第3章 阿比麻呂

二.


娘は、京を一望できる天の香久山と名付けられた小高い山の上にいた。


ここから見下ろす京は美しく整えられているのだが、今の都に比べれば規模は小さいようだ。

それに、見れば何やら胸騒ぎがするほどの、陰鬱な空気がこの都の上空には漂っている。

ここは飛鳥の都、新益宮(あらましのみや)であろう。

天武天皇と持統天皇が愛する大和のために造りあげた都だ。


娘は何故か大きな楠木の幹の上に立っている。

自分の体に視線を移せば、見えたのは黒い羽に埋め尽くされた、変わり果てた自分の姿であった。

一瞬眼を見開いて驚いたが、しっかりと枝に吸い付くような足も、人間から見れば不自由そうな自由の象徴である翼も、遠くまで見渡せる目も、どれもこれもが感じたことのない新鮮な感覚で、驚きよりも喜びの方が勝っていた。

さらによくよく体を感じてみると、自らの足が三本あることに気がつく。後ろの二本足で体を支えていて、残りの前足一本は軽く枝に添えるだけになっている。

古事記で神倭伊波礼毘古命を導いたとされる、幻の烏、八咫烏であろう。

娘の驚いた声はカァーともギャーともとれる鳴き声となって辺りに響き渡ると、他の烏が何羽か呼応するように鳴いた。

間もなくして烏は幹を大きく揺らし、空高く飛び立った。


烏が一目散に目指したのは都の門だ。

門番が数人いたが、通り過ぎる烏に注目する者などいるはずもない。

八咫烏は堂々と赤い門を潜ると、急上昇して高度を上げる。

それからしばらくの間、持統天皇が古い文献を頼りに唐の都を模して造り上げた、この都上空を見物するかのように何度もぐるりと旋回をした。

朱色の柱と梁それに白い壁。木々や山々の緑は所々に点在し、それなりの木陰を作っている。その木陰で、数人の官人が蹴鞠をしているのが見える。

都の外に目をやると、ところどころで煙が上がっているのが見えた。民が夕餉の準備でもしているのであろう。

水田の稲穂はまだ青々としていたが、やがて秋になれば、官民の腹を充分に満たすほどの多くの実りを収穫できるのであろう。

豊かな大地と、清らかな川がここ飛鳥にはあった。


満足したのか、八咫烏は徐々に高度を下げながら旋回すると、やがて朝庭に降り立った。

朝庭の外れにある大木の木陰に、膝を抱えて空を見上げる一人の若者がいる。

男が見上げている視線の先には、空から大地を監視している一羽の鷲がいる。

男はただ呆然と鷲が緩急つけて飛ぶ様子を見ていた。

時折、「はぁ」と大きな溜め息をつきながら。


「阿比麻呂」

舎人を数人引き連れて近づいてきた男が声をかける。

「不比等さま」

阿比麻呂と呼ばれる男は気怠そうに立ち上がった。

「具合が悪いから少し休むなどと言うから心配してきてみれば。元気ではないか。しかし、暗いのぅ。女が近寄って来れぬわけだ。まぁ、そなたを慕う女がいればの話だが」そう言うと意地悪そうに笑った。

阿比麻呂は地面を睨んだまま言う。

「どうせ・・・。私が一生独身であろうと、あなたには関係のないことです」

「お前、まさかまたふられたのか・・・」

地面から不比等へと睨む対象が変わったようだ。

「不比等さまのように、黙っていても向こうから近寄ってきてくれるわけではないのです。ご存知ないでしょうが。だいたい、理想が高いのだなどと言いますが、私がいつ選り好みしておりましたか。一度だってしていないでしょう」

不比等よりも明らかに体格の良い男は、今にも泣きそうな声で訴える。

不比等は大笑いしている。

「それは思い違いだよ、阿比麻呂。そのうち出会えるさ。出会えぬのなら私が適当に見繕って連れてこよう」

「適当に・・・出会いくらいありますよ。ただ続かぬだけで・・・」

阿比麻呂が不憫に思えてきたが、不比等は笑いが止まらぬようであった。

「きっと気に入る。それよりも、少し付き合え」

「はぁ・・・」


「大宰府へ、ですか」

「そうだ。別にそこにずっといろ、と言っているわけではない。そなたは兵たちにはよくよく好かれるようであるから、防人(さきもり)を説得するくらい、簡単なことであろ」

阿比麻呂は兵部省(ひょうぶしょう)の武官にすぎないのだが、武士(もののふ)たちからは人気があり信頼が厚かった。

「しかし、任期の延長ともなれば当然不満も出ましょう。それにはどのように対応されるのですか」

「そなたが説得すれば収められるであろ」

「不比等さま、それはあんまりです。相手は軍人ではなく、各地から徴集された平民ですよ。権力をちらつかせて、脅してやるのが常套手段でしょう。何故説得などするのですか」

「失礼な奴だな。脅してなどやるものか。人の道理というものがある」

「道理と。では、せめて何かしらの褒美は必要でしょう」

「そうか。では租税を任期満了まで停止する、というのはどうであろ」

「おぉ。さすがはお上。寛大でいらっしゃいますね」

「今わたしが思いついたのだ。これから相談してみよう」

「・・・」

「はは、冗談だよ、阿比麻呂。上の了承は無論いただいているに決まっているではないか。私を誰だと思っているのだ」

「そうですよね。驚きましたよ」

「一月後に、伊予に向けて難波から出港する官船があるから、それに乗れば良い。ついでに湯神社にでも寄って来るがいい。そのとぼけた頭を少ししゃっきりとさせた方が良いであろ」

「あなた様と違い、私はこのとぼけた頭が生まれた時よりの素です」

「おやそれは知らなんだ。歴代の大王に手厚く保護されてきた湯神社で祈祷でもされれば、そなたの父上も成仏されるであろ」

「・・・だといいのですが」

父が亡くなったのは半年以上前の話だ。正確には、亡くなったのかどうかもわからない。

ある日何も言わずにふらっといなくなったっきり、そのまま帰ってこなかった。

母は、父が吐く暴言にもじっと堪え、物を投げ飛ばし壊せば黙って後片付けをした。気苦労のせいか、そんな父を残して母は先に亡くなってしまった。

父がいなくなったのはその半年後だ。

「阿比麻呂よ、急に黙り込んでどうしたのだ。また父のことを考えているのか」

「考えない日はありません。生きているのか死んでいるのか」

「いつ話してやろうかと機会をうかがっていたのだが。そなたの父が急にあのような態度になったのは、先々代の大王が崩りされた頃だと聞いている」

「天智天皇が・・?」

天智天皇が崩りされた頃、我々は出雲にいた。勅令により、古事記に関する口伝えを様々調べねばならなかったからだ。崩りされたとの知らせを聞き慌てて戻って間もなく、大海人皇子の乱は起きた。どちらについても、事の真相を全くと言って良い程に知らされていないのだ。

「病であったと文献にはあるが、噂は絶えないのには何かしら理由があってのことであろう。ある者の話では、「鎌足の陵墓へ向かう」と仰せになったきり戻られなかったという。その時御供したのはたった数人で、そのうちの一人がそなたの父であるという話だ」

「父が真相を知っていた、と。父以外の御供の者らはまだご存命なのでしょうか」

「残念ながら、一人として確認がとれぬのだ」

「確認がとれぬ、とは」

「家族にさえ連絡がとれぬ」

「全員が、ですか」

「というよりは、いたのかもしれぬが消えたとでも申した方が良いか」

「まさか・・・」

「こうなっては真相がわからぬ。完全に闇に消えたのだ。調べもこれが限界であろう」

「讃良皇女は何かご存知なのでは?天智天皇の皇女で、しかも皇弟であらせられた先代の大王の后であられたわけですし」

「私は知らぬ、の一点張りだ。それ以上聞きようがない」

「そうですか」

「まぁ、考え込んでも何も解決せぬ。出立の準備をぬかるなよ、阿比麻呂よ」

「はい」

確かに母は、『以前は優しい方で、あのようではなかった』と泣きながら漏らしたことがあった。 優しかった父が急変した理由が大王暗殺という大罪ではないことを祈るしかない。

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