第10話「新たな挑戦」
――前略。
いつもと同じ朝にお出迎えされて、気分は変わらず新米ですが、とうとう新たなステップに進む時がやってきました。
ヨウちゃんもヌヌ店長も喋れませんが、なんだかわたしのことを応援してくれているような気がします。表情を読み取ることは難しいですが、気持ちが伝わってきた気がしたんです。
セフィリアさんに言われたことをひたすらにひたむきにこなす毎日でしたが、進歩があってとっても嬉しいです。
なんだか、わたしの努力が認められたような気がして、ほっぺたが思わず緩んじゃいますね。このウキウキのような高揚感はどう表現すればいいのか……わたしの言語力の無さが悔やまれます……。
でも気は緩めずに、頑張りますよ!
それでは、またメールしますね。
草々。
***
若葉色の制服に身を包んだ女の子が、気合も充分といった様子でフンスと鼻息を荒くしていました。
もちろん、森井瞳です。
髪は癖っ毛なのか寝癖なのか、花火のように四方八方へ跳ね回りまとまりがありません。これでも梳かしてきてマシなほう。
「それじゃ瞳ちゃん、やっていきましょうか」
「あい!」
ほわわんとした雰囲気をまとった瞳が元気よく挨拶をします。元気が有り余って体といっしょに跳ねた髪もバネのようにビヨンビヨン。
その様子をニコニコの笑顔で優しく見守るのは先輩のセフィリア。慈愛に満ち溢れた人で、親切丁寧に瞳のことを指導してくれています。
「ふふふ。やる気があるのは嬉しいけど、彫刻刀はまだ早いわよ?」
「はれ?! す、すみません……」
ついついクセで右手には愛用の彫刻刀を握っていました。しかし本日からは新たなステップに入ります。
同じようにふふふ、と朗らかに笑うセフィリアは、一枚の紙を取り出しました。
その紙には、墨でユグードの街並みが美しく描かれています。墨と言っても、よくよく見てみれば筆を走らせたものではありませんでした。
わずかに木目を思わせるかすれがあったり、ごく一部線が途切れていたりする部分も見受けられますが、それすらも作品の一部となって一体感を醸し出していました。
木に生い茂る葉の一枚一枚、街を彩る陽虫、人々の営みをも再現し、全てに丹精が込められていて、紙からセフィリアの愛情が溢れんばかりに主張しています。
「セフィリアさん、それは?」
「
それは、彫った木の板に墨をつけ、紙を張り合わせて絵を描くという技法。例えるなら、大きなハンコのようなもの、といえば伝わるでしょうか。
瞳はこれのためにひたすら木の板を彫り続けて、彫刻刀の使い方や木との向き合い方を一心に学んできたのです。
この版画が瞳にとって、ひとつの大きな試練となります。
「なんといいますか、味がありますね~」
「ふふふ。それが版画のいいところよ。普通に絵を描くだけでは絶対に描けない世界が広がっているの」
木と紙の境界は鏡写しとなって相容れないものです。しかし確かに木の温かみを写し取ったからこそ、紙には独特の力を持った空間が広がります。
「注意することは、木に描いた絵と紙に写した絵は左右が反転することかしら。だから木に下書きする時点で反転させておかないと、思った通りの作品はできないわ」
「な、なるほど~……」
ただの風景画であれば反転しても違和感はありませんが、セフィリアのお手本は街並みを描いているため看板などの文字も見受けられました。それもしっかりと再現されているため、彫る段階で綺麗に反転されているということです。
【
「あ、そうだ」
「瞳ちゃん?」
突如何かを思いついたらしい瞳がパタパタと階段を登って3階の自室へ行き、何かを持ってきました。
「それ、スケッチブックね? そういえば来たばかりのとき何か書いてたっけ?」
「あい。あのときはヌヌ店長を書いておりまして~」
待ち合わせの場所で待っていても迎えが来なくて、時間つぶしに書いていたものです。実際は描いていた被写体であるヌヌ店長がその迎えだったわけですが。
動かないでくださいね~、っと言ってしまったがためにヌヌ店長がピクリとも動かなくなってしまったのは、ここだけの話。
スケッチブックを渡すと、セフィリアはニコニコとヌヌ店長の絵を眺めます。
「それ、いけますかね~?」
「そうねえ……まずはやってみましょうか」
ということで瞳は自分が描いたヌヌ店長にチャレンジすることに。
これは元々が左右対称になっているので、反転を気にする必要はありません。そういう意味では難易度は低いでしょうか。
ちなみに、ヌヌ店長の宇宙のような目はまだ描けていません。しっかりと描ける気がしなかったので、不本意ではありますが普通の目を書き入れています。
気持ち多めにキラキラさせて宇宙感を出すという悪あがきはしていますが、園児のような絵になりました。微笑ましいです。
「それじゃあ瞳ちゃん、まずはこれに絵を描いてちょうだい」
「あい!」
もはや親しみの沸いた木の板。新品のそれに手馴れた様子で鉛筆を走らせます。
「すごいわ瞳ちゃん、やっぱり絵上手なのねえ」
「ぅえへへ~……」
先輩に褒められて実に嬉しそうです。緩んだ口元からは幸福感が染み込んだ若干キモい声が漏れています。
スケッチブックの絵を写すだけではありますが、同じ絵を描くというのは意外と苦です。しかし瞳は微塵も苦を感じさせず、実に楽しそう。鼻歌交じりです。
それからしばしの時が流れ……、
「セフィリアさん! できました~!」
やはり子供のように声を上げる瞳をにっこりと見つめながら、頷きます。
「うんうん、よく描けてるわ。あとはこの線を頼りに彫っていくんだけど――」
セフィリアはまた別の紙を取り出しました。そちらもユグードの街並みが描かれていますが別物です。
先ほどの街並みの版画を横に並べ、比較します。
「――こっちと、こっち。何が違うでしょう?」
「えっと……白と黒が反転してますね~!」
「大正解!」
「うあ~い!」
無邪気に喜ぶ瞳ですがそれくらいはさすがにわかります。もはやセフィリアは完全に瞳のことを子供だと思っているのかもしれません。
「これは線を彫るのか、線を残して彫るのか、の違いね」
木を彫った部分には墨がつかないため、紙に墨が移らず白のままになります。
つまり、一本の黒い線を書こうと思ったら、線は彫らずにその周りを全部彫る必要があるのです。
「素直に線を彫って行くのが簡単だけど、瞳ちゃんはどうしたい?」
「う~ん……やっぱり黒い線でいきたいですかね~」
瞳の脳内の完成図では、木に描いた絵がそのまま紙に出力されているのです。一発目にしてはなかなかに無謀な挑戦です。
しかし先輩のセフィリアは笑ってこう言いました。
「じゃあそれで行ってみましょうか」
と、後輩の無謀をあっさりと見送るのでした。これも彼女なりの教育方針なのでしょう。
「いよ~し、わたし、がんばります~!」
「ふふふ。頑張ってね瞳ちゃん」
意気込む瞳にエールを送るセフィリア。
悪戦苦闘、四苦八苦する少女を暖かい目で見守る先輩は、意外とスパルタな一面も持っているのかもしれませんでした。
***
――前略。
新しいステップなだけあって難易度も格段に上がっていました……。
彫った木が絵になる、版画と呼ばれるものをやったんですけど、これがまた難しくって。思えば今までの練習と同じことのように見えて実は逆のことをしているんですよね。
これまでの練習では線を彫っていましたけど、今回の版画では線を残して彫るという感じでして。
少しでも加減を間違えると残す部分も彫っちゃって、結局上手くいきませんでした。
いちおう彫った木に墨をつけて紙を重ねてバレンでこすって、という作業をして完成までは行いました。けど、出来上がったものはお察しの通りです……。
セフィリアさんは「とても貴重な第一歩になったわね」と言ってくれましたが、その意味はよくわかりませんでした。
ただただ悔しくって、負けないぞ! っていう気持ちは湧いてきました。
貴重な第一歩……前進はした、という意味なんでしょうか? う~ん。
っと、考えていたらもうこんな時間!
またメールしますね。
草々。
森井瞳――3023.5.4
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