鞠に興じる御所さまを見ていた。

御心を許す数少ない側近と御遊びになる時は、本当に楽しそうに笑われる。


いつも病に悩まされてきた御所さまは、周りの男たちに比べたら痩せていて、白い顔には少しの疱瘡の痕が残る。

御所さまの周囲にはいつも誰かが侍っていて、また時として人垣が出来ていて近寄り難いが、近習の者しかいない今は若い女房たちにとってまたとない機会だ。

「冷たいお茶とお水、それに橘菓子があったわね。あれをお持ちして」

控えていた大弐の局へそう伝えるや否や「私が参ります」と、我先にと女房たちが下がってしまい、当の大弐の局は呆然としていた。その様子が可笑しく、御前は思わず吹き出してしまう。

不満顔の大弐の局は、こちらを振り向くと座り込み、「何がおかしいのですか、下総の局さま。まったく。いったい何なのでしょう。御所の女房ではない顔も見えておりましたが」ともらす。

「このようないいお天気ですし、もし御所さまといずこの女房の良縁が結ばれるとすれば、実に佳き日でしょう」

「百年早いというものです」

「そうでしょうか。室に上がられた五条の局も、最初はあのようでしたよ。動けば何か掴めるかもしれないでしょう」

男女の色恋とは、ほとばしる感情がつきものであると思っていた。

御所さまが言う通りであるとするならば、胸を焦がすような感情は一切なく、あるのは深い信頼と敬いがあるのみで、誰かに奪われるのでは、この恋が終わってしまうのではと不安に駆られることは一切なくなる。

それでは色恋というものがこの世から消えてなくなってしまう。

色恋が美しいからこそ、古代より多くの歌に詠まれてきたのにだ。

なれど、その絆こそが本当の愛の形とするならば、何故人は恋と称する感情を持つのであろう。


茶菓子の用意が整った頃、男たちが戻る。

「叔母上!」

相変わらず満面の笑みで駆け寄ってくる甥御はいくつになっても可愛いものだ。

「重胤、腕を上げられましたね」

「それを言うならば、『足を上げられましたね』でしょう。御所さまには負けられませんからね」

「生意気なことを言う。それにその洒落は面白くはないぞ」御所さまはそう仰せになり、廂に座られた。

「どなたか、お茶をお入れ・・・」御前が言いきらないうちに、若い女房たちは、競うように御所さまにお茶や菓子を差し上げた。中には和歌を詠む者までいて、気さくでどの女房にも等しく優しい御所さまは、一人一人添削して返されていた。

しばらく唖然としていた御前が、ふと大弐の局を見やると、顔を赤くして爆発しそうであった為、笑いをこらえられず噴出してしまった。

一通り笑い転げてから、重胤に目で合図し、お着換えに連れ出すよう言う。

御所さまが下がられた後も、何人かの女房は、次の和歌の会へ招かれたと喜んでいた。

そこへ駿河の局が来て、機嫌が悪そうに言う。

「御前さま、御台所さまがお召しです」

駿河の局は幕府の女房だが、御台所さまの部屋にちょくちょく上がりこんでいる、と五条の局が不満を漏らしていた。


「内々に、それとなく、お話いただけませぬか」

御簾ごしにもその気品が溢れて伝わってくる。

武家の娘にはない氣をお持ちで、さすがの尼御台さまも、御台所さまにはこの上ない程の気遣いをされている。

「なれど御台所さま。あなたさまより直接申し上げられた方が御所さまはお喜びになります」

「幾度も機会をうかがって、申上げようと試みましたが、うまく言えぬのです」

純真で可愛らしいお方であったので、そのお言葉にこちらがとろけそうになる。

こちらに来てから一度も鎌倉を出たことがないとお嘆きで、何処かへ遠出をされたいと、内々に御所さまへ話してもらえぬか、と仰せであった。

「御所さまも、尼御台所さまもお喜びになりましょう。すぐに御相談いたします」

「おぉ、嬉しや。それと、これは確証がなく、将軍家にもまだご内密にしていただきたいのですが、どうも、私の女官がどこぞの御家人に誘いを受けているようで」

「まぁ。なんと無礼な!このような事が御所さまの耳に入れば大変です。すぐに厳しく調べさせましょう」

「女官に聞いても、それがどこの者なのかまったくもって知らぬと言うのです」

「ここまで入りこめるのならば、御家人の中でも重臣でありましょうから、おそらくそう時がかからずにわかりましょう。それとなく、警護のものに申し付けて、すべての者の出入りを厳重に管理し、わかり次第すぐご報告に上がります」

「感謝します、久米御前さま」


本当に時間はかからなかった。

それどころか、警護の者らはあっさりと「あぁ、それなら相州さまの御次男でしょう」と言う。

あまりにあっさりと話すものだからこちらが拍子抜けしてしまった。

「艶文を出したという噂ですよ。相当ご執心らしいです」にやけ顔で話す武士らに御前は気力を失って早々に立ち去った。

相州の次男といえば、相当に可愛がって育てた御子で、それ故に見た目からして緩みきった、若き武士とは思えぬ軟弱者であるという噂であった。相州は泣いて詫びるに違いない。


「御前どの!」

背後から声をかけてきたのは和田氏だ。

和田と父常胤は仲が良かった。よき競争相手であり切磋琢磨するにはちょうどいい御人であった。

「御無沙汰しております、義盛さま」

髪の毛も太い眉毛もすっかり白くなられていたが、その豪傑ぶりは相変わらずのようだ。

「私はそんなに長くは生きれますまい」いきなり和田氏がこう切り出した。

「何故ですか。どこかお加減でも・・・」

「そのうちにわかりましょう。ただ、これだけは言うておきたいのです。将軍家には何の恨み辛みはない、と。この義盛、すべてを将軍家へ捧げた身であるから、この先何があろうともこの鎌倉とともに朽ち果てるのみ」

義盛が合戦の準備をしている、という噂は真であるのか。

「義盛さま、どうかお考えをあらためられ・・・」

御前が見た義盛の瞳は、ひたすら真っ直ぐで、そしてまるで鏡のように青い空をその瞳に映していた。

父を思い出さずにはいられなかった。

一番に頼朝公に付き従うことを決心して挙兵したという父の迷いのなさを、今こうして和田氏に義盛に重ね見る。

御前は瞳をうるわせて笑顔で言う。

「いかなることがあろうとも、その御志が八幡大菩薩さまの御心にかなっていることと信じております、義盛さま」

義盛はにっと笑い、御前の肩に力強くそして優しく手をおく。

「それでこそ、常胤の娘だ」

ここにも、私が父と慕う人がいた。

命の使い方は人それぞれだが、武士と呼ばれる男たちが持つ信念と忠義にはいつも驚かされてばかりだ。

志があるのは良いことであるが、何時の世か戦わずにいられる平穏な世が来てくれることを夢見ずにはいられない。


御所さまへの御相談事は夜遅く、酒盃を楽しまれている時にお話することが多かった。

「今日も忙しくされていましたね、こうや」

「せめて食事時くらい駿河の局の愚痴など聞きたくないものです」

「体に良くありませんね」と御所さまは笑われる。

「三浦さまが新しく三崎に邸を造られたとか。地球が丸いということがよくよく見ることができる、素晴らしい邸なのだと力強く何度も繰り返し繰り返し仰せであったそうですよ」

「ふふ。それはそれは」

「蒼き海を見ているだけで自分がいかに小さいかを思い知ると仰せでありました。邸の敷地内には温泉をひかれているのだとか」

「贅沢な人です。私はこの御所でしか生きられぬというのに」

「御所さま、ぜひともこのご機会に、尼御台さまや御台所さまとご一緒に三崎へ行かれてはいかがでしょう。御台所さまは鎌倉を出られたことがなく、御所さまと御一緒にいられる時間も少なくお寂しいとお嘆きでありました」

「何故私に言わないで、あなたに申されたのでしょうね」

「可愛らしいお方ですから、言い出せないままでいらしたのです。尼御台さまも、三浦さまも是非とも、と仰せのことですし」

「佳き日を陰陽の親職に占わせましょう」

「御所さま、広元さまが御苗字を・・・」

「その件は他の女房から聞いております。手続きが面倒で時間がかかりましょうが、できないことではありませんよ。内裏にもおうかがいせねばなりませんね」

「以前、御所の東隣の領地を和田さまに与えられると仰せでありましたが、今頃になって鶴丘宮の別当が譲られたいと仰せのようで・・・」

「議論の余地もありません。あれはもう和田のものです」

「そのように返答いたします。相州さまが明日は朝から政所にお出ましになっていただきたいと」

「参りましょう」

「わたくしから御耳に入れるべき事項は以上です」

「そうですか、ご苦労でしたね。これで明日は朝から気分を害するようなことを政所で聞く必要はないわけですね」

御前は言葉に詰まる。

「今の時点で私から申し上げるべき事はございませぬ」

「そうでしょうか。あなたは隠すのが得意ですからね。形あるもの、ないもの、なんでも隠したがる。悪い癖だと教えて差し上げたばかりではなかったでしょうか」

「隠しているわけでは・・・。明日、政所に上がる許可を相州さまにいただきましたので、そちらでお話したかったのですが」

「そうですか。女房が政所に上がるのは、いつであったか、駿河の局が取るに足らない取り次ぎをして以来ですね」

あれ以来、御所さまは駿河の局を少し遠くに置かれるようになったのだが。

「御台所さまが訴え出られていることがあります。女官が御家人のどなたかに誘われているようだ、と仰せでして。どうも相州さまの御次男であられるようなのです」

「馬鹿なことをするものですね、あれは」

「扉番には記録に一切残すなと命じていたようですが、あの方は執権家の割には下の者らに人気がないようで、簡単に口を割りました。女官宛ての文も見ましたが、筆跡から間違いないでしょう」

「今日はこれまでにいたしましょう。腹立たしいですから」

「それと・・・義盛さまのことですが。その、何かお耳に入っていますか」

「何かとは」

「やはり合戦をなさるおつもりなのでしょうか」

「左衛門だけが知ることでしょう」

「御所さま、あの方をお止め下さい。やはりこのような形で父と慕う義盛さまを失いたくはないのです」

「私はよく覚えてはおりませんが、常胤と義盛はよくよく比べられる。多少千葉の方が賢く頭を使えるようですが。左衛門はひたすらに剛の者ですから。止めても無駄でしょう」

そうとはわかっていても、御所さまが憂いて和田の邸へ何度か遣いを出しているのを知っている。御所さまにとってもまた、あの人は父のような存在であるのだ。

「あなたが憂う必要はありませんよ。武士とはそういうものです。笑っていなさい」

無理に笑う御前の顔を見て御所さまは笑われた。


御前は明け方自室へと戻る。

下総の城下は、木々や草花の香りが漂っていたが、ここ鎌倉は潮の香と白檀の香りが漂う町であった。

京貴人のように香をしたためているわけでもないのに、衣の香りを嗅ぐと、ふんわりと白檀の香りが漂う気がするのだ。

「お袖を汚されましたかな」

「!!」

突如として現れた人影とともに声をかけられて、御前の心臓が痛むほどに驚いた。

「あ、朝光さま。いいえ、袖の香りを確かめておりました。このような朝早くに何をされているのですか」

「散歩です。散歩は爽やかな朝に限ります。と言うのは嘘で、宿直なのですよ。ちょうど先ほど交代したばかりです。」

「なるほど・・・そうでしたか」

「少し、ここへかけて空を愛でられませぬか」

「ぜひとも」


「それで、何をされていたのですか。袖の香りなど嗅いで」

「恥ずかしいところを見られました。昼夜を問わず、白檀の香りが絶えぬ御所であります故、いつの間にやら袖に香りがつくものです」

朝光さまも同じように袖の香りを確かめられると「そうでしょうか」と言うのでひと笑いした。

「御前はこの御所に仕えてもう何年になられますか」

「右大将家の頃からですから、もう二十五年になります」

「もはや、この御所にて知らぬことはございますまい」

「まさか。まだまだ知らぬことばかりです」

「五条の局がいつも悔しがっておいででしたよ。何にしても勝てぬと」

「ただ長くこちらへお世話になっているだけです。あら、ほら、また、白檀の香り・・・」

二人で黙って香りを見つけては息を吸い込む。

「どこからともなく聞こえる風鈴の音も良い感じです」

「はい、まことに」

「その・・・御所は御前を室と認められたという噂は本当でしょうか。この時間にこの辺りを御歩きになっているということもありますし・・・」

千葉の娘が室に上がったということは一切公言ならぬと尼御台さまとの約束事であった。

「まだそのような噂が広まっているのですね。困ったものです。もう長い事お仕えしておりますが、何故このように年老いてから噂が立たねばならぬのでしょう。ましてやそれが真実ではないと何故誰も気づかぬのでしょうか。おかしなことです」

人は嘘が露見しそうになる時は饒舌になるものだ。

だが朝光さまは気が付かれない様子で、くすくすと笑われると、

「年老いてなどいらっしゃいませんよ。まだお若い。聞けば私と二つしか違わない。であれば、私も年老いた老臣でありましょうな」

二人で笑い合う。

「朝光さまとご一緒すると、いつも笑ていられますね」

朝光さまは急に真剣な面持ちで、

「では、もし御所の許しが得られるのであれば、私の元へいらっしゃいませぬか」

「えっ・・・」

「五条の局から聞きました。後進に譲られることもお考えなのだとか。であれば、私の妻は数年前に亡くなりましたし、それ以来誰も傍におりませぬ。子もおりませぬ。もしよろしければ、私の元へおいで下さいませぬか」

「本気で仰せですか」

「冗談でこのようなこと申す男がいるでしょうか」

御前は顔をほころばせて嬉しがる。素直にとても嬉しく思えたのだ。

今これをお受けすれば、さぞ幸せになれるであろう、と思う。

「朝光さま。そのお気持ちもお申し出も有難く、とても嬉しく思いました」

「では・・・」

「なれど、私はお受けすることはできませぬ。どうぞお許しください」

「何故ですか。御所さまへは私から申し上げます故、心配は・・・」

「御所さまは反対などされませぬ。『めでたきこと』と仰せになるでしょう」

それは嘘だが。

おそらくは「あなたの真意は」と問われた挙句、「こうやの意志を尊重します」等と言うだろう。

「なれど、今あなたさまを選べば、私は生涯に渡って後悔し続けることになります。それほど、御所の女房として仕えることが気に入っているようなのです」

「そうですか・・・残念ですが仕方ないですね。わかりました」

互いに微笑み合う。


部屋に戻ると、蝋燭の灯りで般若経を転読した。

時刻はあっという間に過ぎゆき、東空は白やみ、朝日が清々しい空気を運んでくる。

せつが起きてくると「御所さまのところからお戻りになられたのですね。あまり眠られていないのでしょう」と眠たそうに言う。

「でも夢は見ましたよ。とても良い夢で、生涯私は忘れぬでしょう」

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