第4章 天命開別命

「武麻呂よ、私にそれを渡せ」


その名に、阿比麻呂は身震いがした。

我が父の名を呼ぶ君とは・・・。

まさか、そのようなことがあるはずがない。


「我は天命開別命(あめみことひらかすわけのみこと)である」


そんなはずはない。

がくがくと震える体をもはや支えることもできず、地面に両肘をついて鼻を地面に押し付けるような格好となっている。

幼い頃、父の陰に隠れてちらりと見上げた中大兄皇子は、「隠れていないでこちらへお出で」と阿比麻呂を掴まえて抱き上げた。

父は「この子もまた国一番の武人になりましょう」と自慢気に言った。

「それは良い子だ」と阿比麻呂に微笑んだ。

その大王が今、目の前にいる。

「おそれながら、その方はもう崩りされて・・・」

言いかけてから、『行方知れずだ』という不比等の声が脳内にこだました。

まさか、まだご存命であったとでもいうのか。

すると阿比麻呂の胸や腹の辺りから、深い海のような真っ青な光がほとばしると、内臓をえぐりだされるような感覚になり、耳を裂くような、キィーンという耳鳴りとともに意識が奥の方へと追いやられた。


「皇子・・・」

阿比麻呂ではない誰かが、阿比麻呂の体を乗っ取って喋っている。

「久しいな、武麻呂よ」

乗っ取っているのは我が父か。

武麻呂は四つん這いになって、這うようにしてその貴人の前まで行くと、刺繍が美しく施された袴の裾をぎゅっと掴んだ。

「お、皇子・・・なぜ、なぜここに?私を罰しにおいでですか」

白い御顔、細く鋭い目、薄い唇の周囲には整えられた口髭が凛々しい皇子は、ふっと微笑むと「可哀想にの」と言う。

「武麻呂よ。そなたが罪を感じる必要はない。全て終わったのだ。あの時私が言った言葉は本心である。『そなたに殺られるならば本望だ』と。そのように深く傷つき、激しく後悔をすることなどないのだといい加減覚(さと)ってはどうか」

「あぁぁ」武麻呂は周囲が割れそうなほどの嘆きの叫びをあげて言う。

「罰してください!わたしを。この罪が消えゆくまでどうか罰してください!」

皇子は深く溜め息をつくと、「どう伝えても、そなたの耳には届かぬか」と言う。

皇子が武麻呂に注ぐその温かな氣と慈愛に満ちたその表情は、武麻呂にとっては苦しみでしかない。

「武麻呂よ、私にそなたの持っているものを渡せ」

武麻呂は袋から鏡と剣と玉、それに鈴を取り出して、そのすべてを差し出した。もはや阿比麻呂にはどうすることもできない。

皇子は目を閉じ氣を高められた後、玉を地に置き、その手前に剣を、玉の奥に鏡を置いて縦一列に神宝を並べた。

鈴を手に取って、その神物の周囲をぐるりと一周する。

東西南北に当たる箇所で立ち止まると、リリリーン、と鈴を一つ鳴らした。

元の位置に戻った貴人は胡坐を組んで座ると、再び目を瞑って氣を集中させる。

すると、その体から湯気のように霊気が立ち上り、その霊気が神宝の氣と一体となって一つの光輝く玉となった。

その玉は頭上高く昇り、太陽のように辺り一面を明るく照らし、神々しく輝いている。

「武麻呂よ。これで罪咎などなくなった。そなたが奪ったはずの神器はこの手に戻された。もう良いのだ。これ以上悲しむ必要も、後悔する必要も、苦しむ必要もないのだ。私にも責任があるのだから。私がそなたを責めないと言うているのに、他の誰がそなたを責めようか。忘れてはならない。神仏は決してあなたを責めたりはしない。この世に善悪を決めているのは人間だ。神仏ではない。神仏は言うだろう。「盗んだのならば返して謝れば良い」と。それで許されるのだ。それ以上に裁きたいのならば、それは人間の愚かさだ」

その言葉を聞いていた阿比麻呂の体から、何かが解けていく感じがした。

胸に詰まっていた何かの感覚が、頭の片隅にあった何かが溶けてなくなっていくのを感じていた。

おそらく、目の前で「我が朋よ」と大王と抱き合う父も同じ心地であろう。


大王は宮仕えの者だけでなく、民らからも深く愛されていた。

強い意志で国を導き続けたほとばしる情熱があった。

神仏の御心に寄り添う政を好んだ大王は、民らの租税で賄われる食や衣や住まいの全てを質素倹約の対象とし、それを徹底させたのだ。民らにも「大事はないか」と声をかける大王などそれまでいなかったであろう。

だが、「私はこの国の王となるべきではない」と言い即位されなかった。巷ではさまざまな噂が飛び交ったが、信心深い大王が崇高な理由以外で即位されないはずがない。

その強い志でこの国の始まりを創られたのだ。


またもや光で世界が満ち始めた。

愛しき父と大王の姿はどこにも見えなくなり、そのあまりの眩しさに目がくらむ。

そしてそのまま、光に包まれて、阿比麻呂の意識は朦朧とし始めた 。


※※※


娘は、何も存在しないであろう無の空間に閉じ込められていた。

そのあまりの‘無’に恐怖さえ覚える。

この空間の形は丸か四角か、奥行きや広さがどうなっているのか、自分がどれほどの大きさなのか、何一つ判断する術がない。

世の始まりに生まれた神は、このような場所におられたのであろうか。そうだとするならば、自分という存在以外がなんと愛おしく、有り難いことか。他人がいることで、私という存在が何であるかがわかる。

人間とは、純粋な光をいうのだろうかと思う。その光は平等な形と平等な輝きと平等な能力を持っているはずだ。

光という言葉に反応したかのように、頭上にうっすらと光の輪が浮かび始めた。やがてその輪は地上に降り注ぐ陽の光のように七色に輝いて娘を照らし始める。


その光に包まれて見えてきたのは、たくさんの銀杏の大木がそびえ立つどこかの山中であった。

すっかり黄色い葉を落とし、葉の上を歩けばふわふわしていて心地がいい。

すると、白い衣姿の男が、数名の武人らしき男たちに取り囲まれている。男は毅然とした態度でその刺客に立ち向かおうとしているようだ。

武人たちは剣を構えて、今にも切りかかろうと息が上がっている。相手は丸腰のようであるのに卑怯ではないかと思えたが、よく見ると、背後に逃げ道がある。男はそのことに気づが付いている様子だが、何故か逃げずに立ち向かおうとされている。

近づき見てみれば、その表情には余裕の笑みさえ浮かべている。堂々たる態度は、王者の風格そのもの・・・。

それは天智天皇であらせられた。

何故か朝服の袍(ほう)を御召しになっていない。

刺客たちは興奮し、息が荒々しい。

刺客のうちの一人が大王に斬りかかった。恐怖からなのだろう、気合の入った「やー!」という声が裏返った。大王はうまく避けたように見えたが、左の二の腕を少し切られたようだ。

怖気付く気配が少しもない大王は、にっと笑うと、『どうしたのだ。もっと勢いよく来るがいい』と仰せだ。なんというお方であろう。死をも恐れない、その威風堂々たる態度。

次の刺客の一手も、なんとか避けたが、左肩を負傷した。さらに次の一手で背中を大きく負傷してしまった。その場に仰向けに倒れた大王に、首謀者らしき人物が近づいていく。明らかに、その首謀者は全身が小刻みに震えている。

大王は目を閉じて言う。

『武麻呂よ、責めるつもりはないが、神器を隠したのはそなたであろ』

武麻呂は答える気配がないが、動揺の様子から図星であろう。

『次に受け継がれるのならばそれで良い。さぁ、どうしたのだ、武麻呂よ。殺れ。我が人生に一切の後悔はない。他でもない、そなたに殺されるのならば本望である』

そう仰せになると大王は目を閉じて座禅を組むように座られて、動きの一切を止めた。

剣を大きく振りかざし、刃を天に向けた格好のまま、首謀者の男はしばらく止まっていたが、やがてものすごい音量の声とともに、大王を斬りつけた。

それ以降、大王は動かなくなった。

斬りつけた男は膝をがくっと落とし、その場で泣き崩れた。

男たちの刃は真っ赤な血に染まり、飛び散った血は黄色い銀杏の葉を茶色に染めている。

泣き崩れている男を残し、刺客たちは大王を持ち上げるとどこかへと運んで行ってしまった。武麻呂は、周囲に誰もいなくなってもなお、しばらくうずくまったまま動かない。

ふと顔を上げると、ほふく前進で地面を引きずりながら数メートル前に進み、大王が履いていたと思われる沓の片方を拾いあげた。

そしてそれを胸に抱き天を見上げて雄たけびをあげた。


この壮絶な風景を隣でともに見ていた男が一人いる。

武麻呂の息子、阿比麻呂だ。

阿比麻呂は、真っ青な顔をして、泣くとも笑うともとれる顔で父を見つめている。

「父上・・・あなたは何ということを・・・」


阿比麻呂は暫く打ちひしがれていたが、はっとして顔を上げる。

銀杏の大木の間にどこからともなく現れた人影があった。

その人は、情けなくむせび泣く武麻呂を見て目を細めている。

「大王・・・」

たった今、男どもによって運ばれたはずの大王であった。

大王の足元には、剣や靫を携えた武士姿の若い男が片膝を折って傅いていて、その顔もまた、この状況を深く憂いているように見える。

その武士は跪いて大王に申し上げた。

「全ては我が責任。どうお詫び申し上げれば良いやら・・・」

「そのような意味を成さない詫びが何の役に立とうか。仕方のないことよ。この末は、そのまた子孫へと託すがよい」

「そうなりましょうが、いつになる事やら」

二人はいったい、何の話をしているのであろうか。

この男は誰であろう。

大王は、懐からあの鏡を出すと、いつか阿比麻呂がしたように鏡面を空に向けて陽にかざした。

すると、どこからともなく降りてきた光が鏡面に反射して眩しい光となり、阿比麻呂は瞬時に目を閉じた。光がおさまった頃うっすら目を開けると、そこにはもう大王の姿はなく、いるのはあの若い男だけであった。男はにっこり笑うと、阿比麻呂に手を差し伸べる。

「そなたの父を心配するな。思うならば我が一族の穢れを天へと返せ。そなたにはできるであろう。私が犯した過ちをこれ以上繰り返させてはならぬ」と言う。

「あなたは誰で、それに、何の話をされているのでしょうか」

「私はそなたの祖、大久米だ。そなたに託そう。我が一族を」

「し、しかし、託すと申されても、私は何をしたら・・・」

「神仏に祈れば良い。真摯な願いは山をも動かす」

さらに問いかけようか、という時に、あの石鎚山でのように、突如として吹きつけた突風が阿比麻呂の背中に当たって、それはそれは強引なまでに後ろに引っ張られると、一瞬空間が歪んだようになって、次の瞬間一気に地面に叩きつけられた。

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