さよならだけでは遠すぎる
さよならだけでは遠すぎる
間違いなく、初めましてだった。ビルの上で、彼は笑った。律は遥か下の、路面に立って、彼をぽかんと見上げていた。
彼の白い髪や赤い唇、裾の長いコート。飜る前髪。けむるような、光がきらめく目。それらが、はっきりと見えた。
彼は屋上のビルフェンスの上に立っていた。そして。紙切れみたいに、くるっと落ちた。
「落ちたあっ!」
律は叫んだ。さっきまで自分もいた塾のビルから出てきた受験生たちが、顔をしかめた。律も受験生だが、ここで落ちたと言わずして何になる。
律は走った。他の人は、誰も彼を見なかったらしい。悲鳴は律だけのもので、誰も空を見ていなかった。
入り組んだビルの路地を駆けて、さっきのビルの前に出る。汚水の水たまりを踏んだせいで、制服にシミがついた。
「どこ! どこですか!」
死んでいたら返事などあるわけがない。あの高さから落ちて、死なないわけがない。
ゴミ袋、空き缶、野良猫、ゴミ袋、汚れた路面。視界に入るものが、そればかりだ。気持ちを落ち着けようとして、空を仰ぐ。小さく、細長く切り取られた空。
「あれ、何でいるの」
気の抜けるような、若い男の声が聞こえた。振り向くと、ゴミバケツの上に、天使がいた。律は初めて知った。自分がそんな、浮き足立った感想が言えることを。
白いコート、白い髪……白く見えたのは、フェンス上に立っていたとき、西日がまっすぐに当たって光って見えたためらしい。今見ると、淡い茶色だった。アジア寄りの、どこかの国の人みたい。
足元に、若い女性が倒れている。まさか、この男が飛び降りたときに女性を蹴飛ばしたのか。ここは二次災害の現場ではないだろうか。
「救急……」
律は携帯端末を操作する。男は素早く、律の手首を掴まえた。
「えっ」
律の体の真ん中が、棒に変わったみたいだった。体が、動かない。小学生の頃に一カ月だけやらされた剣道でも、相手がすごく強いときでも、ここまで動かないことはなかったのに。
やばい。
「血が、」
すうっと、相手の指先が、首を撫でる。
「ついてるよ?」
「ええ! 何で」
「さぁ? 何でだろう」
「でもそんなこと言って、貴方も」
男は唇の端から血を流している。腫れていない、だからぶつけたわけでもないらしい。
「俺のはいいんだよ」
「よくないです! そうだ、貴方、さっきあそこから飛び降りましたよね!」
律はビルの屋上を指差す。体が動いた。さっきまでが嘘のように、ちゃんと律の思い通りに動く。
男は、のんびりと屋上を見上げた。ビルの右棟、左、前、後ろ、順番に屋上を見て、
「どれから降りたのか、忘れちゃった」
「どのビルだったのかとか、正誤はどうでもよくて!」
ふう、とため息をつかれた。
「君、名前は?」
「木塚律です」
「キッカ?」
「キツカ。リツ」
「へえ」
律は息を詰める。反射的に名乗ってしまった。どうしよう。相手はビルから飛び降りたひとで、この女性に危害を加えたかもしれないひと、だ。個人情報を悪用されるかもしれない。何をどう、というところは分からないが。
男が、唇の端を舐めながら言った。
「これはね、吸血鬼。法律に違反してたひと」
「えっ」
「人間をね、食べるのは法律違反。知ってるよね? 結婚してる夫婦の場合は特例だけど、このひとは事務員として働いていた会社で、可愛い女の子ばっかり食べてはべらせてたんだって」
そういう偏り方すると、目立つんだなあ、と、男は軽い調子で言った。
それが真実か与太話なのかは、律には分からない。分かることに意味はなさそうだ、とにかく現状を整理しよう、律は瞬きして、細かくなっていた息を、ゆっくりに切り替えた。
屋上から、男が落ちた。男は今、無傷のように見える。代わりに、女性が血まみれで倒れていて、こちらは虫の息。
「それで、どうすればいいんでしょうか」
「それ、俺に聞くの?」
「救急車は、呼んでほしくないんでしょう?」
「それはね。だって吸血鬼でも保険適用だし、人権あるもの。病院に入れたら、普通に治るまで置いて、下手をすれば調査されるでしょう。それは困る」
「調査されるのは困る、ってことは……貴方が、違法なことをやってる、ということですか」
「合法だと思う?」
足元で、血まみれの女性が呻く。男は屈みこんで、女性の首筋に軽く噛み付く。
「貴方、吸血鬼!」
「だからね? 偏った見方をすると、吸血鬼どうしのいざこざでしょう? 人間の出る幕ではないの」
だから、帰りなさい、と呟いて、男が目を細める。彼の眼光の鋭さが、律の心臓の真裏を針で貫く。怖い、と自覚するより早く、律の口は動いていた。
「でも、吸血鬼にも、人権があるって貴方言いましたよね」
「あるよ? 社会ルールを守れない子にも等しく。でも、何度注意されても吸血鬼の立場を危うくする子はいて、ね」
そんな子、食べて上下関係の大切さに目覚めてもらわないとね。
男が笑う。にいっと、歪められた唇が、一歩近づく。
「食われるとでも思ったの? 君も立派な吸血鬼なのに」
「は?」
理解が、一回転、空回った。何ですか?
「Why? What?」
「君、発音はうまいのに、使い方が片言だよね?」
「受験生ですから!」
鼻息荒く、律は叫んだ。声が反響して、変に上の方から降ってくる。受験生であることと、英文が構築できないことの関連性は……先日の模試ではっきりしている、今は考えない、考えている場合ではない。
「そう、受験生なんです。吸血鬼じゃ、ないです。赤ちゃんのときからずっと、そういう検査でも引っかかったことなんてないし! お父さんもお母さんも人間だし」
「本当に? 嘘をつかれているとかは、ないの? 戸籍上では別の親がいたりしてさ」
「受験のために証明書取ったけど、普通に今の親が親だったし」
「本当に?」
「書いてあった! から!」
戸籍などが偽られたとして。本当かどうかなんて、一介の高校生に分かるわけがない。
「そうかな……じゃあ最近、吸血鬼と知り合いになった?」
こつ、と、男の靴先が一歩進む。足元の汚水溜まりを踏む。水面は淀み、血が混ざって、マーブル模様だ。
「知らない、」
「嘘、だね。吸血鬼の力は知っている? 眷属とまではいかなくても、食料にした人間に、しるしをつけることがある。それがあれば、他の吸血鬼の、誘惑を退けられる」
唇、が、言葉を、紡ぐようで、目が離せない。言葉の意味がばらばらになって、うまく噛み合わない。
「ほら。視線でひと撫ですると、たいていの人間は大人しくなるものなのに」
君はならないな、と、男は首を傾げる。
「言葉のっ、意味が分かんないです、」
「耳」
「へっ?」
「耳、が、いいのかな。発音はいい。たぶん耳の感度がいい」
男が、自分の指の背を軽く噛む。つっ、と流れた血が赤い。ひとみたいに。
彼らの血も赤いことを、律は、知っている。
男が、自分の唇に、指の背を当て直す。
「律」
血の乗った舌先が、名前を呼ぶ。
いい名前、と、男が笑う。いやだ、と反射的に思う。いやだ、いやだ、呼ぶな。耳が、かき乱される。
いやだ、その名前は、私のものだ。先輩に呼ばれて嬉しかった、律はかわいいね、先輩は優しくて、律はたぶん、先輩のことを……。
「本当に、律なの?」
耳たぶに噛み付かれた。あっという間だ。それだけで、強いめまいが頭を揺さぶる。
吸血鬼って。最低だ。最悪だ。私は、ただの受験生だったのに。律は私のものだったのに。
私の、私の!
「食べ過ぎ。血を取り込みすぎたんだろう。結局、成りかわったの? かわいそう」
くすくすと笑われる。男の、声が、近い。律は腕を振り回した。
「うるさい、うるさい、誰だお前っ」
「君は吸血鬼だよ。律は人間で……今は違う。君が、律の血を根こそぎ奪ったのかな? もう、君自身でもあまり思い出せないくらい、血が混ざっている」
かわいそう、と。
いただきます、が。
同時に鼓膜を揺らして、脳幹にまで押し入ってくる。
視界が白く、まばゆく光る。
吸血鬼、私はそれを。
知っている。
#ヘキライ 第7回お題「はじめまして、さようなら」参加作品の再録。(http://ncode.syosetu.com/n9497dr/3/)
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