secret base(2)
――1995年、夏。
「また泣いてる」
ブロック塀をよじ登って敷地内を覗き込んだ少年は、庭で丸くなっている少女を見つけて身を乗り出した。
うずくまっていた少女は濡れた顔を上げ、「れん」、と掠れた声で少年を見つめる。
「なんで、ここ」
「ジュジュの居そうなとこは、だいたい分かるよ」
レンと呼ばれた少年――まだ僅か7歳の、後の水橋廉治は、力を込めて体を押し上げると、塀を乗り越えて庭側に飛び降りた。
「けど、ここは来ちゃだめだよ。ふほう……不法侵入になるって、おじいちゃんが言ってたし。
もう。スーの家には、誰もいないんだから」
おれも不法侵入だけど、と小さく舌を出して、廉治は傍らの少女の隣へ座り込んだ。
だって、と座り込んだままの少女――同じくまだ7歳の月谷潤は、涙で濡れた顔を歪める。
「恵に泣いてるのバレたら、また相手ボコボコにするもん」
「ジュジュ泣かした相手をボコっても、結局またジュジュがいじめられるのにな」
「うえ」
「メグもばかだよなぁ」
膝を抱えたままに、潤は口を尖らせる。
「それに。約束したんだもん」
「約束?」
「……スーの前以外では、もう泣かないって」
彼女の呼んだ、彼らに共通の幼馴染は、ここにはいない。
しかし潤の言わんとすることを、ニュアンスを、幼いながらに汲み取り。
彼は直接それを指摘することはせずに、ただ事実を言う。
「めっちゃ泣いてるじゃん」
「泣いてないし」
「めっちゃ嘘つくじゃん」
「うえ」
またしても潤は、口を歪めた。
眉を寄せて、じっと手の平で膝を握りしめる彼女の姿をしばらく見つめ。やがて廉治は、おもむろに口を開く。
「じゃあさ。おれがジュジュのこと、見ててあげるよ」
「え?」
唐突な彼の提案に、潤は水滴で縁取られた大きな目を瞬かせる。
「この場所にはもう、スーはいないから、来られないし。こんなとこにいないで、おれのところに来なよ」
「……スーの代わりに、レンの前で、泣いていい?」
「やだよ。おれジュジュが泣くの嫌いだもん」
「えええ」
戸惑いと不安の入り混じった声を上げる潤に、廉治は手を差し伸べる。
「泣くんじゃなくてさ。もうジュジュが泣かなくていいように、楽しいこととか面白いこと見つけて騒げばいいじゃん。
涙の代わりに、素敵なことを、一緒に探しに行こう」
******
「嘘だろ」
「嘘でしょ!?」
二人同時に叫んで、顔を見合わせる。
潤は何か言いたげに口を開きかけるが、しかし過去の記憶と現在の光景がリンクし、自己完結すると。
そっと、割れ物に触れるかのように、静かに確認した。
「本当に、あのレン……なのか」
「そっちこそ……いや、完全にジュジュだな。そう気付いたら、もう絶対、間違えようがない」
顔を見合わせて、互いに互いを見つめ合ってから。
やがて廉治は息を吐き出すと、小首を傾げる。
「ジュジュ。君の名前は『
「あー、当時説明してなかったっけか。それは偽名というか、近所のお姉さんから借りてた名前なんだよ。住所も含めて」
「なんでそんなこと」
「……直で家に届いたら、恵に破かれるからですが」
「ああ……」
納得して廉治は諦めにも似た声を漏らした。
今度は潤が尋ねる。
「そっちこそ、お名前は『
「半分は合ってたよ。養子に入ったから、途中で苗字が芦原から水橋に変わったんだ。名前はジュジュの勘違いだろ。当時は『レン』としか呼んでなかったし、仕方ないけど。
それでも普通に手紙は届いてたから、特に訂正もしなかった僕のせいでもあるけどな」
「ものぐさか!?」
「ものぐさだが?」
開き直る廉治に、潤は怪訝な表情を浮かべるが。
しかし諦めて納得したように頷いた。
「まぁ。会ってた頃は、あだ名でしか呼んでなかったからな。学校違ったから、文字の名前も見たことなかったし。
……に、しても」
改め潤は、じっと廉治の顔を覗き込む。
「レンさん性格変わり過ぎでは?」
「どこが?」
「そこだよ!」
「話し方ですか?」
「そ! れ!! な!!!
なんかもー全体的にキャラ違うじゃん!」
潤はびしりと廉治を指差した。
「性格もそうだけど、大体なんだよその敬語キャラはよう!」
「僕のこれは、処世術のようなものというか。
どこにどんな奴が潜んでるか分からないから、とりあえず全方向に丁寧にしておけば無難だからです。いちいち使い分けるのが面倒なんですよ」
「また出た、ものぐさ」
「僕は生来ものぐさですからね」
これまで通りの話し方に戻り、淡々と受け応える。
「元から別に、猫を被ってた訳でもないですが。なまじ全員にこの対応をするのに慣れ過ぎて、こっちが自然になってましたからね。ごく一部、竜太とか、本気で気を許した相手にしかこの話し方をしてませんでしたから。だけど」
またもや、廉治はがらりと話し方を変えた。
「君がジュジュなら、素が出ることが増えるだろうけど。今更、泣き虫ジュジュに丁重にしても、仕方ないというか」
「泣かねーし!!!」
「取り繕ってるだけじゃん」
「繕ってねーーーーし!」
「はいはい」
「適当にあしらわれている感が大変に腹立たしい!!!」
歯噛みする潤をよそに、廉治は椅子に座り直すと、腕組みして彼女に向き直った。
「大体、そういうことを言われるなら、こっちだって同じなんだけど」
「なにがだよ」
「言っていい?」
「……なんだよ」
「それ。言葉遣いはともかく、基本スーの性格のトレースじゃん」
「うるせーーーーー!!!」
立ち上がったままの潤は、頭を抱えて天井を仰いだ。
「言われるだろうなと思ったよ!
しょうがないだろ! みんな揃って私を置いてっちまうんだから!!
お前の言葉遣いが処世術なら、私のこれだってそうだよ!!!」
叫んでから、諦めたように潤もまた、すとんと椅子に座った。
「どうせ私はほとんど全部スーの受け売りですよ」
「まぁ10年もそれで通せば、ほとんど、ほぼほぼ自分だろうけどね」
「……そう思う?」
「そりゃそうでしょう。僕だってそうですし。
もっとも根っこのところは変わらないだろうけど」
「うるせ」
眉根を寄せ、潤は軽く舌を出してみせた。
「ところでジュジュ。それ、やっててメグには何も言われなかったの?」
「言われないわけあると思うか?」
「ない」
「ご想像通りですが。……そんで一時期、恵とは一悶着もふた悶着もあったりしたけど」
ああ、と廉治はまた諦めにも似た声を漏らし、頬杖を付く。
「しょうがないよ。メグとは
「まぁな」
「にしても、手紙では特に何も言ってなかったけど。そんな時期もあったんですね。あ、僕らの手紙が途絶えてからの話ですか」
特に含みなく聞いた廉治の言葉に、ぐっと潤は口籠る。
「そう……だな……」
「……随分と歯切れが悪いですけど、どうしました?」
「まあ……そりゃあな……」
「もしかして手紙が途絶えたの、気にしてるんですか? その時の日常が優先されるのは仕方ないですし、文通だけの交友関係が途絶えるなんてのは、ままあることでしょう」
「いやあ……それもあるけど、その……。そういうことでは……なくてだな……」
「なんです?」
首を傾げる廉治を横目に、潤はしばらく口の中でもごもごと躊躇していたが。
やがて観念し、白状した。
「小6の頃、恵とすごい揉めてたというか、断絶してた時期があったんだけど。
その時に、レンの手紙とか全部、燃やされてさ。
……それで、住所も電話も、何も分かんないから、だから連絡できなくなったんだ」
潤の言葉に、廉治は目を見開き、一瞬、口をひくつかせると。眉間に指を当てて、数秒、黙り込んだ。
やがて静かに深い息を吐き出す。
「決めた。聞いてやらない」
「何を?」
「メグの警告を無視するってことだよ。ジュジュだって、いつまでも度の過ぎるメグの過保護に振り回されるのは嫌だろ」
「警告?」
「そういうものだと。思ってたんだ」
今度は潤が首を傾げるが、構わず廉治は続けた。
「文通でのやり取りなんて、むしろ何年もよく続いた方なんじゃないかと思ってた。僕だって中学になって、他に考えることが色々増えてきてたのは確かだし。
寂しくないかと言われたら、嘘にはなるけど。ジュジュに他の友人や楽しいことが増えて、僕にかまける暇がなくなったり、忘れてしまったんなら、それはそれでいいことだと思ってた。だから返事が来なくても、仕方ないと思ってた。
だけど、そういうことなら」
顔を上げ、廉治は机の上に放り出してあった携帯電話を無意識に握りしめる。
「退く気でいた。退く気でいたよ。名残惜しくはあったけど、今まで自分がしてきたことを思えば、仕方がないと思ってた。
けど、君がジュジュで、あいつがメグなら話は別だ」
そう言うと。
廉治は、その優等生然とした顔に悪い笑みを浮かべた。
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