第2話 兄妹の会話

 国の隣人同士が争った戦乱から、20年余りが過ぎた。

 かつて戦火に見舞われた土地は再び田畑に姿を変え、牛や羊が穏やかに育つ豊かな土壌に戻りつつあった。

 国の端にある片田舎、セリティナ村にも、今日も平和な光を注ぐ朝日が昇る。


 しかし、サーシャ・マヤフスカヤは、この日の光から隠れるように、布団をすっぽりと被っていた。彼女はいつも、このぐらいの時間になるとやってくる、あれを待っているのだ。

 すると、部屋のドアが開く音がした。ベットに近づく足音も。

 そして、サーシャの体は優しく揺り動かされた。

 サーシャは、勿体振りに布団から顔を覗かせて、上目遣いで彼を見つめた。


 -おはよう 朝が来たよ-


 と、大きな字で書かれたスケッチブックを持った青年が、ベットの脇に立っている。

 彼の名はルドルフ・ブーニン。サーシャの兄だ。

 笑うと目がキュッと細くなり、端正な顔にわずかなシワが寄る。だが見えるのはそこだけ。ルドルフは顔に分厚い布を巻き、口元を完全に覆い隠しているのだ。


「お兄ちゃんおはよう。今日の朝ごはんはなあに?」


 サーシャは、いつものように挨拶をして起き上がった。すると、ルドルフはスケッチブックのページをめくり、前もって書いていた字を見せた。


 -朝食のメニュー: 木苺とくるみのパン 目玉焼きとソーセージ 蜂蜜とヨーグルト そしてアプリコットの紅茶-


 それを目で辿ったサーシャは、ベットから飛び出した。


「今日も美味しそうっ。すぐに支度するね」


 跳ねるように水場に向かった妹を見おくると、ルドルフはため息をついた。そして、今日も見せることのなかったページを開く。

 -水場をびしょびしょにしないように顔を洗ってね-

 と、書いていたのだが。この分だと、今日も我が家の水場は、洪水の後のようにびしょ濡れだろう。

 ルドルフは肩を落としてスケッチブックを閉じ、自分は調理場に向かった。



 サーシャ・マヤフスキと、ルドルフ・ブーニンは、父親違いの兄妹だった。土地貸しをするサーシャの父親との三人暮らしで、それなりに裕福な家庭である。

 16歳になったサーシャは、眼を見張るほどの美女、とは言えないまでも、快活で明るい性格で、誰にでも好かれる少女に育った。

 一方、兄のルドルフは穏やかで思慮深く、どちらかというと内向的な青年だ。村にも私用で行くことはあまりなく、友人らしい友人もいない。それには、彼の身体的な事情が深く絡んでいるのだが、妹のサーシャは、それに対してまったく気後れすることはなかった。

 むしろ、自分だけの特別な兄であることを、自慢にも思っていた。



 すっかり準備の整った食卓につくと、サーシャは大きな口を開けてパンに噛り付いた。


「お兄ちゃん、このパンすっごく美味しいよ」


 いつものようにサーシャが満面の笑みで告げると、ルドルフは嬉しそうに目元を緩ませた。


 -昨日 森の中で木苺の実を沢山採ったから パン生地に練り込んだんだよ-


 ルドルフは筆談で言葉を返す。これも、兄妹の間では当たり前のやり取りだった。

 その時、家の勝手口が派手な音を立てて開かれ、不機嫌な顔の男が食卓に足を踏み入れた。サーシャの父親アブラム・マヤフスキが、朝の一仕事を終えて帰宅したのだ。

 アブラムは、テーブルの上に中身が詰まった銭入れを置いた。


「ルディ、牛乳を」


 アブラムは乱暴な口調でルドルフに命令すると、食卓についた。ルドルフは、父親が言い終わるより先に牛乳を差し出し、手際よく朝食の全てを並べる。父親は、まるでずっと前からそこに食事があったかのように、むしゃむしゃと食べだした。

 今日も何も言わない。サーシャはうんざりした。

 無愛想な父親の態度を改めるのは、とうの昔に諦めたが、やっぱり気が滅入ることこの上ない。でもここで何か言っても、暖簾に腕押しだとわかっている。

 サーシャは、別の小言を口にした。


「お父さん、こんな朝早くから賃料の取り立てに行ってたの? それじゃ農家のみんなも、朝から嫌な気持ちになって一日の始まりが台無しよ」


「地主が土地を貸してやってる農民に、金をせびって何が悪い。こういうのは、一日の終わりより朝一番の方がよっぽどいいのさ。 ん、なんだこの匂い、なんか臭うぞ」


 アブラムはサーシャとの会話を切り上げて、鼻をスンスンさせて食卓の匂いを嗅いだ。食事とは違う匂いが漂っている。サーシャも気がついた。そして、窓辺に置かれた花瓶に、見慣れない紫色の花が差しているのに目を留めた。


「この花の匂いね、いい香り。見たことのない花だけど、どうしたの?」


 兄に顔を向けると、ルドルフはスケッチブックを取り出して、さらさらと鉛筆を走らせた。


 -村に行商人が市場を開いていたから 今朝の買い出しで 食材のついでに 異国の花を買ってきたんだよ-


「行商人が来てるのっ? いいなぁ、あたしも見に行きたい。お兄ちゃん、この後一緒に行きましょうよ」


 サーシャが誘うと、ルドルフは微笑んで頷き返した。

 楽しみだわ。と、サーシャは浮き足立って喜び、だが父親には冷たい目を向けた。


「誘うまでもないけど、お父さんは一緒に来ないでしょうね」


「当たり前だ。市場になんて行ったって、面白くもなんともない。それよりお前、市場に行くなら、見栄えのする派手な髪飾りを買ってきなさい。」


 アブラムはそう告げると、銭入れから幾つかの硬貨を取り出して、サーシャに手渡した。しかし、サーシャは憮然とした顔のまま、つっぱねた。


「お父さんの愛人への贈り物? いやよそんなお使いは。自分で買いに行ってちょうだい」


「違う。お前の髪飾りだよ」


 思っても見なかった返事に、サーシャは拍子抜けして声を上げてしまった。金に意地汚く女好きで、我が娘にはなんの愛情も示さない、この父親が。まさか髪飾りを買ってくれるとは。


「やだお父さん、どういう風の吹き回し? 雪でも降るのかしら」


「バカを言ってないで真面目に聞きなさい。お前の結婚相手が決まったんだ」


 予期せぬ宣告に、サーシャは言葉を失って凍りついた。ルドルフまでもが目を丸くし、父親を凝視する。アブラムは、ソーセージをナイフで切り分けて口に運ぶと、咀嚼音を漏らしながら話し続けた。


「相手は隣村で養鶏場を営んでいるペトホフの息子だ。この辺じゃ一番大きな鶏屋だから、前途有望なまたとない良縁だぞ」


「いっ、嫌よ! そんなの勝手に決めないでっ!」


 サーシャは声を張り上げて怒鳴ると、テーブルを力強く叩いて立ち上がった。


「そんな誰かも知れない人と結婚なんて、絶対にしませんからねっ!」


「なんだとっ? せっかくお前のために話をつけてきてやったというのに、 親の愛情をないがしろにするつもりかっ!」


「愛情ですって? そんなものただの支配と傲慢でしかないわっ!」


 勢いよく言い捨てたサーシャに、アブラムは顔を真っ赤にして怒鳴り返した。


「勝手に言ってろっ。お前はポトロフの息子と結婚するんだ! 相手との準備が出来次第、嫁入りさせる。だから市場で一番高価で見栄えのする飾りを買ってこいっ、これは命令だっ!」


「そんなもの買いませんっ。第一、結婚結婚って焦るなら、わたしよりお兄ちゃんの結婚相手を探す方が先じゃないのっ? お兄ちゃんはもう21歳よ?」


 突然、矢面に立たされて、今度はルドルフが焦って首を振り抗議した。

 だがアブラムは鼻を鳴らすと、ルドルフに蔑んだ目を向けて、サーシャに言った。


「こんな声無しの男に、嫁に来たい女なんているわけないだろう。召使としてこき使うならまだしも、一生奴隷の身分が関の山さ」


 あまりの言い草に、サーシャは目を剥いて抗議した。


「どうして、いつもお兄ちゃんばっかりいじめるのよっ」


「いじめる? 俺が? いつそんなことした?」


 アブラムはわざとらしく目を瞬かせ、とぼけたふりをした。この素振りにも腹ががたったサーシャは、さらに声を荒げた。


「昔から殴ったり蹴ったりしてきたでしょ! 大人になってもこき使って、ほんと人でなしだわっ!」


「そいつが声を出せないのがいけないんだろう」


「声を出せないことの、何が悪いのよっ?」


「悔しかったら、ルディの嫁に来たいと言ってる女を連れてきてみろ。どうせどこを探してもいないだろうがな」


 その言葉に、サーシャはギュっと唇を噛み締めて黙り込んだ。

 サーシャが紅潮した頬を隠すように俯くと、父親は高笑いして、話は終いだと言わんばかりに、踏ん反り返って椅子に座りなおした。


「とにかくお前は嫁に行く。その装飾品を買ってくるんだぞ、いいなっ?」


「知らないっ。 結婚なんてしないからっ!」


 サーシャはそれだけ言い残すと、逃げるように勝手口から外へ飛び出していった。その後をルドルフが追おうとしたが、服の裾をアブラムに引かれて立ち止まった。


「そのまま市場へ行け。お前に金を預ける。一番いい髪飾りを買ってくるんだぞ」


 有無を言わせぬアブラムの言葉に、ルドルフは頷くと、硬貨を握りしめて勝手口から外へ出た。妹の姿は見当たらなかったが、こうやって父と言い争うと、必ず行く場所がある。

 ルドルフはすぐにその場所へ向かって駆け出した。




 畑を見下ろす小高い丘。ここに建っているマヤフスキー家から、さらに森に向かって丘を下ると、墓地に出る。

 ルドルフの思った通り、墓地の入り口には、サーシャの愛馬のアハルテケが繋がれていた。この子がいるということは、サーシャはやっぱりここに来ているんだ。ルドルフはアハルテケの美人な顔を撫でてやると、静けさに包まれている墓地に踏み入っていった。

 しばらくすると、小さな墓標の前で、座り込んでいるサーシャの華奢な背中を見つけた。その墓標は、母マリーヤのものだ。サーシャを見守るように、ひっそりと佇んでいる。

 ルドルフがそっと歩み寄ると、サーシャは泣きはらした顔を上げて、ぽつりとつぶやいた。


「お父さんなんて大嫌いよ。わがままで傲慢で、お兄ちゃんをいじめて、ひどいやつだわ」


 憎々しい表情を浮かべる妹に、ルドルフは腰を下ろして、そっと寄り添った。サーシャは、兄の肩に顔を埋めて、くしゅくしゅと擦り付けた。


「お母さんが生きてた頃は、普通の兄妹だったのに。今では、お父さんはお兄ちゃんを召使扱いするし。わたしまで勝手に結婚させようとするし。子どものことを、道具としか見てないんだわ。恨みで復讐できればいいのに。ねえ、お兄ちゃんもそう思うでしょう?」


 すがるように同意を求めた妹に、ルドルフは困ったような表情を見せた。いつものように、スケッチブックを取り出して文字を綴ると、サーシャに見せた。


 -おれは 口が利けないから なんの役にも立てない 家においてもらえるだけで ありがたいと思ってる-


「お兄ちゃんは人がよすぎるわ」


 憮然とするサーシャに、ルドルフはさらに文字を続けて見せた。


 -それにおれは 母さんの連れ子だ 母さんが死んだ後も家においてくれるお父さんには 感謝こそすれ 恨むだなんてとんでもない-


 ルドルフはスケッチブックをおいて、穏やかに微笑んだ。その目元は、9年前に死んだ母親にそっくりだ。何度この笑顔に助けられ、何度この笑顔に惹かれたか。サーシャは頬を紅潮させて、口を尖らせた。


「お兄ちゃんはずるいわ。いっつもそうやって笑って誤魔化すんだから」


 そんなことないよ。と、言わんばかりにルドルフは楽しそうに笑った。珍しく、ふふふっとくぐもった息遣いが、厚い布越しに聞こえてきて、サーシャもつられて笑ってしまった。煮えたぎった怒りも、しゅっと冷えてしまったようだ。


「わかったわ。お兄ちゃんに免じて、とりあえず怒るのはやめる。結婚は絶対にしないけど。でも行商人の市場には行くわよ。お兄ちゃんも一緒に来てよねっ!」


 サーシャは元気いっぱいに告げると、まだ返事もしていないルドルフの手を取って、

 墓地の道を帰り始めた。

 そして愛馬に跨ると、後ろに兄を乗せて、掛け声を上げた。

 アハルテケは主人の命令に忠実に従い、村への道を走り始めた。

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