第3章 阿比麻呂

六.


あの鬼女がいた辺りを通らなければ次の村には進めず、他に回り道はないと翁は言っていた

「此方には神宝がある、問題ないさ」

その浮き足立った早歩きの様は、男の心境を物語っていて、そして「うぉっ」と叫んだ。

『女かよ』と言いたかったはずだ。

微笑む例のお地蔵さんの前にもたれかかるようにして行き倒れている旅装束の女がいた。

またもや鬼女のお出ましか、と背中に悪寒が走る。

だがこの道以外に道はなく、進まねばならない。

「いててて・・・」

鬼女とは思えぬほどか弱い声で泣く。

その声からして、まだ年若い娘のようであった。

無論武士は何食わぬ顔で女の横を通り過ぎるのだが、

「いててて・・・あぁ、足が痛い・・・」

まるで自分に声をかけているのかのように女は言う。

憐れむ心が阿比麻呂の歩みを少し遅めたその時。

リリリーン・・・

はて。鈴の音がしたような・・・。

気のせいかと歩みを進めると、やはり、リリリーン・・・と鈴の音がする。

二度目の鈴でようやく翁にもらったあの鈴を思い出したが、鈴はますますしつこく鳴り響いている。皮袋の中に入ったまま、何の衝撃もなしに。

阿比麻呂は皮袋を開け、鈴を取り出す。

「いったい何故そのように鳴くのだ」

答えるように鈴はリリリーン・・・と鳴く。

「ではこちらから問おうではないか。このままあの東の山の向こうへ進もうと思うが、良いか」

鈴は黙り込む。

「あの娘を助けろ、とでも申したいか」

すると鈴はリリリーン・・・と鳴いた。

「!!」

返事をする鈴か。あの翁め、いったいどこでこのようなものを手に入れたものであろうか。

しかも、よりによってあの娘を助けろ、と言うか。

これもまた神宝だとすれば、この鈴を無視するのも気がひける。

「あの翁はいったい何者なのだ・・・」


阿比麻呂は仕方なく来た道を引き返した。

娘は相変わらずお地蔵さんの横で「いててて・・・」と言いながら、着物の上から足を擦る仕草をしていた。

正面から見る娘の顔がその辺の娘と変わりないことを見て安心し、緊張が和らぐ。

「娘よ、怪我をなされたのか」

阿比麻呂は微笑みながら娘に話しかける。

「はい。先日、石鎚の山奥の、川原の石で足をくじいたのでございます」

「なんと!あの川原に行かれたのか」

「はい、参りましたが・・・?」

娘は顔を上げて阿比麻呂の目を見る。

見れば美しいこの娘もまた、翁のように訛りのない言葉を話し、その雰囲気は都人のように品のある娘であった。このような娘を、危うく放置したまま帰るところであった、と思う。

「すぐ近くに、村がありますので、そこへ一緒に参りましょう。あそこならきっと親切に休ませてくださいます故」

「いいえ、戻りたくはありません。進みたいのです」

「しかし、その足では歩けますまい」

「いいえ、できますわ。あなた様がお持ちになっている軟膏をどうかわけて下さいませ」

「軟膏?」

軟膏など阿比麻呂は持っていない。一体何を言っているのか、と娘を疑い見るが、娘は微笑んだまま軟膏を心待ちにしている様子だ。

「娘よ、私は軟膏など持っていないのです」

「いいえ。皮袋の底に大切にしまわれているではありませぬか」

眉間に皺を寄せたまま阿比麻呂は皮袋を開けてみる。

「ほら、軟膏などどこにもないであろう」

と言おうとした時、身に覚えのない笹籠が出てきた。まさかと思い、急ぎ蓋を開けてみると、そこには白い軟膏が入っていたのだ。もはや、驚く気にもなれず、腹立たしいほどに疑問だらけだ。翁がいつの間にか持たせていたのだろうか。鈴ばかりに気を取られていて、気が付かなかっただけだったのか。腑に落ちぬことばかりが起きる。

とにもかくにも阿比麻呂は、その軟膏を娘に渡すと、娘は人目も気にせず裾を捲り上げて早速足に擦り込み始めた。

娘の足を、ちらりとでも見てしまった阿比麻呂は、顔を赤らめて娘とは逆の方向に顔をやる。

「この御恩は忘れませんわ。どうか、私も一緒にお連れ下さいませ。必ずやあなた様のお役に立ちましょう」

「いえいえ、その足で、しかも娘御の脚ではとても無理でしょう」

と言い終わらないうちに、娘はすっと立ち上がると歩き始めてしまった。

「あ、おい。娘よ」

「あの山の向こうへ行かれるのでございましょう。御供いたします」

何故それを知っているのかなどと問う暇もなく、娘は驚く速さで歩き、鍛えているはずの武士は追いつくのがやっとであった。怪我というのは嘘であろう。あの翁といいこの娘といいまったくもって常人ではない。これでは私が娘の御供をしているようではないかと、可笑しくて一人で笑う。

仲間がいるのは悪くはないなと思い直して、ここはとりあえず娘とともに旅を楽しもうと思えてきた。


娘とともにひたすら黙々と山を登っては下り、里を歩き、また峠を登っては下りを続けた。その間、ずっと娘が先導するように歩き、一定の速さは衰えることがなかった。

杉の大木が乱立している山中に入った時のことだ。

大木の合間に咲いている山橘の花にすっかり夢中になり、よそ見したまま歩いていた阿比麻呂は、突然立ち止まった娘に気がつかず、娘の背中に思いきりぶつかってしまった。

「これは申し訳ない。娘よ、何かありましたか」阿比麻呂は鼻を押さえながら言う。

「あれをご覧になって」

娘の肩越しに、娘の指差した方角を見た。

辺りはうっそうとした樹海で薄暗いが、ひと際大きな杉の大木の根元に太陽の暖かな光が射し込んでいる一角があった。

「娘よ、あの陽の当たる場所がどうかしたのか」

娘は阿比麻呂の顔をじっと睨むようにして見ると、

「お気づきになりませんの?あの苔、不自然でございましょ」と言う。

目を細めて凝らすが、どこにも見えない。

杉の大木に近づいて腰を下ろし、苔を探し見る。

「おお、これか」

大木の根元付近は朽ちているのか、はたまた誰かの故意でか、拳三つほどの大きさにくり抜かれていて、その中に見事なまでに丸い青々とした苔があった。

ちょうど阿比麻呂の手におさまるほどの大きさのようであった。

「娘よ、これのことを言っていたのか、美しい苔よの」

そう言いながら背後を振り向くと、そこに娘はいなかった。

しばらく周囲に呼び掛けるが返答がない。

先に行ってしまったにしろ、里に下りてしまったにしろ、このように短い時間で姿が見当たらなくなるほど視界の悪い山道ではなかった。

何が起きたのか全く分からなかったが、やはり女にはとことん縁がないのかと苦笑いする。

阿比麻呂は気を取り直して再び苔の前にしゃがむと、まるでその苔が神の祠であるかのように、手を合わせ目を閉じ祈った。この美しい苔に出会ったことへの感謝と、あの娘が無事であることを。

都に戻ったら、この美しい苔を語って聞かせてやろうと微笑み一礼をして先に進む。

するとまたもや、リリリーン・・・と鈴が鳴る。

もはや驚きは一切なく、出るのは溜め息ばかりだ。

「またか。今度はいったい何だ」

阿比麻呂は周囲を見渡すが、とりたてて何があるわけでもない。里へ一度下りて娘を探せ、という意味なのかと思い、踵を返して山を下りようと歩き始めると、

リリリーン・・・と再び鈴は鳴く。

「いったい、何をしろと言うのか!」ついに堪忍袋の緒が切れた阿比麻呂は、鈴の入った袋に向かい叱り飛ばしってしまった。

すると突然、あの娘が目の前に現れた。

「うわぁ!!」

驚いて腰を抜かした阿比麻呂は、驚きすぎて、一瞬息ができなくなった。

「な、な・・・いったいどこに・・・?!」

娘は無言で微笑み、すっと指を上げた。

その指先は阿比麻呂に向けて、ではなく、阿比麻呂を通り越した後方を指している。

阿比麻呂が後ろを振り返ると、それはあの苔のある方角であった。

「・・・苔か?どうしろと言うのだ」

娘は阿比麻呂の皮袋を指差した。

「持って帰れというのか」

頷いてほほ笑んだまま目を閉じる。

「そなた、何者なのだ」

と問うと、娘の胸元に赤い布が現れた。そのうちに右手に錫杖(しゃくじょう)を持つ、満面の微笑みをたたえるお地蔵さんの姿となったが、間も無くして光に包まれて消えてしまった。

阿比麻呂は、腰を抜かしたままの体勢で動けなくなった。

あのお地蔵さんだったのか。

まさか、女の姿に変化されているとは・・・。

まさかとは思うが、あの翁もお地蔵さんが変化していたのではないか・・・。するとあの鬼女を見せたのももしや・・・。

阿比麻呂は首を数回振って頭の中のお喋りを止めさせると、立ち上がって尻の土を払い、里のある方角に向けて深々と一礼をした。

「なんとも不思議なことが続く旅よ」阿比麻呂は苦笑いする。

苔玉にも独自の世界があって、匂うような究極の緑は五感と臓腑と想念をその世界の虜にする。

指をそっと伸ばして苔の上部に触れると、苔は気持ちの良いくらいきれいに剥がれ落ちてしまった。そして現れたのは、薄桃色をおびた透き通る美しい玉であった。よく見ると、玉の中にも七色に輝く小さな虹があって、虹は神秘的な黄金の光を纏う。

「なんと美しい・・・。神々の玉よ。力がみなぎってくるようだ。この感覚は・・・」

そう、この感覚は、あの時鏡が放った光の柱に包まれたものと一緒であった。肌寒い山中だったが、臍の下辺りから発している熱い氣は、体の隅々まで行きわたるようだ。

『剣や弓は腹から伸びる手が使う道具だ。普段から腹で考え、腹で話し、腹で物を取り、腹で感じろ』と父は教えた。

「そなたは時折、頭と心と体が別々に動いておるがの」と笑う不比等が思い浮かんで、はっと我に帰った。

とりあえず、これで一通りの神宝が揃ったことになる。

「そろそろ、太宰府へゆかねばな」

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