天地の夢〜久米の子ら〜

和香

春うらら


とは、まさにこのような日を言うのであろう。

満開の桜の花は、空に、道に、牛車に、

ひらり、ゆらり、と舞い落ちる。

夢か現かわからなくなるまでに、温かく長閑で平和な佳き日。


低い草が生い茂る道の向こう側から、一台の牛車がやってくる。

農民たちがちらりと見やるが、どこぞの貴婦人でも乗っているのだろう、とすぐに手元に意識を戻す。


揺れる牛車の中では、一人の若い娘が和歌を書き綴っていて、時折御簾をあげて外の様子を見ては目を瞑り、そしてまた書き綴る。

飽きることなく続けては、「どれだけでもこうしていたい」と幸せを感じ微笑む。



やがて牛車は築地塀に囲われた大きな邸が立ち並ぶ大路を通る。

『ここが京・・・』

そう思えば鼓動は高鳴って、吐息には不安と怖れが入り混じる。


『私を気に入っていただけるだろうか。

追い返されたらどうしましょう。

いいえ、きっと大丈夫。

私にはこの筆がある。

生きる喜びを、溢れる愛を、この筆でつづれば良いではないの。

きっとうまくいく』


しばらくして車は、とある殿の前でゆっくりと止まった。

娘は初めて都の大地に両足を着け、それと同時に侍所の門戸が開けられた。背の低い木々が茂っていて、中をうかがい知ることができないが『ここが私の生きる場所になるのだわ』と娘は唇をぎゅっと結ぶ。


ここに来るまで、嫌な噂も耳にした。

ついこの間も、女主人の怒りをかった御雑仕(ざふし)を一人、郷に帰してしまわれたのだとか。

貴人の子を宿しもせず奉仕から出戻ることほどお家に恥をかかせることはないというのに。

娘は早くも懐かしい郷の人らを思い出していた。

「神祇官の娘が奉仕に行くそうな」

という噂はあっと言う間に広がり、知らせを聞いた人らは誰もが「実にめでたきこと」と満面の笑みであった。

なれど、数々の噂を耳にした村人らの本心はもしかしたら、「おぉ、可愛そうな娘。あのようなところに奉仕に出されては」などと冷やかなものであったかもしれない。

父は喜び、飛び跳ねるようにして家へ知らせを持ってきたのだが、敏感な母は周囲の反応を見て、我が娘は貧乏くじを引かされたのかと、終始心配そうな顔であった。「いっておいで」と潤んだ瞳で見送ったあの笑顔が忘れられない。


なれど、もう始まってしまったのだ。

その噂が本当かどうか、私がこの目で、この耳で確かめようではないの。

何があっても、私は大丈夫。


殿の中はどこもかしこも美しかった。

庭は手入れが行き届いていて、松の枝の節々まで磨き上げているかのように輝いていたし、あちらこちらで目につく金の装飾や、真っ白で汚れひとつない几帳や、すれ違う女房たちの良い香りも、それらの全てが娘の胸を高鳴らせた。

娘は、あまり目を泳がせては、礼儀知らずな娘と親が笑われようと無表情無関心を貫いている。

通された部屋の几帳の陰から女房たちが覗いていて、娘に聞こえるようにひそひそと話している。

「あれが出羽の神祇官の娘ですとか」

「まぁ穢らわしい。俘囚(ふしゅう)の田舎者ではないの」

娘は気にすることなく、天井を仰ぎ見た。燻されたような古木が規則正しく格子柄に並んでいる。紀伊国より運ばせた木であろうか。刻まれた年輪はまるでこちらを睨む眼のようだ。

ぼんやりしていると、廊下からかすかな足音とともに、絹を擦る音が聞こえる。

愛想のない女房が、可愛げのない声色で女主人のお出ましを告げると、周囲がそうしたように娘もまた、うやうやしくひれ伏して、奥さまが御帳台へお座りになるのを待つ。


「顔をあげよ」

その威厳ある声の響きに小さな白い手が震える。

娘は言われた通り顔を上げ、ゆっくりと視線を女主人のいる御帳台へと向けてゆく。

細長い目は鋭く狐のようで、白いお顔に薄い眉毛の、今を生きる上流貴族のあるべき姿だ。

それに比べて自分はなんと田舎者であろうか。あのように噂されても仕方なかろうと、先ほどまでの筆の誇りを忘れて自らを恥じた。

「遠路ご苦労であった。そなたの国の者はみな真面目に良く働くと聞く。それ故に期待しておる」


すると、廂の方から何やら笑い合う男女の賑やかな声が聞こえてきた。

女主人のお抱え女房らは慌ただしく姿勢を正したかと思うと、額を床に着けんばかりに伏している。


「出羽の女房が来た、と」


声の方をちらりと見やれば、束帯姿の君(きみ)が大勢の御供らを引き連れて部屋に入ってこられた。

女主人は立ち上がって御帳台から女房らの前に降りてこられて、入れ替わりに座られた君へ袖で口元を隠しjながら言う。

「はい。ここにまかりこしました。なれど、お目汚しにございましょう」

確かに父母が用意した上等な絹織物は流行ではないし、長旅の汚れもあろうから否定はできない。

「良いではないか。このように天気の良い温かな午後に邸の奥で昼寝ばかりでは邸中の花が寂しがろう」

「まぁ」と女主人が声を上げると、女房らを巻き込んでみな一斉に朗らかに笑い合っているが、娘には笑えなかった。

花というのが女を指すのだろうと思えばこそだが。


「顔を上げなさい」


君は娘に笑声で命じ、強張る娘の顔を見て言う。

「出羽の娘よ、そなた和歌が得意であるというのは真か」

「娘、直接答えるのを許そう」女主人が言う。

「いいえ。ほんの少し、嗜む程度にございます」

「母上が退屈なさっていてな。和歌を詠むも良いが、暇潰しになる目新しい物語などを楽しまれたいと仰せだ。どうであろう。そなた、やってみぬか」

「し、しかし私は物語を書き綴ったことなど一度もなく・・・」

「できぬ、と申すか」

「この者は出羽の小さな村の出。あちらは俘囚らの国でありますから 、そのような村のたかだか神祇官の娘に、大役が務まりましょうか」と女主人は笑う。

俘囚とは、朝廷に属する蝦夷を言うのだが、そう言われてしまっては返す言葉はない。

ならば何故俘囚の娘を仕えさせようと思われたのであろうかと少し腹立たしく思うのが人間というものであろう。

御帳台の君は娘の言葉をしばらく待ったが、娘は何も話さない為しばしの沈黙が流れる。

「・・・そうか。もう良い」

明らかに不機嫌になられた君は、そう仰せになると立ち上がられ庭の方へと歩かれてゆく。

「むかし・・・」

主が女の前を通り過ぎる頃になり、何を思ったか娘は口を開き始めた。

「これ、娘!無礼であろう」

「よい。聞こう」

「・・・はい。その昔、私が見た夢が面白いと、我が里寺にてご法師さま方や村人らに話し聞かせたことがございました」

君は興を持たれたのか立ち止まって、そして女の目の前に座られた。

「それはどのような夢だ」

「それは、湖の畔りに住まう龍神と小さな女子の物語にございました」

「ありきたりすぎぬか。そのような話、この都では語り尽くされたであろうよ」と女主人が笑われる。

その高らかな笑い声を扇で制した君は、「どのような話なのか」と娘に問う。

「その昔、陸奥の奥にある永久蛇に住まう龍と、その地に住まう一族の娘の話にございます」

君はほんのりと微笑まれて何度か頷かれ、手元で遊ばれていた扇をたたまれると立ち上がって「ついてまいれ」と娘に言う。

慌てて立ち上がる女主人に「少しこの女房を借りよう」と君は言う。


君に付き従って入った部屋は、書物がたくさんに詰め込まれた木棚が隙間なく立ち並んでいる、見ただけで心躍る夢の空間であった。

「ここには都で手に入る書の全てを納めてある」

「夢のようなところにございます」

頬をほんのり紅くして、嬉しそうに娘は棚の一つ一つを夢ではないことを確かめるように触れ歩いた。

古事記(ふることぶみ)に大鏡、源氏物語や枕草子、それに礼記や易経まである。

君は微笑まれて「そうであろう」と嬉しそうに言う。

「物怖じなどせず書いてみるが良い。失敗したとて、そなたを責めはせぬ」その寛容さを武器に目的を遂げようとされているのか、と気がついて書への熱がすっかり冷めてしまった。

「なれど・・・」

「勘の鈍い娘だ。わざわざ出羽守などに頼まずとも、ここで女房をやりたい公家の娘など万(よろづ)ほどいるのだ。私がそなたをわざわざ呼びつけた目的はこれなのだから、そなたが書かぬと言うのならば里に帰ってもよい」

娘はわが耳を疑った。

いったい、出羽守は君に何を吹き込んだのか。

他の誰かと勘違いをされているのではなかろうか。

瞳を麗して困惑する娘の返答を、君は微笑みながらゆったりと待たれた。

「・・・畏まりました。なれど一つだけお教えいただきたいのですが、それが万が一にも君の勘違いであられたと思われた時には・・・」

「勘違いなどあるものか。私が招いたのは出羽の神祇官の娘よ。やると申したこと忘れるな」


上洛前、故郷出羽の神々に御加護をお頼み申し上げたのだが・・・。

実に出羽は霊験あらたかな神なる山であるが、これが御神徳ということであろうか。

君が仰せのように、やると決めたからにはやらねばならない。

あとは我が運次第であろう。


物語は人間にしか描けぬもの。

人間とは、天と地の間にいる人と書く。

天より降り、地より湧き出る言葉を素直に書き綴れば、感銘を与える和歌も引き込まれる物語も難しくはないはずだ。

天地が与える恵みを精一杯受け取ろうではないか。


娘は君に許され、その日は陽が落ちるまで好きなだけ本に夢中になれた。

だが、華やかな物語の世界に浸った後に見たこの現の世は酷いものであった。これだけ広い邸であるのに、下働きの雑仕や女嬬(にょじゅ)とよばれる女たちはひしめき合って寝ていたのだから。

娘は息苦しくてとても横になどなれず、まだひんやりする夜風を感じに外に出た。

廂から見上げる月は、屋根や庭の槻の木の頭をほんのりと淡く黄金色に染め上げている。

出羽と同じ月とは思えぬほどに魅惑的な月が、この後の冒険を祝福しているようであった。

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