虚偽の海に沈む佳日(1)
――2005年8月18日。
「本っ気で来るとは思わなかった。馬鹿だろお前本当馬鹿だろう」
翌日、待ち合わせ場所の本屋で潤を見つけて、京也は開口一番そう言った。
不満そうな顔つきで、ジーンズに半袖パーカーというラフな私服に身を包んだ『男』の潤は目を細める。彼女の左手首には、アンティークゴールドの留め具が付いた赤いビーズブレスレットがつけられていた。
「んだよ、最終的にお前だって納得したじゃねーか」
「したんじゃなく、せざるを得なかった、な」
溜め息混じりに言ってから、彼はぼそりと付け加える。
「引き返すなら、今が最後だぞ」
「今更、何を言ってるんだよ。後には
潤は手持ち無沙汰に読んでいた雑誌を棚に戻し、足早に店内を出た。遅れて京也も後に続く。物言いたげな顔つきで京也は潤の後姿を見つめていたが、やがて彼は諦めたように肩を落とした。
「一応、僕が紹介者になってるんだ。変なとこで怪しまれるんじゃないぞ」
「うっせぇ、潤さんの演技力なめんじゃねーぞ?」
「もっともお前の口調ならそのまんま男でまったく怪しまれないだろーがね」
「黙れ長髪ナルシスト」
「
浮かない表情を隠しきれないまま、京也は道を教えろと急かす潤の横に並んで、
気合いを入れるように、彼はパンと自分の両頬を叩いた。
十数分後。彼らは三階建ての細いビルの中にいた。交通量の多い大通りを少しだけ脇道に入ったところにあるそのビルは、街の喧騒を尻目にひっそりと佇んでいる。正面は車が二台停められる程度の幅しかなかったが、代わりに奥行きがあるようだ。
その三階の部屋にて、潤とビーは対峙していた。
「ヴィオから話は聞いていますよ。貴方が月谷潤の弟さんですね。ようこそいらっしゃいました」
ビーは柔和な笑顔でもって潤を出迎えた。扉が開いてビーの姿を認めた時こそ潤は身構えそうになったが、あまりに彼が人当たりよく丁寧な物腰であるため、些か拍子抜けしてしまう。
事前に京也から伝わった話で、大体のところは了承されているらしい。深く問われることもなく、ごく簡単に自己紹介を済ませてから、大まかに組織の説明をされる。
既に京也から聞いていた話ばかりで目新しい情報はなかったが、新参者に重要な話が振られるとは端から期待していない。潤はふんふんと大人しく聞き無難にやり過ごした。
一通り話し終えたところで、ビーはふと考え込むように口元へ手をやる。
「さて、コードネームをどうしましょうか。貴方も『水』なのでしょう?」
問われて頷いてから、改めて潤はビーが水属性なのだと思い返した。
メンバーのコードネームは色から取っているらしい。『水』である潤は普通に考えれば『Blue』から取るのが順当だろう。しかしそれは既に目の前の人物に使用されている。ビーは『Blue』の『B』からとっているのだ。
特にこだわりもないので黙っていると、やがてビーは小さく頷き顔を上げた。
「そうですね。では、『ディー』ということでいかがでしょう」
「ディー?」
「単にダークブルーのDですよ。奇をてらったものにしても覚えにくいでしょうし」
『ディー』、と小声で反芻し、潤はそれを了承した。確かにそれならば覚えやすい。組織の内部ではコードネームで名乗らなければならないのだ、
「しかし。図らずも、ビー、シー、ディーと安直な名前が並びましたね。あてはありませんが、そのうちAも加入させた方がバランスはいいでしょうか」
冗談めかして言いビーはくつくつと笑う。一瞬、潤はシーとは誰のことかと疑問に思うが、すぐに思い出した。何のことはない、このチーム名が『C』である。
「それではヴィオ。ディーにこのビルを案内しておいてくれませんか。僕はちょっとやることがありますから。
ビルの中は、三階と地下以外は自由に使ってもらって結構です。一階と二階には自販機もありますし、そちらでいつでも適当にくつろいでください。中には一日こちらにこもって自習室代わりに使っている者もいますよ」
「三階と地下には何かあるのか?」
さりげなく潤は尋ねた。さしたる動揺は見せずビーは事務的に答える。
「ここ三階は、僕の個人スペースなので。地下はちょっとした機密なのですが、どちらにせよ鍵がかかっていて入れませんよ。いずれ貴方もご案内することになると思いますが」
そこで話を打ち切ると、ビーはちらりと壁にかかったカレンダーを見上げた。つられて潤もそちらを見遣る。
カレンダーは今日に至るまでの日付がバツ印で消されていた。八月二十五日に、黄色の蛍光ペンで丸が付けてある。
「近々、今後の方針を考えてまた召集をかけることになると思います。
これからどうぞよろしくお願いしますね、ディー」
最後まで好青年の装いを崩さないままで、ビーは二人を部屋から送り出した。
「なんか、思ったより普通だったな。こっち側として接触してみると」
「それが言えるのは今のうちだけだと思うぞ」
三階から二階へ降り、廊下を歩きながら小声で二人は囁き合った。辺りに人影はないが、警戒するに越したことはない。
廊下の途中で立ち止まり、小声で京也は潤に言う。
「あいつは優等生気質でぱっと見の受けはすごくいいんだ。けど、皮をはいでみれば相当にえげつない」
「それはなんとなく分かるけどなー。猫かぶり感がハンパねー。
ともあれ無事に潜入成功っと。さっすが『俺』、抜かりないぜ」
「琴美ちゃんのおかげだけど、な」
潤の全身を見回して、京也は複雑そうな声音でそうぼやく。潤の視線の位置は、ほとんど京也と変わらなかった。
潤が手首にしているブレスレットは、ただのアクセサリーではない。
琴美から借りた
ジュールは、物体の姿をそのままに留めておく作用のある器具だった。本来は理術性疾患の発症を抑える為に使用されるが、疾患発症後にそれを装着すれば発症時の姿のまま、つまり潤の場合は男の姿のまま形態を保つ事が可能だ。
故に、潤は男の姿にて弟の名を名乗り、組織の本拠地に乗り込むことが出来たのだ。
一度装着してしまえば、外さない限り元に戻ることはない。身体に負担をかけている状態のため、二十四時間以上の使用は避けるよう琴美から厳命されてはいたが、流石に丸一日いることはないので大きな憂慮もなかった。
「それにしても、えらく大規模なアジトだな。こんなご立派な場所だとは想像してなかった」
京也に案内される道すがら、辺りを見回し、潤は驚嘆の声を漏らす。
ビルそのものは特段巨大なわけではない。年季が入っており、ところどころ染みやひび割れがある壁を見れば、実用には耐えるだろうがお世辞にも綺麗とは言えなかった。
だが、この三階建てのビル全ては、まるごとチームCの本拠地なのだ。
たった七人の、たかだか高校生の寄り集まった組織の、である。
「このビルはアルド……炎を使ってきたあいつな、その身内の所有だ。だから自由に使っていいって言われてる」
「とんでもねぇ世界の話だな……ブルジョワかよ……」
呆れ半分、感嘆半分に言い、潤はがりがりと頭をかいた。
資料室や休憩室のある二階と会議室のある一階を見回った後、彼らは廊下の奥にあった下へ続く階段の前で足を止める。
「ここが地下?」
「ああ。さっき言われたように、降りても部屋には鍵がかかってるけどな」
階段とその下の廊下には電気が点いていない。日常的にはあまり使用されていないらしかった。階段下を覗き込んでも暗闇が広がるばかりで、様子を窺うことは出来ない。
「地下には何があるんだ?」
「理術の練習場と倉庫だよ。野外でやると目立つだろ。僕らはここで理術の訓練をしてるんだ」
「練習、……そういやここの目的って、今より強い理術を使うことだったっけか」
「大雑把に言えばな。そういえば、まだ詳しく説明してなかったか」
壁に寄りかかりながら京也は腕を組む。
「僕たちが普段やってるのは『理術の力の開発』だ。地下で人目につかないよう、制御装置で抑圧される以上の理術を使う練習をしている」
「なぁ。最初に聞いたときも思ったんだけど、練習したところでできるようになるのか? 制御装置があるんだ、努力根性でどうにかなることじゃないだろ」
「建前は、な。でも実際には、裏技としてそれを可能にする方法がある」
「裏技?」
「そう。裏技とは言っても、実際に存在する公的な方法らしいぞ。理術に関する職につく人間は、その方法で強い理術を使ってる。
それに該当する人がお前のすぐ側にだっているだろう。琴美ちゃんがそうだ」
驚いて間抜けな声をあげそうになったが、潤は手で
しかし言われてみればその通りである。琴美は制御装置を超えているビーたちを相手に引けを取らず、一体三で彼らを追い払ったのだから。
「ハッキリ言ってなかったけど、そういうことだろ。ビーとアルドと僕、理術をあらかた使いこなせるようになった三人を相手に対抗出来たんだからね」
「なるほどねぇ……」
得心がいったように潤は頷いた。
周囲に人がいないことを確認してから、京也は話を続ける。
「能力を引き出すために僕らは『補助装置』という道具を使う。見た目は単なる手袋だけど、補助装置をはめているとそれだけでいつもより強い理術、つまり制御装置以上の理術が使えるんだ。何度も補助装置を使っていると、そのうち装置なしでも強い理術が使えるようになる。
それを僕らは鍵が外れるって言い方をするんだけど、チーム内だとビーとアルドにベリー、そして僕は既に鍵を外している」
「どっかで聞いたような性能だけど、補助装置とやらと聖精晶石ってどう違うんだ?」
「使い捨てが補助装置。壊れたり紛失しなきゃ半永久的なのが聖精晶石だ。それから補助装置には『持ち主を守る力』もついてない。ついでに、効果が及ぶ範囲も聖精晶石のが広い。補助装置は使う本人にしか効かないからな。
原料となってる物質は同じなんだ。それを液状化して繊維に染み込ませたのが補助装置、精度を極限まで高めて結晶化したのが聖精晶石、だそうだ。
補助装置は原料をそのまま利用してるから割合簡単に出来るけど、聖精晶石は滅多に作られない、相当に珍しい代物らしい」
「ほほう。分かったような、分からんような」
「化学っぽく言うと、炭素で考えるなら補助装置が鉛筆の芯で、聖精晶石がダイヤモンドだ」
「あ、分かった」
噛み砕いた表現に潤は頷いた。納得した様子の潤を横目に京也はまとめる。
「そういう訳で、既に鍵が外れた僕らは何もなくても制御装置以上の力が使えるんだ。もっともグレンやワイトだって、補助装置がありゃ強い理術が使えるんだけどな。
そういえば最初に会ったときの事を覚えてるか? 僕がグレンの蔓を切り落としたときだ。僕は刀を持っていただろう」
「忘れる訳ないだろうが」
潤はその時のことを思い返し、顔をしかめてみせる。ビーや琴美のことがあったので言及する機会を逃していたが、一介の高校生が刀を所有しているというのだって随分と妙な話である。
京也は黙って右腕をすっと前に差し出すと、手の平を上に向ける。
すると、にわかに京也の手の辺りから静かに風が吹いた。藍色の風が生まれ、手の平を中心に周囲に向かって吹き出してゆく。杏季の召還や自分の疾患で似たような現象は目にしていたが、一体何が始まるのかと潤は目を見張った。
やがて藍色の風が
京也の手には、
「うおあっ!?」
潤はたじろいで奇声をあげた。それは京也が数日前に持っていた刀と同じものである。少し照れくさそうな表情を浮かべながら京也は刀を両手で持ち直した。
「……とまぁ、鍵が外れるとこういった具合に、普段の理術からは想像もつかないようなことができる。水属性のビーがそれを発展させて氷が出せるのも同じ理由だ。側にいないのにグレンの植物が動いていたのもそれだしな。
僕の場合はこの刀を呼び出す……というか、具現化できる。鋼の場合はそうらしい。この具現化が出来るのは基本、鋼属性だけらしいけど、琴美ちゃんの杖もこの類の何かだと思うぞ」
そこまで言うと、京也はまた手の平を広げた。現れた時よりも早く、空気に溶け込むようにすっと刀は消えていく。あまりにあっさりと消え去ったので、潤はさっきまでのことが幻ではないかと勘ぐった位だ。
興奮を隠しきれず、興味津々といった風で潤は尋ねる。
「なあ、その補助装置ってお前も持ってるのか? ここのメンバーには支給されんの?」
「僕はもう鍵を外したからなくなっちまったな。さっきも言ったように補助装置は消耗品なんだ。鍵が外れると同時に壊れてなくなる。
そもそも基本はビーが管理していて、普段から携帯はしてないんだ。補助装置そのものが機密だからな、滅多に外に出せない」
「機密……ってことは、もしかして地下に置いてあるのか?」
「地下は地下だが、練習場じゃなく倉庫の方だ。普段はそこに補助装置が保管されてる」
なるほど、と口の中で呟いて、再度、潤は下の階を見下ろした。
話を聞く限り、このままだと琴美と京也以外はビーに対抗できない。仮に今の潤が彼らに立ち向かったとして、一方的にやられてしまうのがおちだろう。それが潤には
しかし補助装置さえあれば、潤だって真っ向から戦える。敵と同じ方法を使うことは幾分、
不意に黙り込んだ潤を、京也は不審そうな眼差しで覗き込んだ。
「月谷、お前が何を考えてるか分かるぞ」
「え? 何のことですかなー?」
とぼけた口調で誤魔化そうと試みるが、京也はきつい眼差しのまま潤をじっと睨む。
「お前、補助装置をちょろまかそうと考えてるだろ。止めとけ、せっかくバレずに上手くいきそうなんだ、なんで危険を冒す必要があるんだよ」
「虎穴にはいらずんば虎児を得ず、ですよヴィオくん?」
「既に虎穴には堂々と入ってるんだがね……」
困った素振りでかぶりを振ると、京也は潤に指を突きつけぴしゃりと言う。
「いいか。あんたに何かあった時、傷つくのは他でもないみんなだ。その辺を重々考えた上で行動を慎むように!」
「へいへい。分かりましたよ、センセ」
一つ息を吐いてわざとらしく両手を広げながら、潤は京也と共にその場を後にした。
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