第6章 大久米ふたたび

一.


「阿比麻呂さま?聞いていらっしゃいますかな」

「はっ?あっと。これは失礼を・・・」

「だいぶお疲れのご様子ですが、続けてもよろしいか」

「あ、いや。申し訳ない。なにとぞよろしくお願いいたします」

阿比麻呂は語り部の邸を訪ねていた。


とある日。

天武天皇に喜ばしい情報が飛び込んでくる。蘇我邸にて舎人をしていた盲目の男が、蘇我蝦夷とともに全焼した史書類のその全内容を記憶しているのだという。

文首人(ふみおびと)安麻呂と阿礼と名乗る盲目の男は天皇の勅命により、すぐさま作業にとりかかったのは言うまでもない。

その安麻呂に頼みこみ、久米の部分のみを語ってもらっているのだ。

「大和平定後の久米のことは、阿礼さまは何も語らなかったのですね」

「そのようですな」

「そうですか・・・」

「次に久米の文字が出てくるのは、ずっと後の世。倭建命の遠征に膳手(かしわで)として付き従ったのが久米の者のようです」

「その後久米に何が起きたのか調べる手段はないものでしょうか」

安麻呂は暫し考ていたが、「であれば、久米村にある社に行かれるが良いでしょう」と言う。

「久米村・・・」

「何かしら残っているやもしれませぬ」


既に西日が強くなっていて、夕暮間近であることを知らせていたが、一晩たりとも黙って寝過ごすわけにはいかないと、取るものも取らずに馬を走らせて、久米村へと向かった。

幸いにも久米村は、初代天皇である神倭伊波礼毘古命が即位された宮跡の西南にあって、ここからは一刻もかからない。

かつて華々しかったであろう、橿原宮辺りで一度馬を降りる。

そこは阿比麻呂の腰ほどもあろうかという葦が一面に生えていた。

広場では子どもたちが駆け回って遊んでいる。

千四百年前、ここはこの国の中心となる場所であったのだ。

当時はどのような様子であったのか、今は偲ぶことしかできないが、ここから見る夕陽はさぞや美しかったことであろう。

久米の神社(もり)はお世辞にも立派とは言い難い、狭い境内に小さなお社が置いてあるだけの簡素な社であった。

久米村の長を訪ねると、長は快く阿比麻呂をもてなしながらも、官人がいったい何の用件かと訝し気に窺っている。

「大久米命の話を聞きたいのです」

「ほう。何故ですかな」

「お恥ずかしながら、この阿比麻呂もまた久米の子孫にあたるようでして、是非とも祖の話をお伺いしたいのです」

「久米は全国に散らばりましたからな。そういう方もおありでしょう。この久米村に留まっている者のほうが少ない」

「よろしければお話をお伺いできませぬか」

長はその場に腰をおろした為、阿比麻呂もまた一緒に坐した。

「言い伝えはご存知の様子ですな」

「私が知っているのは、この大和の地にたどり着き、初代皇后と神倭伊波礼毘古命との仲を取り持ったというところまでです」

「・・・これはこの久米に伝わる言い伝えですから、どこまでが事実であるかわかりませぬがよろしいか」

「構いません。何でも知りたいのです」



久米の子らは、大和平定を命が成し遂げられた後も次々と起こる叛乱や、大和へ歯向かう勢力らを鎮めることに全力を尽くした。

戦いを喜びとさえ思う久米の子らは、遠征の先々で命が与えて下さった御製を歌い、それにあわせ踊る舞を創り上げた。これが現在も舞われている久米舞の所以だ。

戦いは連戦連勝。

疲れ知らずの戦闘集団が大和に帰って暮らすのは都ではなく、宇陀の山中であった。

故郷である高千穂でも、あえて人々と共に暮らすことを避けて山中で生きる道を選んだ山岳民族であるから、と聞けば人々は特に不思議には思わなかったのだが、命はそれに納得されなかった。幾度となく、大久米に「都に暮らせ」と命じたが、大久米は頑なに拒み続けた。

都は今や、全国の主だった地から人々が集まり来る都となった。大久米はそれを喜ばしいと思い、我が王を誇りに思うのだが、そのような騒々しく煩わしい場所が苦手であった。

対する道臣は、畝傍山の西側の広大な土地を命から下賜(かし)され、大きな宮を次々と造り上げていた。

命は橿原宮のある南側一帯に広大な土地を用意させ、久米の子らに下賜するとの勅使を出した。無論、大久米はまたもや頑なに辞退したのだが、「そのように拒むならば、もはや私はそなたらをこの国に留めおかない」と命が仰せになった為、仕方なくこれを受けた。

大久米は命のもとに参じてあらためて感謝と忠義を誓ったのだが、命は一向に宇陀を出てくる気配がない久米に不満なご様子であった。

「暮らすための土地として与えたのだ。そうでなければ意味がない」

「みなで話し合いました。長いこと都に住むことは気が進みませんでしたが、初めて我らは人とともに住みましょう」

その言葉に、命はようやく満足げに微笑まれた。

久米の子らは早速、故郷から家族を呼び寄せて、この大和の地に郷を造った。素朴だが、みなが幸せに暮らせる温かな郷を目指して。

都人から見れば、久米の一族は一風変わっている一族であったはずだ。

一族の絆はとても固く、食事は男たち全員で焚火を囲み、輪になってとることが多かった。仲間としての意識を高めるために必要なことであった。山へ狩りに行くのは専ら若者たちだが、食料調達のみならず、狩りを戦闘に見立て、その腕が鈍ることがないようにしていたのだ。その努力があってこそ、命の期待に応えることができるというものであった。

そして久米らはいつも歌とともにあった。食事の時も狩りの時も、そして戦いにおいても、よく働き、歌い、笑う、素朴で純粋で素直な一族であった。

一族をまとめる大久米は、毎日のように命の宮へ行っては御前会議に加わるようになった。とはいえ、大久米が自ら意見を述べるのは軍事の実戦に関わることのみで、それ以外のことについては必要に応じて微笑むのみであった。国の政に関わることは正直よくわからず、発言をするのは道臣や葛城など主だった一族の長であったからだ。

一言も発せずに帰りゆく大久米を、命は気にかけて傍にお呼びになると、最近の久米の子らは元気であるか、何か困った事がないか等と声をかけられて心配りをされた。

大久米は「何も問題ございません。みな楽しく暮らしております」と笑顔で毎度答えるのだった。

だが、これが弓や剣の腕前を競う場、狩猟や馬術ともなれば形勢が逆転する。他の一族が誇る屈強な強者たちでさえ大久米の足元にも及ばない技術と精神力、そして集中力を大久米は持っていた。

命は、そんな誇らしげな大久米を見て、いつも嬉しそうに微笑まれていた。そういう場を何度も大久米のために用意させては満足そうにされるのであった。

大久米はそのような日々の中で、物足りなさのような、心にひっかかる何かのような、はっきりと掴めない何かが胸に詰まる感覚でいた。それ故か、一日の終わりを一人で過ごすことが日を増すごとに多くなっていた。

村にいたのでは考え事の一つもさせてもらえない大久米は、村の南側にある小高い丘に逃げ込むようにして登っては夜空を見上げる時間を楽しみにしていた。

頂まで登り切ると、眼下には月の光に照らされた川面が見える。久米の男たちはこの足の茂る川に小舟を出しては魚を獲るのだ。

見上げれば、無数の星が白い川を天空にも創っている。大久米は手を伸ばせばその星が掴めるのではないかと本気で思うことがあった。

「星たちは自由で良いな・・・」

そう寂しく呟く。

夏の夜を知らせる虫があちこちで鳴いて、夜風が草原をゆっくりと揺らして大久米の体の上を舐めるように通り過ぎていく。

天空の星が月とともに少しずつ中天へと移動していくその様を見ながら、『この空はこの国のどこに居ても見えるものだ。たとえ私がどこに行こうとも、命への忠が変わらぬものだ』と思う。

大久米は、近くに生えるすすきを一本折ると、その豊かな穂を握り言う。

「久米は我が誇り、我が全てだ。勇敢で何をも恐れない久米の子孫が弥栄に健やかで幸せで豊かであってほしい。どうか、このすすきの穂のように、次々と子孫が繁栄させ給え」心底から願う。


しばらくすると、郷から阿木が登ってきて慌てふためいた声で言う。

「大久米さま!今勅使がいらして、九州で大きな叛乱が起きたそうで、命がお召しです」

大久米は急ぎ命の元へ参じると、道臣さまらが命の前に控えていらした。

「おお、大久米よ。今ちょうど道臣と話していたところだ」

「はい、九州で・・・」

「うむ。大久米よ。今度は道臣が征伐軍の指揮をとる。ここのところ久米に負担をかけ続けているところであるしな。少し休むが良い」

「し、しかし、命・・・!」

「これはもう決めたことよ。此度の軍議も出なくてよい」

「命、せめて久米の子らは前線で戦わせてやって下さい!」そう願い出たが、命はこれを受け入れなかった。

当然、この仕打ちは到底納得ができるものではなかった。

これまで少しの疲れも見せたことはないし、今後とも見せるつもりはない。なのに、何故命は久米を外したのか。戦の経験ならば、道臣さまよりも久米の方が上だ。軍議にも出なくていいとは、何故であろうか。

大久米は、初めて命に裏切られた感じがした。

こんなにも忠義を尽くしてきたのにも関わらず、ここに来て久米を外すとは。

大久米の中に、初めて命に対する疑問が浮かぶ。


「大久米さま、何故我らが外されたのですか!!」

若者らは当然憤る。

「このところ連戦であった為、ゆっくり休めと仰せだ」

「疲れてなどいない!命にそう伝えてくださいませ!!」

若者たちは口々に戦いたい、と叫ぶ。

大久米の表情が苦痛に歪む。

「すまない。私の力不足かもしれない。もっと政の才が私にあればよかったのであろうが」

一番苦しいのは大久米さまだ、と誰かがぼそっと言うと、それから若者たちは一言も発しなくなった。


その日以降、久米の郷は暗く沈んだ氣に包まれたのは言うまでもない。

道臣と豪族らは連合軍を結成して華々しく出征していった、と部下がかすかに聞こえるほどの声で言う。

大久米は、あのすすきの丘に寝転んで考え事をする時間が日増しに増えていった。

人間とは、どんなに愛しても必ず愛されるとは限らない、孤独な存在なのか。

一族の為、敬愛する命の御為、今まで無我夢中に戦い続け、一心不乱に生きてきた。

それなのに、このような仕打ちをされるとは。命はもう昔のお優しい命ではないのか。それとも、変わってしまったのは我であろうか。

「もう、私はいらないのだろうか・・・」

御前会議ではろくな発言もできず、軍議に呼ばれることはなく、戦いにも行かなくてもよい、となれば、ここにいる意味どころか、生きている意味さえない。

九州の叛乱は、十月以上の月日を費やしてやっと鎮圧した。

その間、大久米の元には何度か命から顔を見せるように、との遣いがきた。遊宴の誘いや、御子がお生まれになったお祝いの宴などであった。

だが大久米は一度も顔を見せることはなかった。

「大久米さま、よろしいのですか」

相変わらずすすきの丘に寝転がっている大久米に阿木が問う。

「構わぬであろう」

「しかし、あまり断られすぎては、命に無礼なのでは・・・」

大久米は体を起こして、夕陽に染まる葦原と波立つ川面を見渡す。

「我らはなぜここにいるのであろうな」

「はっ?」

「この地は命の治める地となった。多少の叛乱は起きようが、命に従う豪族たちの軍で十分鎮圧できよう。私はこの通り政に関してはさっぱり才がない。すると、ここに私がいる意味は何であろうか」

「大久米さま・・・大久米さまは命の一番のお気に入りですから」

「それは我らの勘違いであったかもしれない。戦うこと以外に才のない我らでは命の傍に召されることは難しいのであろう。遠征でご一緒できただけでも誉れであった。そう思わぬか、阿木よ」

「大久米さま。いったい何を案じていらっしゃるのですか。少々悲観的になられているのでは・・・」

「高千穂の兄弟たちはどうしているのであろう」

「きっと、幸せに暮らしていますよ」

「だといいが。私が帰ったら驚くであろうか」

「大久米さま!そのように帰るだなどと。冗談でも仰せになりますな」

「阿木よ、冗談などではない。そなたがこの久米の郷の長になれ」

「どういうことですか。まさか本気で帰られるおつもりでは・・・」

「そのつもりだ」

「何故に?!困ります。あなたはこの久米の長。天津久米命の血を受け継しお方。私に代役など務まるものではありません!」

「そんなことはないよ、阿木。お前なら立派に務め上げられる」

「お願いです。どうか、御考え直しを」

「阿木。もう決めたのだ。命のところへ行ってそう伝えておくれ」

「そんな・・・」

「久米の子らを頼むよ、阿木」

久米の子らは、大久米がその夜のうちに一人村を立ち去ったことに大きな衝撃を受け、泣き出す者もいて、誰もが生きる気力を失ってしまったかのようになった。

その日の午後になり、「郷の半数ほどの男たちが遠征の準備を整えている」と阿木の元に報告が入る。

「おい、お前たち。何をしているのだ?」慌てて駆け付けた阿木が問う。

「今から大久米さまを追います。一人で行かせるわけにはいきませんから」

「何を言う。それは大久米さまの仰せに背くことになるのでは・・・」

「そういう阿木さまは、何故大久米さまを一人で行かせたのですか!我が久米が全力で守らねばならぬお人を!」

阿木には返す言葉がなかった。阿木には大久米を説得できる自信などなかった。行かせてしまったことを罪悪に思っているのは事実だ。

「お前たちの言っている事はわかる。しかし大久米さまの御考えは固まっていた。引き留める余地があれば、私だってそうしていたよ。あの時は他に選択肢などなかったのだ!」

「阿木さまのお立場はわかりますが、我らは大久米さまに付き従います」

そう言い放つと男たちは皆連れ立って去っていった。愛する女子どもを残して。


こうして、団結力の強かった久米は分裂してしまう。

その後、旅立った男たちが大久米さまを見つけたのかどうか、九州に無事に辿りついたのかどうかもわからない。

阿木は動揺する郷の人たちを諫めるのに時間を要した為、命へ事の次第を報告しに参上したのは、大久米が郷を出て行ってから三日後のことであった。

阿木は大久米の側近中の側近で、御前へ参じる時にはいつも大久米に付き従っていた為、命は温かく迎え入れて下さった。

「阿木か。大久米は一緒ではないのか。この半年いくら誘っても顔も見せぬ。いい加減私が出向こうかと思うてはいたが、なかなか忙しく向かえぬ」

命の御声は相変わらず威厳があったが、少しお疲れのご様子であった。

「何か困っていることはないか。弓矢や剣は足りておろうか」

相変わらず優しいお言葉をかけて下さる命に、事の成り行きをどのように切り出したら良いものか阿木は迷った。

「命・・・申し上げるのが遅くなりましたことを心よりお詫び申し上げます」

「どうしたのだ、阿木よ。臆せず何でも申してみよ」

「我が主、大久米は・・・高千穂へと戻られました」

「大久米が戻った、と」

「はい。命さまのお傍近くにいても、何の役にも立てないと仰せになり、私に久米を託して旅立たれました」

「・・・大久米一人でか」

「はい。しかし、久米の半数は大久米さまと共にゆくと申して後を追いかけるように郷を出てゆきました為、残っている久米は半数にございます」

命がどのような表情をしていたか、額づく阿木には見えなかったが、それ以降、命は押し黙られたままだ。

「どうぞ、我が主の無礼をなにとぞお許しください・・・伏して心よりお願い申し上げます」

「阿木よ。教えてくれぬか。何が気に入らなかったのであろう」

「大久米さまは政の才は一切なく、情けないと仰せで、ずっと気に病んでおいででした」

「そのようなこと・・・」

阿木は意を決して申し上げた。

「ですが、我ら久米にとって、戦いに臨めないことは何よりの心痛でした、命」

「此度の九州征伐か」

「はい・・・」

「私はあれがかわいくて仕方ないのだ、阿木よ。高千穂の我が息子と歳が幾ばかりかしか違わぬし、あれの真っ直ぐで素直なところが人を魅了して惹きつける。あれが歩けば、臣も民も大久米に声をかけるであろう。それを見る度に嬉しく思っていた。私も惹きつけられた一人だ。気がかりはあの繊細さよ。宇陀の山中にいられたのでは、気に留めてやることが出来ないが、我が宮の側におれば気にかけてやれる、この宮にすぐに参じられよう。そう思ったのだが・・・」

命は目を伏せられて立ち上がられると、「私の力不足だ」と仰せになり、下がられてしまった。

すると、隣にお座りになられていた皇后さまが口を開かれる。

「此度の九州征伐は、どうしても久米に行かせることができなかったのですよ。叛乱の首謀者に大久米の兄弟らが加わっているとの情報がございましたから」

「なんと・・・!」

「命はずいぶんと悩まれておいででしたが、征伐せぬわけにもゆかず、かといって、大久米を向かわせるわけにもゆかず。その結果、大久米を外して軍を向かわせたのです。大久米を軍議から外した理由も、もうおわかりでしょう」

阿木は皇后さまを前に、号泣した。

なぜ、もっと早くにこの情報を聞いておかなかったのか。

『大久米さま・・・!!』

阿木は郷に戻ると、皆を招集してお伺いした全てを話して聞かせた。

泣き出す者、叛乱者を罵る者、大久米さま!と叫ぶ者・・・。

どの声色も、暗くなりかけた空に響く。

この声が、大久米さまに届けば良い。

煌く星々や、明るい三日月や、連なる雲らにこの久米の子らの叫びや切ない思いを伝えてくれと祈る。

だが、大久米も郷を出て行った男たちの行方もそれ以降、伝え聞くことはなかった。

阿木はその後、この地に小さな神社を建てた。

久米の子らが、その誇りと切ない物語とを忘れずに生きて行くように願って。

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