第3章 阿比麻呂

四.


翌日の朝、石鎚山の雪帽子は大きくなっていた。昨晩は冷え込んだのだろう。

一晩たって、やはり中途半端に下山してしまったことへの気持ちの悪さが拭えず、せめて中腹まででももう一度登りたいという阿比麻呂に、村人たちはとてもじゃないが登るのは無理だ、どうしてもと言うのならば里へ戻ることはほぼできない、と口を揃えて言う。

仕方なく阿比麻呂は諦めて、さらに南を目指すこととした。

この島は、お椀のような低い山が連なっていて、一つの山の峠を越えるのに時間は要さなかったが、いかんせん峠ばかりであった為、体力は異常に消耗した。その為途中の村々で休ませてもらうことが多かったが、どの村の人々も温かく阿比麻呂を迎え入れ、そして笑顔で送り出してくれた。

ある日、海に面した小さな漁村に立ち寄った時のことだ。

いつもの如く、長老と思しき翁に滞在の許可を得る。

翁は「ごゆっくりされよ。して、どこにお行きなさるのか」と問う。

翁はこの辺りの訛り言葉ではない、大和の国の言葉を話したことに阿比麻呂は少し驚いた。

「大宰府に赴任する途中、この島に寄っただけです。なので特に目的は何も決まってはいないのです。なぜかこの島に惹かれ、ただ歩きたかった。それだけです」

まあ、不比等の勧めにのっただけなのだが。

「ほぉ。今までの旅の話を聞かせて下され」と翁が言うので、阿比麻呂は多くの人々や村との出会いや途中での出来事を話した。

そしてあの石鎚山での出来事をも話す。

翁はしばらく考えた後、突然立ち上がって「ついてきなされ」と言い、家の外へと出て行ってしまった。

阿比麻呂はその展開についていけず呆然としたが、手にしていた粟団子を名残り惜しそうに皿に置いてから翁の後を慌てて追う。

老人の散歩に付き合わされるのかと思いきや、阿比麻呂が小走りになってしまうほどの速さで翁が歩いた為、汗ばむほどの良い運動となった。

半時ほど歩いた頃、翁が「あれじゃあれしゃ」と指し示した方を見てみると、こんもりと小高い丘の頂はちょっとした林のようになっていて、高倉の屋根だけが微かに見えた。倉のある丘の麓には立派な二重の柵があって、剣や弓を携えた門番がいる。

翁が現れると、焚き火を囲むようにしてしゃがんでいた門番たちが一斉に立ち上がってこちらへ駆け寄り一礼する。

「ご苦労じゃの。ちと、中へ入るでな」

そう言うと、門番の一人が柵の鍵を開けて門を開く。柵から倉の入口まではそう遠くはなかった。

「さぁさぁ中へと入りなされ」と言いながら翁は、倉の大きくて頑丈そうな鍵を開けて阿比麻呂を中へと案内した。


倉の中はなんとも言えない異様な氣で満ちていて、思わず顔が歪む。息苦しくなるほどに濃密な氣で満ちていて、気管も臓腑も燃えるような熱さだ。

いつだったか、斎宮に供奉して内宮へ参った時にもこのように熱くなったことを思い出した。

翁は、倉の一番奥の隅にある編み籠を、すっと手前に引き出すと、中から布に包まれた長い物を取り出して阿比麻呂の前に重々しく置いた。

「これは一体・・・?」

「どうぞお開けくだされ」

阿比麻呂はそっと手を伸ばしてそれを掴んだ。掴んだ感じでそれが剣であることにすぐに気がつく。

武人阿比麻呂は、やはり剣となると高揚を抑えることができず、緊張と期待で胸高鳴り、その手は小刻みに震えた。

紋付き紫染めの絹布を、慎重にゆっくり広げてゆくと、出てきたのは黄金の装飾が施された鞘であった。

色とりどりの、見たことのない宝石がぎっしりと施されている。

翁曰く、この剣は、その昔富士に降り立った神が、噴きあげる溶岩で練り上げ造ったもので、さまざまな武人に愛されたが、誰もがその荒ぶる剣を手に余し、一時は宇佐に奉納されたのだという。

その後も翁は何事か説明していたのだが、その声が遥か遠くに聞こえるほど、阿比麻呂はこの美しい剣に夢中になっている。

「あなた様の持っている鏡は、おそらく出雲で造られたものでしょう。出雲の水氣を受けて造られし鏡と、富士の火氣を受けて造られしこの剣が今、ここで出会った。なんとめでたいことか。『火水(かみ)』が揃ったのじゃ」

「火水・・・しかし何故今、私にこれを見せるのでしょう」

「おかしなことを仰せになりますな。今まさに必要であるからという理由で十分でしょう。伝説では、『鏡、剣、玉』がそろえば三種の神器となり、天津神の子、邇邇芸命がこの地へ降りてこられた時に身につけられていたものが揃う」

「しかし、それらはすでに天皇がお持ちのはずでは」

「ですがこれらも神宝であることは確か。何故ここにそれらが揃いつつあるか考えるだけ時の無駄というものです。考えたとて、それを確かめる術はありますまい。これで私は宝剣の重圧から解放さえますな」

「お、お待ちください、翁。それは私にこの宝剣を預けるという意味ですか。何故私に・・・」

「『青き水とともに出でる青年こそ、この宝剣に相応しい』と先代の長は言うておりましてな。水鏡を持つあなたのことを示しているのではとすぐにわかったのです」

「しかし私がこれを持ち帰ったとして、どのようにしたら・・・」

「それはあなたに判断できることではあるまい。神々がご判断なさり、ご指示なさること。言われたとおりにすればよいのです」

「しかし・・・」

「心配は無用の長物ですぞ」

「はぁ・・・」

混乱する阿比麻呂から宝剣を取り上げると、翁は大切そうに布にくるみ、ちょうど良い大きさの笹籠に入れ、さらに麻袋に入れて阿比麻呂に持たせた。

「頼みましたよ」

「はぁ・・・」

頼りなく思える若者だが、こう見えて弓や刀を持たせれば、国で一二を争う腕の武士である。その実力は不比等に「随身はこれ一人で十分だ」と言わしめたほどだ。

だがその武士はこの夜一睡もできなかった。

鏡と剣が自分の枕元に置いてあると思うだけで妙に使命感に駆られてしまうからだ。寝返りをうっては急に勢いよく起き上がり、鏡と剣が無事であることを確かめ、また眠りにつこうとする。目が冴えて瞑っておくこともできない落ち着きのなさで、とうとう東の空が白むまでそれを続けた。

翌朝、一睡もできなかった阿比麻呂は、世話人である夫妻に向かって喋り続けた。心優しい老夫婦は終始微笑みながら聞いていたが、さぞや迷惑であっただろうと後々後悔することになる。


食後、この家の主人から勧められるがままに近くの神社へ参拝する。

真新しい榊と米と水が御供えされ、綺麗に手入れされているが、小さな社が鎮座するだけの寂しい境内だ。

昔、この辺りを須佐男命(すさのおのみこと)が通ったという伝説があるらしく、御祭神は須佐之男命と倭建命(やまとたけるのみこと)で、いずれも天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)に所縁(ゆかり)のある神々であった。

この村は剣の神々に護られし村であろう。

神社の階段に座り、この平和な剣の村を見渡してみる。

長閑で緑豊かな良い村だ。なだらかな丘には田畑が広がっていて、その合間には家が点在している。村の子どもたちのはしゃぐ声が風にのって境内まで届く。

こういう生活は楽で良いものだな、と思える。

阿比麻呂の父武麻呂はもともと若狭の出身だ。一度も訪れたことはないが、きっとこのような穏やかな村で育ったのだろう。都に出てこなければ、今頃若狭の村で平和な生活を送っていたのであろうか。

国家の為に尽くすのは良いことだが、公達のように我先にと争うように出世をしたいと願っているわけではない。ただ、死んだ時、良い人生であったと思いたいだけなのだ、と阿比麻呂は思う。

「・・・太宰府か、面倒であるな」

いつの間にやら三種の神器を収集する旅となっているが、あまりのんびりしていると太宰府への到着に影響しては元も子もない。赴任まで三か月の猶予を持ち都を出たのだから、あと少しばかりの余裕があるだろう。

もう少しだけ続けようか。


翌早朝、早々に村を出た。

あの神社の前を通り過ぎるとき、神社上空を飛ぶ数羽の白い鳥があった。

倭建命の御魂が白鳥(しらとり)となり、空へ飛んで行ったという有名な神話がある。数々の武勇を残す倭建命は、その強さゆえ父王に疎まれて愛されなかったという。

阿比麻呂にはそれが真実とはどうしても思えない。

蝦夷へ向かう倭建命に父王は「言向(ことむ)け和(やわ)せ」と命じて武器を一切与えなかったと聞けば、誰もがひどい仕打ちであると言う。だが、見方によっては武勇を誇った倭建命への最高の贈り物であるように思えないだろうかと思えて仕方なかったのだ。

やがてその数羽の白鳥は、近くの田畑に降り立って何かをつまんでいる。

都の近くにある飛鳥川にも毎年白鳥は飛来して、冬の到来を人々に知らしめるのだ。

渡り鳥というのは、自由さと純粋さの象徴であるのに、一つのところに留まれないことからか、淋しさや空しさをも感じさせる不思議な鳥だ。だからこそ、多くの歌人に詠まれるのであろう。

すると、一人の身なりの良い娘が田畑のあぜ道に立って、白鳥たちへ餌を撒いている。

老女を一人傅(かしず)かせているが、その顔はよく見えない。何を撒いているのだろうかと見れば、その餌は陽の光に反射して眩しく輝いている。

「金でも撒いておろうか、まさかな」と男は一人笑う。

これも何かの縁(えにし)であろうと思い、娘のもとへと歩き始めた。

あぜ道の入り口には、お地蔵様がにっこりと微笑んでいて、村人が朝供えたばかりであろう酒と団子が置いてある。

娘の近くまで来たが、こちらに気づいていないのか餌やりに夢中だ。か細い声で、「うふふ」とたまに口にする以外は、一心不乱に餌を稲田に撒いている。

「娘よ、どこのお方か」

阿比麻呂が声をかけたが、娘はこちらを振り向かない。聞こえているであろうに。

娘の小さな顔は風になびく長い髪に隠れていてその表情さえわからぬままだ。侍(はべ)っている老婆もまた、娘の裾を持ったまま黙って動かない。

「その・・・姫よ。もしよろしければ、今何をされているのかをお聞かせいただけないだろうか」

そう阿比麻呂が言うと、娘はまた「うふふ」と笑う。

阿比麻呂は、からかわれているのだろうか・・・いつもながら、何と女運がないことよと、落ち込み諦めて踵を返そうとした時、

「これは、餌となる黄金の種を撒いているのです」と娘が言った。

「黄金の種・・・?」

「でもね、人間のためにこの黄金の種を撒いているのに、集まってくるは人間ではなく白鳥ばかり」

阿比麻呂は背中がぞくりとした。

この娘、何を言っているのだ・・・。

「人間はすぐ金に集まるから、よく獲れるのよ。うふふ」

そう言うと、娘は「は~やくかかれ~。は~やくかかれ~」と歌い始めた。

阿比麻呂は思わず後ずさりをする。

「あら、もうお帰りになるの?もう少し一緒にいて下さらない?つまらないわ・・・」

阿比麻呂はさらに後ずさりをする。胃が口から飛び出るというのを今ならば容易にやってのけられそうだ。

「御許(おもと)の、そのお肩から下げられている神宝と、その腰に下げられている神宝を、どうかそこへ置いて下さらない?でないと、私・・・」

阿比麻呂は、あぜ道に転がっていた石に足を引っ掛けて、そのまま腰を地面に打ち付けてしまった。

「その神宝が貴方さまに触れるのを禁じているのです。あぁ、貴方さまの温かな心の臓に触れたい・・・ねぇ、貴方さま」

振り返ったその顔を見て、胃がひっくり返った。

この世の者ではないその顔。

恐怖で声が出ない。

ともに振り返った老婆もまた、その目は窪んでいて眼球はなく、あるのは真っ暗な深い闇で、その大きく開かれた鼻や口とともに黄泉の国へと引きずり込むのは容易いことだろうと思えた。

『・・・!』

阿比麻呂は剣の場所を手で探り鞘を掴むと、後退りしながらも女と対峙しようとした。そのままお地蔵さんのところまで戻ってきた。

「口惜しや・・・その神宝、捨てや!」

娘たちが阿比麻呂に手を出せなかったのは、この剣と鏡のおかげのようだ。

気が付けば、二人の姿は消えていた。

全身を滝のように汗が流れている。さすがに相手が生身の人間でないとなれば、太刀打ちするのは難しく、たとえ恩賞が出ると言われても御免だ。陰陽道士らに手柄はくれてやる。

とにもかくにも、「助かったか・・・!」

ごろりと仰向けに寝転がり、呼吸を整えた。

見上げた空はいつもと変わりなく、阿比麻呂を心底安心させたのだが、まだ鼓動が高鳴って全身の感覚が掴めない。

ふと横を見ると、穏やかな顔で笑うお地蔵さんがいる。

「助けていただいたのでしょうか。有難い。このような恰好で申し訳ない・・・」起き上がれない為、空に向かって手を合わせる無礼な格好で御礼を言う。

田畑で餌をついばんでいた白鳥はもう飛びたったようだ。

見事に刈り上げた稲田はいつも通りで、亡霊どもが撒いていた黄金の種とやらは、どこにも見当たらない。

いったい、今のは何であったのだろう。

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