第8章 久米御前

五.


「何故あのようなことを突然仰せになられたのでしょう、御所さまは」五条の局が訝し気に問う。

「さぁ。何故でございましょう」

「昨夜は御所さまとご一緒されていたのですわよね。私には言えぬ事情がお有ですか」

「まさか」

「千葉というだけで格が上がって羨ましい限りです」

言葉を返そうと口を開いた時、ちょうど邪魔が入った。

「五条の局さま、三浦さまがお見えです」

「ほら、こういうことになりますわ。面倒くさい。私だって忙しいのですから。お立場上、私ではなく下総の局さまが御一人でおやりになるべきことですわ」

三浦からの呼び出しなど、いつものことであろうに。頭から湯気を出したまま去って行った。

「困りましたね。あのようにまた機嫌が悪くなられては」

背後から御所さまの声がした。

「御所さま。あれでいて嬉しいのですよ。可愛い娘です」

「わかっております。ご機嫌麗しくないのは私のせいですから。先ほど私のところに来て、何故側室を御召しにならないのかとすごい剣幕で叱られましてね」

「御所さまに、ですか」

「あの子は裏表がありませんからね。そこが気に入っているのですが」

「とはいえ、いくら何でも・・・」

「そういうところが良いのです。私は構いませんが、尼御台へ相談してみて下さい」

「私が、ですか」

「あなた以外にいないでしょう。気に入りのあなたなら言いくるめられましょう。下手に私が動くと御家人らの争いごとが何とやらとお断りされそうですからね」

御家人の家から室を出さないのには理由があった。

先代の将軍家は、執権家となるべく北条と敵対していた比企家の娘を娶ったのだ。恐れた北条は一気に比企潰しにかかった。そしてあの伊豆の騒動にも繋がった。たとえ側室であろうと、御家人の娘が将軍家へ嫁ぐことを今後一切認めないであろうと人々は噂し合ったのだが、ある日突然、尼御台さまが内々に「千葉家の娘を室と認めよう」と発言され、相州も嫌々認めたというところだ。もっとも、北条に尻尾をふる忠犬と陰で囁かれる千葉家にはそのような二心があるわけはないのだが。

「それは気が重いことです。少なくとも、あれ以来、私は相州に嫌われていましょうから。まぁ、私も嫌いですが」

御所さまは「言霊には気をつけなさい」と仰せながらも笑われて、「ともかくあの子を救うのはあなたですよ。一肌脱いで差し上げて下さい」と言う。

五条の局の御所さまへの恋心は誰もが知っているところだ。

普段はどのような時も、新旧老若関わらず全ての女房を平等に扱われるのだが、その五条の局の気持ちを知ってか、女房たちを集めて開く和歌の会では、よくよく御所さまが恋歌を詠まれることがあって、それは京より迎えられた御正室である御台所さまに、というよりは五条の局への歌であろうと皆が内心思うところであった。

その五条の局は、三浦の元より戻ってきてもなお頭から湯気を出し続けていた。

「まったく。くだらないことでいちいち呼び出しされて。きっと私たちがよっぽど暇だと思われているのですわ」

三浦の相談とは、「領地に新しく邸を造ったから御所さまにぜひとも来ていただきたい」という取るに足らない相談事であったらしい。

「三浦はあなたを気に入っているのですよ。でなければそのような用向きで訪ねてこないでしょう」

そうかしら、とまだ苛立っている。

「五条の局さま、御所さまが心配されておりましたよ」

「何をでしょう」

「側室を御召しにならないのですか、とものすごい剣幕だったとか」

五条の局は顔を真っ赤にして、うつむく。

「つい、感情的になってしまいました。なんと失礼なことを口走ってしまったのでしょう」

「御所さまは全くお怒りではありませんでしたよ、大丈夫」

五条の局は、今度は涙して言う。

「辛いのです。何故、このような苦しい恋をせねばならぬのでしょう。御所さまは皆を平等に扱うのが余計に気に入らぬのです」

その可愛らしくも切ない言葉に、たまらず五条の局を抱きしめたくなる。

普段は快活で冷静な勘の鋭い五条の局は、しばらくの間、まるで子どものように泣きじゃくった。

「大丈夫。あなたは愛されていますよ。でなければお傍にはおきません」

そう何度も話聞かせて落ち着いた頃、五条の局の部屋を後にした。

御所さまが五条の局を側室にと仰せであったことは隠した。

尼御台さまを万が一にも説得できなかった時、相当落ち込ませることを考えれば、余計なことは話すまいと思えたからだ。

それにしても、ご機嫌が麗しい機会をみて、早いところ話をつけなければなるまいとあれこれ考えながら自室へ戻る。

御所まで届く波の音に気を取られて空を見上げれば、今宵はちょうど望月であった。

帰りが遅いと、部屋で待ちくたびれていた並木に頼んで、御所さまにも内密に由比浦へでかけることとした。


望月は、由比浦に広がる海原と島の木々を黄金の光で照らしていた。

目を閉じれば波音に揺られて沖へ漂うような心地だ。

このように明るい月に負けじと満天の星が輝いている。


この鎌倉での生活に一切の不満はないつもりでいた。

なれど、時折湧き上がるような寂しさは何なのか、ゆっくりと考える暇もなくただ年月だけが過ぎた。

先ほどの五条の局の涙を見て羨ましいと思えた。これまで誰かに恋心を抱いたことが一度もないからだ。もう三十七になるというのに。

頭を過ぎるのは、御家人の誰かへ嫁いでいれば平和な暮らしと家族が手に入っていただろう、ということだ。

幼い頃は恋い焦がれた誰かと結ばれて、幸せに暮らし一人の夫に添い遂げたいという夢を抱いた。

『誰かを愛したい。誰かに愛されたい』

それは五条の局に刺激されて目覚めた、私の中に押し隠していた女の気持ちだった。

御所さまは私をとても大切にして下さる。いつも私の手を引いて宮参りや由比浦に連れてきて下さる。

幸せなことであろう。けれど、御所さまにとっては大勢いる女のうちの一人にすぎない。御所さまとの間には主従関係があるのみだ。

五条の局が抱く恋心とは似ても似つかぬ、寂しいわが心に気がついてしまったのだ。


『ココナラダレモイナイ』


その内なる声が弱さを吐き出せと言う。

その声に負けて、嗚咽をもらして泣いた。


並木が駆け寄って来て、どうしたのか、と問う。


心が軽くなるまで泣こうと決めた。

胸に詰まる運命への恨みも、喉まで出かかった父への文句も、この家を選び生まれたことへの後悔も、そもそも、立場の弱い女という存在で生まれたことをも、そのすべてを吐き出すように泣き叫んだ。

波の音が、この悲しみや苦しみをかき消してくれる。

だから、今夜だけ。今だけ、こうして全てを吐き出してもいい。

今ここで、一生分の涙を流したら、二度と泣くまい。

だから、今だけこの浜をこの世界から切り離し給え。

そう神仏に願った。


「せつ、どうしましょう・・・」

「朝から冷やしても、どうにもひきませんねぇ」

東の空が明るくなるまで浜で泣きじゃくった顔はとても見せられるものではなく、瞼は酷い腫れようで、とても部屋から出られそうにない。

「せつ、五条の局へうまいこと言ってきて」

「はぁ・・・。でも今日は確か和歌会では・・・」

「だって、仕方ないでしょ。こうなってしまったのですから」

「わかりました。並木さまへ相談してまいります」

一刻の後、戻ってきたせつは、文を携えていた。

「五条の局さまからです」

「『あなたさまが和歌の会を休まれるなど今後ないかもしれませぬ故、私が代役に徹しましょう。ごゆるりとなさりませ』ですって。内心嬉しいでしょうに」

「さあさ、少しお休みなさいませ」

その言葉を聞き終わるか終わらないかのうちに、すっかり眠りに落ちてしまった。

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