第3章 阿比麻呂

一.


庭では早咲きの桜が満開となり、名も知らぬ色とりどりの花々が小さく健気に咲いている。

穏やかで風も陽射しも温かな日だというのに、廂(ひさし)の奥まで陽が差し込まないからか、体が冷えきってしまった。

このような春の温かな日はのんびりと歌でも詠みながら過ごしたい、と思うのだが、この娘には休みなどあろうはずもない。

日がな一日欠伸をしながら遊びに興じる公卿の姫君のお世話をする女房たちの中には、その優雅な様を羨む者もいる。

だがその羨んでいる女房らも結局は従五位以上の殿上人らの娘たちだ。出羽の娘とは格が違う。

身分が格段に低く、しかも俘囚の生まれという自分の身を疎んだり恥ずかしく思うこともあったが、その度に、『生まれつく家は選ぶことができるものであって、生まれてから後悔したり羨んだりするべきではないものだ。嫌なら生きている間に変えるしかない』と話す父を思い出して自らを律した。

それは、かの蜂子皇子(はちこのおうじ)の教えでもあるのですよ、と母は言う。

生まれた家柄のみならず、人生のすべてが自分で選んだ結果であるのだから、後悔も羨むも愚者の極みであるのですよ、と。

蜂子皇子は、崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子であったのだが、崇峻天皇が蘇我氏に暗殺された際、聖徳太子の勧めに従ってその手から逃れる為、舟で出羽へ下られたという。

皇子はその舟の中で我が身に降りかかった出来事を恨み憎んだであろうか。

ただ天地に行く末を委ねられたのではないかと娘は思う。

恨み辛みの中にあっては、出羽三山を開山するなどという偉大なことはなされなかったと思えるからだ。

その出羽の地に生まれた私もまた、何をも誰をも恨まず羨まず、自らを疎み卑下することなく堂々と生きて参ろうと、辛いことがある度に言い聞かせたのであった。


今日は内裏で曲水の宴とやらを催すとかで、君の周囲は朝から慌ただしく、女主人らもみな揃って出かけてゆかれた。

主らのいない屋敷は静かでよいが、ゆっくりと寛ぐ暇など娘にはない。

ようやく落ち着いたのは夕餉の頃であった。

同じく下働きの、年の頃十六、七の若い女房らは、どこぞの中将さまが御美しい、大納言さまの奏でる楽のなんと清々しく良い音色であることでしょう、などと話してはみなで歓声をあげたり騒ぎ立てたりしている。

同じく今年数えで十七になった出羽の娘はといえば、その輪に混ざることもなく、例の書物部屋に閉じ籠って幸せそうに微笑みながら読みふけっている。

時折、本を胸に抱いてうっとりしたかと思えば、悲しく涙したり、控えめに声にだして笑う。

どの作品も本当にこの世の宝だ、と娘は本を抱いては才ある作者へ心からの敬意と感謝を贈った。


娘は次の書物を読もうと手を伸ばす。

以前から読みたかった‘大鏡(おおかがみ)’を手に取り、嬉しそうに両腕に抱きしめる。

ふと、娘が正面にある棚を占拠している書物に目が留まった。

‘日本書紀’と題した数十冊からなる大作であるようだった。

娘は‘大鏡’をそっと床におくと、目に留まった巻を手に取り、頁をめくって読んでみる。古事記と内容が酷似しているが、少しずつ異なっているようだと気付いて編者を探すがどこにも表記がない。

機会あれば君にこの本が生まれた経緯をお伺いしたい、と思いながら美しく写本された文字にそっと触れてみた。

すると、娘の周りにある空気がふんわりと持ち上がった。

何が起きたのであろう、と辺りを見渡しても取り立てるようなことは何も見当たらない。

再び頁をめくると、またどこからともなく吹いてきた風が、娘に異世界の香りを運んできた。


また新たなる物語が始まるのだとようやく娘は理解した。

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