第7章 出羽の娘

一.


女房は「次に読む本はどれだったかしら」と膨大な量の本に囲まれて幸せそうに笑む。

ここへ奉仕に参って本当に幸せなことよ。

雑用もろくにこなせない身分の低い女房ごときに書庫を自由にして良いと仰せになる主など、探したとて他にいるわけがない。

顔をほころばせながら手に取った次なる本には、名が付いていない。

中をめくっても真っ白だ。

本を閉じて裏表紙を見ると、『天地の夢』と書いてある。

不思議に思って首をかしげると、どこからともなく一枚の花びらが舞い降りてきた。

庭先を見れば、色鮮やかな梅の木があって、なんとも芳しい春の香りを漂わせている。

梅の木から舞い降りた一片の花びらは、肘掛にもたれて休まれる君の姿と変化(へんげ)した。

扇で顔を隠されてこちらを見て微笑まれるいつもの君だ。話しかけようと娘が口を開けると、ふんわりと吹いてきた温かな風に吹かれて、君は無数の花びらとなって邸の外へと散ってしまった。

その風景は娘を無性に寂しくさせた。

都は華やかなところだと聞いていたが、出羽とは比較にならないほど人間くさいところであった。

醜い争いも、よからぬ思念も、過分な遊びも、民の貧しさも正直もう見たくはない。

なれど、何故このように寂しいのであろうか。

たとえ地獄であっても、君がいる場所へ帰りたいのだと認めざるをえない。それは主従関係であろうか。それとも本心からお慕いしているのだろうか。

いずれにせよ、随分と長いあいだ夢の世界に留まっているような心地がする。君は・・・特に女主人はいかほどご機嫌が斜めであろうか。

いつぞや雑仕女にそうしたように、私にも「里に帰れ」と仰せになるやもしれない。




女房は、鉛のように重たくなった瞼を努めてゆっくりと開いた。

霞んでいた現の世が徐々にくっきりと姿を現してゆくのだが、最初に見え始めたのは美しい金の装飾が施された天井であった。

立ち込める香の良いかおりが脳を刺激し、水の滴る音は目覚めた身体に染み入るようだ。

ここは、どこであろうか。

意識がまだ現に戻りたくないと抵抗して、意識がぼんやりとする。

あの燻された古木の天井ではなく煌びやかな天井であったことが、ここが女房部屋ではないことを知らせる。

春とは思えないほどに強い陽の光が差し込んでいることにようやく気が付くと、体の感覚が戻ってきたことを堪能する暇もなく、暑くて仕方がなくなった。

ついこの間までは新緑が眩しい季節であったはず、と目を水の流れ落ちる風流な音色の方角にやると、廂に座る烏帽子の後ろ影があった。

視界の隅に映る艶やかな深草色の直衣は、上質な絹の光沢で潤され、金糸の刺繍が大きく施されている。

それは紛れもなく、君の後ろ姿であった。

扇ではたはたと仰ぎながら庭をご覧になっていて、その首筋には汗をおかきになっている。

娘は慌てて薄布団を除けて起き上がろうとしたのだが、腕に力が入らなかったのであろう。薄布団を持ち上げようとした腕が勢いよく動き、はしたない音をたてて畳を叩いてしまった。

逆行でその表情が見えないが、おそらく驚かれたのであろう君がこちらを振り返ると、

「まだ夢だと思うて暴れたか。そうでなければただ躾を知らぬ娘か」と問う。

「いいえ・・・とんだ粗相をいたしました」

そう申し上げると、君は再び庭を見やり、扇で仰ぎながら暑そうにされる。

「そのようにして、もうかれこれ三日も眠ったままであったぞ」

明らかに、君はご機嫌斜めの声であった。

「申し訳ございません・・・」

「女御が、ここぞとばかりにそなたの故郷へ遣いを出して、引き取りに来るようにと申し付けたようだ。今日明日にでも到着すると申しておった」

予想されたことで驚きはなかったとは言え、返す言葉もなかった。

父は、女御にひどく嫌味を言われて恐縮し、ひたすら頭を下げるであろう。

このような不出来で親孝行の一つも出来ない娘を持った事をひどく後悔するかもしれない。

娘は、悔しさと自分の情けなさに涙を流しそうになるのを堪えていた。

娘は右腕で支えながら体を起こそうとするが、体力を失って小刻みに震える右腕は頼りなく、震える左手で押さえながらなんとか体を起こしてひれ伏して申し上げる。

「すぐに荷をまとめて出てゆきます。お役に立つことができずどうお叱りを受けても仕方のないこと。お詫びのしようがございませぬ」

君はその言葉を聞いておいでだったか、聞かないでか、

「何故、書記など手に持ったまま気を失うたのか」と仰せになる。

「わかりませぬ。写されたその美しい文字に触れましたら、突如として異世界へ誘われてしまったのです。その物語があまりに深く、目覚められなかったのです」

「今話して聞かせよ」

「今、でございますか。なれど、長いお話になります故、お許しいただけますのならば、故郷より文を出しまする」

「文?・・・母上に約束した期限までに間に合わなかった。寛大な方だから許されたが、ひどく失望されたではないか。まったくひどい女房よ」

娘が黙り込んだままうつむく様を君は見て微笑んでいる。

「さぁ、早く話せ」

「はい・・・」

娘は弱々しい声で今まで見た夢の内容を語り始めた。

藤原の祖、不比等の側近であった阿比麻呂の冒険、天智天皇暗殺の件と阿比麻呂の父武麻呂のこと、それに、古事記にある大久米のその後の話を。

阿比麻呂の冒険話の途中で一度中断したのだが、君は夜になって娘を寝所に呼びつけて再び語らせると、ただ黙って娘の話す物語を聞いていらっしゃった。

全てを語り終えたのは、すっかり空が白む刻であった。

「久米か。愚かな若者よ。そなたには久米の血が流れているのか」

「わかりませぬ」

「そなたが大久米の話などするものだから、調べさせたのだ。そなたの故郷、出羽にも久米は土着したと聞く」

「すると、大久米は我が祖でもあられる、と・・・」

「それはわからぬ。理由は何にせよ運が良いことに、そなたの父がここへ来るという。直接確かめられよう」

外から薄明かりが射し込み始め、一睡もしないまま夜が明けようとしていた。

「もう一時もすれば、暑くて眠れぬであろう。今のうちに休もうぞ」

主はそう仰せになると、床(とこ)を手のひらで数回叩かれ、ここへ来いと言う。

一瞬驚き戸惑ったが、その命に従うほかはない。

初めて契りを交わすことを新枕と宮中では言うのだそうだ。

郷に帰っても、この朝のことは良き思い出となろう。

結局一睡も出来ぬまま夜が明け空が白み始める。

しきたり通り、朝陽が本格的に顔を出し始める前に、君を起こさぬよう、そっと床を出て母屋を後にした。

女房部屋に戻ってきたちょうどその時、女御付きの女房が来て、娘の父が到着した旨を告げる。

娘は他の人らを起こさぬよう、静かに急いで荷を纏めて部屋を出た。荷とは言えぬほどに小さな竹籠一つのみであったから、それほど時は必要なかった。

父の待つ離れへ向かう途中、あの書庫へ立ち寄る。

おそらくは今後一生、このような立派な書庫には出会えぬであろう。全部読めなかったことが心残りで仕方ないが、いつかまた読む機会もあろう、と書を見渡して微笑み別れを告げた。


父は、私がこの邸に到着し、初めて君や女御にお会いした部屋で、一人座られていた。

その背中は堂々としていて、慈愛に満ちている。どのような思いで知らせを聞き、ここへ向かわれたのであろうかと、娘は後悔せずにはいられなかった。

そもそも、物語など私には無理であった。身の程しらずな田舎娘と陰で囁かれているその言葉どおりであろう。

「お久しぶりです、父上」

父は満面の笑みで両腕を広げて「我が娘よ」と言い、二人は抱き合って再会を喜んだ。

私の粗相と親不孝をお詫び申し上げようと口を開いた時、父は察したように、「さぁ、もう帰ろう。挨拶は不要じゃと女御さまは仰せであるからの。里の者がそなたを首を長くして待っているぞ」

その温かな言葉に涙しない娘がいようか。

「泣くな。誰もそなたを責めてはおらぬ。ようがんばった。私の自慢の娘だ」

いいえ、あなたこそが私の自慢の父です、と言いたかったが涙で言葉が詰まる。

「すまぬな。私にもう少し高い官位があればそなたにこのような辛い思いをさせずに済んだものを。許せよ、この父を」と言う。

娘は涙を拭きながら首を横に大きく振るのが精一杯であった。

父は娘の頭を撫でてやると、荷を持って「さあ行こう」と娘の手をひいて部屋を出た。


今日は天気が良くなるのであろう。

朝もやが庭に茂る木々の葉を濡らしている。

まだ誰も起きていない朝の、清んだ空気が腑を満たした。

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