第8章 久米御前

六.


「どのように具合が悪いのですか」

いつも微笑まれている御所さまが、珍しく真顔で遠くを見やるのを見て五条の局が言う。「頭が痛いですとか」

御所さまは不機嫌そうに「そうですか・・・」と言うと黙り込んでしまった。

集まっていた女房たちもまた静まり返って、気まずくなった五条の局は焦り言う。

「まさか、あのお方が和歌の会を好んでお休みになるわけがございませんわ。ねぇ、大弐の局さま」

「えぇ。そうですわ」

「でも、最近退屈そうになさっていたではありませんか」口を挟むのは駿河の局だ。

「あら、駿河の局さま。御前さまがいない本日こそ、貴方さまの晴れ舞台。恩賞のおこぼれもございましょうに」

駿河の局は、久米御前に勝負事で一度も勝ったことがなく、それゆえの嫌味だ。

「それとも・・・御所さま。やはり御前さまがいなくてはこの会は始まりませんものね。今日は中止になさいますか」五条が言う。

「いいえ。この機を逃せば季節が変わりゆきますから。続けましょう」

その瞳は笑っているようだが、怒りを隠されているように見えた。やはり和歌会を休まれてしまったのは相当にまずかった、と五条の局は思う。後で相当お叱りを受けるのでは、と。

翌日、御所さまの前で深々と頭を下げて自己管理の不行き届きをお詫びすると、あっさりと許された為、五条の局は驚いた。

それどころか、「大事ないか」というお言葉までいただいていた。

ほっと一安心し部屋を下がった御前に、五条の局が言う。

「あら御前さま、もう瞼はよろしいの」

「五条の局さま、しぃっ、お声が大きいですわ」

「昨日はさすがに御所さまも終始ご機嫌斜めでいらっしゃいましたのよ。大変だったのですから。やはり寵の厚い方はよろしいですわね」と言う。

「何か褒美をいただかない限り一生、言い続けますからね」

「褒美?」

「当然でございましょう」

「・・・わかりました。何が欲しいのですか」

五条の局が欲しいと言ったものは、愛する方のお傍にもっと居たいという切実な乙女の願いであった。


「熊野へ、でございますか」

「人生で三度目の熊野詣でなのですよ。私もお仕えしてから二度目。熊野の美しい山々をそなたにも見せてやりたいものです」

尼御台さまに仕える因幡の局が鼻息も荒く言う。

「私も、供奉できませぬか」

「無理に決まってましょう。急に何を仰せですか」

「私も熊野を一度で良いので詣でたい一心で、無理とわかっていても申し上げました、申し訳ございません」

「よいではありませぬか」尼御台さまが言う。

「しかし、御前さまをお連れするとなると、他の者も不満に思いましょう」

「他の者とは、いったい誰のことを言うてるのです」

「いえ、特にこの者が、というわけでは・・・」尼御台の眉のひそめ具合を見て、因幡の局の声は小さくなる一方だ。

「それに一人くらい増えたところで問題はないでしょう。信心深いのは良いことです」

「尼御台さま、有難いお言葉、勿体のうございます。なれど、御所さまはお許しになりましょうか」

「私から申し上げましょう。此度は熊野の後、内々に高野山にも詣でます。そなたも行きたいと申していたのを覚えておりますよ」

「尼御台さま。なんとお優しいご配慮・・・有難うございます」

今はすこぶるご機嫌が麗しいようだから、例の話を切り出すならば、今しかないかもしれない。

「尼御台さま、内々にお話がございますがお時間をいただけませぬでしょうか」

「そのようにあらたまって、何です。さあ、こちらへ来てお座りなさい」

尼御台さまはそう仰せになると、不機嫌そうな因幡の局を下がらせた。

「こちらへお仕えして二十五年になります。その間、多くの局さま方や尼御台さまのお教えを有難いお教えを享受してここまで来られましたこと、その数々の恩恵に心より感謝申し上げます」

「どうしたのです、急に。まさか、暇をもらいたい、とでも」

「いえ、そうではございませぬ。御所さまのお世話をして、今年ではや十数年になります。幼かった御所さまもあのようにご立派な将軍家になられ、見るも眩しい御貴人となられました。私のような寂れた者ではなく、若い女房をもっとお傍に置くべきだと思います。ご存知のとおり、五条の局は若い局たちを取り纏めて掌握し、御所さまも深い信頼を置く者です。お二人の間には、信頼という言葉だけに留まらないもっと深い関係があるようなのです。五条の局を室に上げることは敵いませぬでしょうか」

尼御台さまは驚いた後、庭に視線をやって黙られている。

「お二人の間には淡き恋心があるのです。御所さまもそのようにお望みでいらっしゃいます」

「ほぅ。あれを室にしたいと将軍家が言っているのですか」

「はい。お二人の望みを叶えて差し上げたく、こうして尼御台さまに伏してお願いしている次第でございます」

「まぁ、考えておきましょう」

「ありがとうございます、尼御台さま。それと、もう一つ願い出たいことがございます」

「申してみなさい」

「此度の熊野詣でを機会に出家させていただきたいと考えております」

「なんと・・・。将軍家はあなたの望みを了承しているのですか」

「いえ。直接ご相談する前に、私が最も敬愛する尼御台さまのお耳にどうしてもお入れしたかったのです」

「そうですか。なれど、将軍家が幼い時分より傍にいたそなたをいとも簡単に下がらせるとは思えませんが」

「出家の件はさておき、五条の局を室に上げる件だけでも、何卒お考えいただけませぬでしょうか」

「わかりました。内々に話してみましょう」

「有難うございます」

出家が許されたのならば、京へ行こうと思った。見たことのない京への憧れがあったからだ。

御前は自分でも気づかないほどに気が張っていたのだとわかったのは、尼御台さまの部屋より下がった時、眩まいがして立っていられなくなった時であった。


「叔母上!」

「あら、重胤。あなたも相変わらず走ってばかりいますね」

「いや~、遠くから叔母上が歩いているのが見えて、走らずにはいられませんでしょう。そうだ、孫が生まれましたよ」

「まぁ。孫ですか」

にっこり重胤は笑って、「そうです」と言う。

「まぁまぁ。なんともめでたいこと」

「私も見たが、目元が重胤にそっくりであった」

いつのまにか背後には御所さまがお出でであった。

「和歌の才も受け継いでくれると良いのですが」と満面の笑顔で重胤が言う。

微笑み見る御前の耳元で御所さまが「こうやよ、少し話したい」と言う。

「はい、御所さま・・・」


重胤や近習の者らを下がらせると、庭に出られた。

この南に面した庭には、藤棚があることから藤御壺と呼ばれていた。ここは御所さまがお気に入りの場所で、普段は人払いをされているのでとても静かだ。

「尼御台から聞きました。今一度直接私にお聞かせ下さい」

この件であろうと御前にはわかっていた。

「尼御台さまには、五条の局が室に上がる件をご相談いたしました」

御所さまは、庭に生えていた雑草を一本抜いて捨てると、「あなたにしては珍しく私を不機嫌にさせますね」と言う。

「以前より考えていたことです。私はもう長きに渡りお仕えしてまいりましたので、この後は後進に譲りたいと思うております」

「側室は一人しか許されない、というならばその理由で通りましょう。あなたにそう言わしめた本当の理由とは何かを知りたいと言っているのです」

尼御台さまの時のように、そうやすやすとは事が運ばないか。

あれこれ画策したところで、その天性の勘の鋭さ故に見抜かれてしまうであろう。

「私なりに諸々考え抜いてそのように申し上げた次第です」

「答えになっていない」

「御所さま・・・」

「あなたはすぐ忘れるのですね。それも良いでしょう。人間の性です。忘れて生きねばならないと決めた人類の負の決め事です。ですが、私の近習には必要のない習わしです。いったいあなたは何のためにここにいるのであったか、今一度思い出し、その上でもなお下がりたいと仰せならば、すぐにここを出て行きなさい」

「御所さま・・・」

珍しく声を荒げられたので胃が締め付けられるように痛くなった。

「今なら子も産めましょう。あなたが何を選ぼうとも、私は引き留めはしません」

「きっかけは別にあったにせよ、五条の局にお譲りしたいと思うたのは本心です。御所さまの憂うその御心を埋めることは私には敵いませんでしたが、五条の局にはそれが出来ましょう」

「憂う?・・・私がいつ、何を憂いましたか。あなたは私の近くに居ながら、今まで何を見てきたのですか」

「わかっているつもりでした。この鎌倉を東の京にしようとなさっていることを。右大将さまが強い御意志で開かれた武家の都を、弥栄に繁栄発展させる道を幼少の頃より模索されていらっしゃいましたのを見ておりましたし、御所さまの頭に描かれている理想の都があることを存じておりました。なれど、私にはそれは壮大すぎる夢と思えて・・・なればこそ憂いなどと申し上げてしまいました・・・」

御所さまは京よりこの鎌倉へ朝廷を遷されたいとお考えであった。

無論、口に出して望まれることはなく、近習の者でも知る者はいないであろう。後鳥羽上皇への強い崇敬も、和歌道も、御台所さまを京からお迎えになったことも、日々の政の全てもその為だけにあった。

御家人らや民らは言う。相州と尼御台さまに操られる将軍家であると。憂さや陰鬱を晴らす為に和歌に蹴鞠に遊び興じられているのだと。可愛そうな将軍家だと。

何も知らぬ者らは口を揃えてみなそう言う無知さを大変に愚か者であると思っていた。

なれど、一番愚かなのはこの私であろう。

そう思ったら、情けなくて涙が頬をつたう。

「こうや。そこまでわかっているのなら何故私と共に在ろうとしないのですか」

意外な言葉に困惑し戸惑う。

「一度たりとも将軍家と共に在りたくないなどと思うたことはありませぬ」

「そうでしょうか。二心はないと言い切れますか」

「二心とは・・・。何故そのようなことを仰せですか。私がこうしてお仕えしていることを知っていて、久米と仰せだったのではないのですか」

「何故でしょうね。あなたを見ていたら、久米の文字が浮かんだのです。あなたのその願いと行動はまさに久米と一致していますね。ある時を境に久米は表舞台から消えてしまった。何があったかは知る由もありませんが、今のあなたと驚くほど一緒だ」

御所さまは近くに座られると、御前の顔をつたえ涙を拭われた。

「泣いてばかりですね」

そう言いながら御前の手を握って言う。

「こうや、あの月夜の海で泣き叫んで何か消えたのですか」

驚いて、御所さまの顔を見上げる。

「泣き叫んでなど・・・」

「波音は全てを消しませんよ。消すどころか、その悲痛な叫びを波風に乗せてこの御所まで運び来ただけです。少なくとも、私の耳には悲痛としか受け取れませんでしたが」

もう二度と泣かないと決めた、あの夜。

「私が知らないと思っていましたね。知らないわけがないでしょう」

誓いが嘘だったと、海の神はお怒りになるであろうか。

「あなたの悪い癖です。勝手に思い込み、勘違いし、負の方向に未来を変えようとすることは」

よりによって、この方の前で涙してしまうことを。

「例え、ここにいる理由が何であっても、今ここにこうしていることは神仏が許したからでしょう。少なくともこの生においてこうして縁を結ばれたのは互いの望みが叶ったからでしょう。違いますか、こうやよ。あなたが千葉という家を選び、女に生まれた。それが何を意味するか。何故私はあなたに久米という名を授けたか。わからないとは言わせませんよ。中途半端な忠義心で積み重ねたものを投げ捨てるつもりならば、それは久米の悪い癖でしょう。何があっても命絶えるまで忠を尽くすということが出来ぬのですか」

若い娘でもあるまいし、このように泣いても何も変わらないというのに。

「泣き腫らして再び明日姿を見せぬのならば、五条の局への償いが増えますね。筆頭女房の地位を譲って欲しいとの願いを聞き届けた次にはいったい何をねだることやら」

全部知っていたのかと驚く御前を、御所さまはそっと抱きしめて言う。

「隠し事など無意味でしょう。それに、あなたが欲しいのは私が五条の局へ注ぐ父性の愛ですか。それとも、御台所に注ぐ姫君への貴び敬う愛ですか。それとも、私の魂との絆ですか」

「絆・・・?」

「ともに支え合い、高め合うのが絆です。足りないところを補い合うことでもなく、忍耐し合うことでもなく、相手の‘もの’になることでもなく。互いに成長し合う唯一の道です」

「唯一の・・・」

「見えない光の臍の緒は絆を結ぶ二人の間で結び合われているのです。たとえ相手がどこにいようが、何をしていようが絆が切れることはありません。寂しくなることも、裏切りを感じることも、虐げられることも、不安になることも、物足りなさを感じることもないのです。所有欲はそこには一切ないのですから。それが魂の絆です」

所有欲、そう思ったことはなかったが、添い遂げたいと思う気持ちも、愛し愛されたいという気持ちも、相手を恋しく思う気持ちも、嫉妬心も、すべて「相手は自分のもの」だと思う気持ちから起こるものであろうか。

「こうや、のんびりはしていられませんよ。時間とは限りがあるものだからです。永遠に時は流れていても、今いるこの場所が永遠に続くということはないのですから。あなたが今、私の側室としてとるべき行動、話すべき言葉があるはずです」

「私はこう見えて、いつも間違いだらけですぐに何が正しいか分からなくなるのです。自信はありません」

「一人でがんばろうとするからです。あなたの中に神仏がいると思うたことはありますか」

「いいえ。まさか・・・」

「私にも、あなたにも、全ての人の心と身体の中に‘わたし’と‘神仏’が共存して生きているのです。わからなくなったら、自分という意識のすぐに隣にいる神仏に聞けばいい。簡単なことです」

「尼御代と私が何故あなたを室に上げたかを知っていますか」

「千葉家に待望の女子が生まれたことを喜びのあまり我が父常胤が右大将家に報告された時の、お二人の約束事であったと聞いています」

「それはそれで事実のようですが、あなたが私の心に敵わない人ならば受け入れませんでしたよ。あなたならば私を理解し、付いてきてくれると思ったからです。あなたが知っているように、決して容易な状況ではないですが、私はこの武士たちの棟梁として在り続けねばなりません。それが私の存在理由の全てです。私のやろうとしていることを誰に理解されなくても、あなたならば理解してくれると私は信じています。あなたはそれができる人です。自分を卑下するのが癖のようですが、自身が考えるよりもあなたが持っている才は素晴らしいのですよ」

御所さまは私の涙を拭って微笑み、「どのような時も笑っておいでなさい。あなたが笑えば他も笑いましょう。それに、忘れないでくださいね。どのようなことがあろうとも、絆が愛の本来の形であるということを」と言った。


その夜は大きな地震が数回あったが、御所さまは一切動じる様子もなく、「問題ないですよ、大丈夫」というばかりであった。

何故わかるのですかと問うと、「何故だかわかりませぬが、問題がないと誰かが知らせてくれているのです。あなたが海で泣き叫んでると知らせてくれたように」と微笑まれた。

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