第1章 龍の川

一.


空、と言うよりも宇宙と言った方が良いほどに群青色で密度の高い空を、顔中を天(あめ)の雫でずぶ濡れにしながら大きな鱗の緑龍は驚くほどの速さで駆け巡っている。

それはまるで飼い慣らされた鷹が、長い苦役から解放された時のように自由を謳歌しようと力強く、雲を縫い針で糸を通すかのような動きで長い体を自在にひねってよじらせている。

上空を支配する風は、ありったけの力で龍の顔を目がけて正面から強くぶつかっていくが、龍は痛くも痒くもない様子だ。ただむなしく左右に散りゆく仲間を見て、悔しいと風は泣く。

龍は遠くに入道雲を見つけると、ますます速度を上げて飛ぶものだから、荒々しい髭はすっかり凍ってしまっている。

この若き龍は、入道雲を何よりもこよなく愛していた。幾重にも重なる灰色の厚い雲の合間で雷が轟くのを身体中で感じることがたまらなく好きだったし、雷と雷の隙間を縫うようにして通り抜ける遊びが大好きだったからだ。

それに、荒ぶる雲らの間を通り抜けた先にある、澄みきった穢れなき空気と交わり溶け込んでは無となれる瞬間もまた、たまらなく好きだった。

その瞬間、風も、太陽も、煌く星も、神々が愛でるすべての生命は何もかもが黙り込み、ただ静寂となってかがふるのだ。

無、とはこれだ。

空、とはこれだ。

滅、とはこれだ。

自由、とはこれのことだ。


龍は諸々のしがらみに嫌気がさしていた。

龍の世界では徳分の大小により受け持つ仕事が違うのだが、この龍はそれに不満を持っていた。

この若き緑龍に与えられた役目は徳の高い師らに付き従う、随身や蔵人のような役割であったのだが、何故才能豊かな自分が師となれないのか不満であったし、雑用などやりたくなかったのだ。

「世界に一つだけの花を、しかもその頂きを目指すのだ」と周囲に誇らしげに話すのだが、周囲はなぜか冷ややかな反応であった。何故ならば、龍は負けず嫌いで何事も一番になりたいと強く願うのだが、若き龍は相応の覚悟も努力もなしに闇雲に頂きを目指すからだ。

師はそのような龍を慈愛の目と言葉と態度とで温かく見守り続けた。


「そろそろ師の元へ帰らねばなるまい」

龍が上昇し始めた時、突如として目の前に見たことのない扉が現れた。

「扉?何故このようなところに・・・」

龍が通り抜けられるほどの大きさの、真っ白な観音開きの扉には、黄金の唐草模様が施されている。

だがそこには、扉が一つあるだけで、その後ろにも横にも建物などはない。ただぽつんと宙に浮いたようにしてあるだけだから、まるで異次元への入口であるかのようだった。

龍は扉の反対側に回ってみるが、全く同じ扉があるだけで、扉は閉ざされたまま開く気配がない。

開いたら何が起きるのであろう、としばらく心待ちにしていたのだが、いよいよもって待ちきれなくなり、扉を開こうと押してみるが開かない。そうか引いてみよう、と思い立って引いてみるが、やはり開かない。仕方なく龍は、魂にそなわる龍眼で中を観た。

見えてきたのは、何やら騒がしい多くの人間たちの集まりだ。男も女もいる。

これから重大事項が発表されようとしているのか。

それとも、何かの祝いの会か。ともかく賑々しい集まりのようであった。


正面に口髭の男が登壇すると、ざわめきは徐々に静まっていく。静まるのを待って口髭の男が話し始めた。

「我が愛してやまぬ朋らよ」

会場内ではそこかしこで笑いあい、呼び掛けに答える声が重ね聞こえる。

「我らは、ただ一つの目的に向かいここまで来た、そうであろう」

またしても、会場内からは「おぉー!」という賛同の声だ。

壇上の男は、うむうむ、と何度も頷いている。

「朋らよ。我らは天地の間に生まれ、ただ素直に天意に沿ってここにいるみなが協力し合い、この日の本の国はできた。ある人らは路を造り、ある人らは住まいを建て、ある人らは木々を植え、またある人らは泉を掘り、そしてある人らは米を植えた。みなで歩みを進めた。そして一つの国が成り、この富める国に多くの人らが集い始めた。

『ここに素晴らしい国があるぞ。ここに生きようではないか。ここに住み、ここで楽しみ、ここで笑い合おうではないか』と喜び合い、言祝(ことほ)ぎながら。

愛するわが朋らよ。今も連綿と続くこの国の名は豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)。豊かに穂が風に揺らめき、太陽の光を受けてますます輝く御国(みくに)よ。

人々が心の底から笑い合い、手と手を取り合う、心温かなる国よ。

ともに、願い、見守ろうではないか。我が仲間がどのようにこの国を育んでゆくのかを。そして力の限りに助けようではないか!」

拍手が巻き起こり、いつまでも鳴り止まなくなった。


と、その時。

急に風が龍の首根っこを掴んでから後ろへ引っ張ったせいで、現(うつつ)に引き戻されてしまった。

それどころか、あっという間に遠くまで飛ばされて岩肌に強く体を打ち付けてしまった。

「いてててて・・・」

龍は痛がったが、岩山にも相当な打撃であった。大地は大きくひび割れ、草木はことごとくなぎ倒されてしまった。

龍はヒリヒリする背中を気にしつつも、ここはどこだろうかと周囲を見渡すが、濃い霧に包まれているせいで何も見えず、皆目見当がつかない。

やれやれ、風め。

何故このような仕打ちをするか。

龍があれこれ考えているうちに、やがて霧は晴れてうっすらと周囲の山々が姿を現し始めた。

間もなくして青空が見えるほどになると、龍がいる場所は点在する島々のうちの一つであることがわかった。島と島の間に、川のようにも見える海が穏やかな曲線を描いて通る。

おそらくここは倭の国あたりであろう。とすると、随分と東に飛ばされてしもうた、と夕陽が眩しい方角を見やる。

我が故郷はあの辺か。

どれ、戻らねばなるまいと飛び上がろうとするが、体が鉛のように重たく飛び立つことができない。龍の身体は地中に深く埋まってしまっている。手足を器用に使ってなんとか脱出したのだが、若き龍の顔はすぐに青ざめた。

「玉(ぎょく)がない!!」

そう叫ぶと、龍の身体の形に掘られた大地の窪みをくまなく探すがどこにも見当たらない。

「しまった!さっきの風のせいで、どこかへ落としてしまったか!」

だが・・・何か変だ。

玉がなくとも飛べるというのに、何故飛べぬのか。

空を見上げると、上空には仲間たちが悠々と泳ぐ川がある。あの川にもどれば、師のところに戻ることができるのだが。

「おぉーい!」

知り合いでもいたのなら、飛べない原因がわかるかもしれぬ、と思い上空へ呼びかけてみるが、誰も気が付かない。

「おぉーい!誰かやーい!」

何度も何度も呼びかけたが声は届かず、そのうちに龍はすっかり諦めて気力を失ってしまった。

焦点が定まらない瞳でどこともなく見つめていると、目の前の山の頂にある大きな岩と岩の間に結界が張られていることに気がつく。

「結界の中にいるのは、もしや仙人らか。智慧を拝借できぬか」

龍は首を伸ばして結界の中を覗いていると、そこから三柱の女神が出てきた。

いつであったか、まだ師に連れられて月の御国へ参りしとき、月読命(つくよみのみこと)に付き従う天女を見て心がとろけそうになったが、今目の前にいる女神もまた艶やかでしなやかで麗しい。

「人間に戻りたいか」と女神らは問う。

おかしなことを言う、と龍は眉をひそめ思う。

私は人間であったことなど一度もないのに、何故私に人間に戻りたいか、などと聞くのだ。

「そなたに聞いておるのだぞ、迷い龍よ」

龍の眉間はますます険しくなる。

迷い龍だと?

私は迷っているわけではないのに。おぉ、そうであった。玉を持ってなければそう思われても仕方のない。ちょうどよい。この女神らに相談をしてみれば良い。

「ちょうどよいところに現れていただきました、女神よ。先ほど、強い風にあおられて大切な玉を落としてしまったようなのです。どうにか探し出したい、と思いましてな。ほれ、あの龍の川を泳ぐ仲間たちを先ほどから呼んでいるのですが、呼べども呼べども、一向に届かず。成す術なくこうしてただ呆然と時を過ごしておったところでございます」

「迷い龍よ、大切なことを忘れし哀れな御魂よ。そなたが持っていた玉は何であったか」

龍はしばらく考えた。だがどうしたことか先ほどまでちゃんと覚えていたのに、忘れてしまった。我が大切な玉・・・いったい何であったか。

「女神よ、玉はいったい何であったのでしょう。忘れてしまいました」

「あの川へ戻りたければ、思い出さねばならぬ」

龍は、女神の頭上高くから見下ろす格好になっていたことにようやく気が付き、慌てて女神の元へと下りて、今更ながらに頭を垂れた。

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