第6章 大久米ふたたび

二.


「まぁ、言い伝えですから、どこまで真か」

長の瞳はうっすらと濡れていた。

「私は信じます。どことなく私と似ているところがありますからね。政が嫌いなところも、勘違いが過ぎてすぐに臍を曲げるところも、とても似ています」そう言う阿比麻呂も袖で涙を拭う。

「今からでもその歴史を変えられれば良いですが」

「というと?」

「一族の中に朝臣となった者はおらず、あったとしても、県主(あがたぬし)止まり。これでは天皇の近くで忠義を尽くし仕えるということはできますまい。あなたさまは都からお出でなさったようだが、もし今後そのような機会があれば是非とも久米の叶えられなかった想いを叶えて下され。久米を救ってやってくだされ」

「はぁ・・・。いや、実はここに来たのには理由がありましてね。私が久米の子孫だと知ったのは、大久米と会ったからなのです」

長はあからさまに怪訝な顔をする。

「いやはや。狂った男と思われましょうが。これが不思議な話でして、天智天皇と大久米が話していたのをこの目で見たのです。我が父武麻呂は大王付きの武人でした。大王は何故か我が父に全幅の信頼を寄せていて、何処に行くにも護衛させていました。ですが父はあろうことか大王を裏切った。大久米は父の行為にさぞやがっかりしたことでしょう。『さらなる子孫に託す』と何故言ったのか、これで合点がいきました」

「そうでしたか」

「しかし、皇族に仕えるなどということは・・・」

阿比麻呂の脳裏にふと不比等が浮かぶ。

噂どおり天智天皇の落とし胤、御子であるならば、皇統をお継ぎにはならない腹に生まれられたとはいえ、その血は受け継がれていよう。

あの人に仕えるならば、大久米はうかばれようか。

しかし、事の真相を聞いたところで答えてはもらえぬであろうな、と阿比麻呂はため息をついた。



「今更何だ」

庭の池で甘やかされて丸々と肥えた鯉に餌をやりながら不比等は言う。

「ですから・・・今の話を聞いていらっしゃいましたか」

「失礼な奴だな。そなたと一緒にするな」

「ずっと不思議でした。崇福寺にて都を見渡していた時に遣わされた勅使の言葉も、天武持統両天皇からあのように寵愛されたことも、その他にも多くのことが、その血筋に皇の血が通っていることの現れでしょう」

ほぅ、と不比等はそう言うと暫らくの間黙り込む。

「崇福寺には、天智天皇の薬指が埋められているそうだが、知っているか」

「はっ?」

「何をどうお考えになられたのか知らぬが、自ら指を切って埋めるなど、正気の沙汰とは思えぬ。だが一つの国を知らす者はそれで良いのだ。我らから正気と思われては、玉座に座ることはできぬであろう」

鯉はまだ口を開けてぱくぱくと奇妙な音を立てて恐ろしい顔をして餌をねだるが、不比等は立ち上がると腰をとんとんと叩く。

「私の母は歌人であった。山桜と山吹をこよなく愛していて、春になるのをいつも心待ちにされていた。私が記憶しているのは、父鎌足の邸の庭に咲く花々を二人で肩を並べて仲良く愛でられているお姿だ。貴人とその臣下の妻とは思えない雰囲気でな。まだ幼かった私にもそれが睦み合う仲だとすぐにわかった。母は私を呼び、膝の上に乗せると、貴人は『そうか。この子が。賢そうな子だ。我が子孫を頼むぞ』と言い、私の頭を撫でた。貴人と話したのはそれ一回きりだ。翌年母は病で亡くなってしまったからな」

「その貴人とは・・・」

「毎日のように父を訪ねてこられていたのを陰から見ていた。父も尊敬できる人であったが、その隣におわす貴人は違った。あの威厳と高貴さは血統であろうか。それとも、その自覚と意志が醸し出すものか・・・。真似しようにもなかなかにできぬものよ。だが心得だけはある。父とその貴人とが抱いたこの国に対する熱き想い、それを受け継ごうという何にも負けぬ心得だけはな」

この人が感情を人に見せるのは初めてではなかろうか、と阿比麻呂は口を開けたまま不比等を見ている。その瞳をうっすらと濡らすのを、初めて見たのだ。

「真相は私にもわからぬのだ阿比麻呂よ。父母と大王のみが知ろう」

阿比麻呂はにやにやと笑う。

「何を笑っているのだ。気持ちが悪い奴だな」

「生まれてきて良かった、と初めて思いましたよ。取るに足らない人生と思うておりましたが、また私は大きく勘違いしたままこの人生を終えるところでした。今の言葉が聞ければ真相などどうでも良いのです。久米は今度こそ間違えませんよ。たとえふたたび太宰府に飛ばされそうになっても、あなたが土に還るその時まで側を離れませんからね」

「ふん、何も知らないくせによく言う。あの太宰府の任がうまくいけば、そなたも兵部の要職に就けたものを。みすみす逃して、何が離れないだ」

「なっ、何故初めから言わないのです!?」

「そのように鈍感だから女に好かれぬのだ」

この人の好意を無駄にしたわけかと、さすがの阿比麻呂も元気をなくす。

不比等は「まぁまた機会も来よう。次が来るのを祈り待てば良い」と笑い言う。

それから二人でしばらく池を囲むように咲く山吹の花をただぼんやりと見ていた。

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