咆哮のルドルフ

淡 湊世花

第1話 プロローグ


 夜の森に、闇を切り裂く赤子の泣き声が轟いた。

 女が我が子を抱きしめ、迫り来る戦火から死に物狂いで逃げてきたのだ。しかし、炎は今にも女の背中を掴むところまで差し迫っている。

 やっとの思いで、崖の根元に掘られた防空壕にたどり着いた女は、安堵の色を顔に浮かべた。防空壕は、頑丈な扉で閉ざされている。女は必死に戸を叩いて声を張り上げた。


「旦那様っ、マリーヤが着きましたっ。扉をお開けくださいっ!」


 女の叫びは虚しくこだまし、扉は固く閉ざされたまま。追いついた灼熱が風に乗り、女と赤子の頬を撫でた。赤子は、さらにけたたましく泣きだした。女はもう一度、扉の奥に向かって叫んだ。


「旦那様っ、マリーヤとルドルフでございますっ。どうか中にお入れくださいっ!」


「ここはもう定員じゃっ。他をあたれっ!」


 扉の奥から返事が飛んだ。しかしそれは、女の希望をへし折る宣告だった。女は青ざめ、扉にすがるように、頑丈な扉を何度も叩いた。


「わたしも子どもも死んでしまいますっ! どうか、どうか子どもだけでもお助けくださいっ!」


「赤子はダメだっ、泣き声でこの場所が知られてしまうっ! よそへ行けっ!」


「そんなっ、お情けをっ! 旦那様っ!」


 女は涙を浮かべながら、何度も扉を叩いた。だが、もう中から返事は返ってこない。

 赤子の泣き声が、喉を引きちぎるような絶叫に変わり、女は途方に暮れて赤子を強く抱きしめた。そして周囲を見渡し、かろうじて炎が回っていない方角を見極めると、フラフラと足をもたつかせながら、再び走り始めた。



 その時だ。

 突然、彼方の方角から、ヒュルルルルという不気味な音が降ってきた。咄嗟に女が振り返った瞬間、ズドンという重い振動とともに、女はなすすべなく吹っ飛ばされた。地面に叩きつけられた女は、すぐに赤子の無事を確かめた。

 よかった、泣き叫んでいる。怪我もない。

 女は、すぐにまた走り出すために立ち上がり、そしてぎょっとした。今の先まですがりついていた防空壕の扉が、木っ端微塵に粉砕し、穴倉の中から黒煙が立ち上がっていたのだ。

 女は叫び声を上げ、子どもをきつく抱きしめるなり慌てて駆け出した。

 一瞬のうちに、多くの人が死んだのだ。恐ろしさのあまり、女は死の恐怖から逃げるように、がむしゃらに走った。


 ところが、真っ暗闇の森は足場も悪く、女は木の根につまずいて転んでし まった。途端に、赤子が火がついたように泣き叫ぶ。

 その時、森の奥の茂みがざわめき、異国の軍服をまとった兵士たちが姿を現した。女は慌てて、赤子を泣きやませようと、小さな口を手で覆おうとする。だが時はすでに遅し、女は敵国の兵士に囲まれてしまっていた。


「お、お情けを。子どもはまだ乳飲み子です」


 女は恐怖におののき、顔を引きつかせながら絞り出すように命乞いをした。だが、敵国の兵士たちは冷たい表情を変えることなく、銃剣の切っ先を女に突きつけてきた。

 女は絶望し、我が子の命だけでも何とか庇おうと、兵士たちに背を向け、子どもを包み込むように強く抱きしめた。


 無慈悲な兵士たちは、銃剣を振り上げて女の首に狙いを定める。赤ん坊とその母親を殺めるのを、躊躇する者は1人もいない。

 泣いていた赤子が、一段と声を張り上げて、突き上げるように泣き叫んだ。

 その瞬間。

 女と赤子を中心に、衝撃波のような波が走った。兵士たちは見えない衝撃に吹き飛ばされた。彼らが持っていた銃剣が、粉々になって砕け散る。悲鳴をあげる兵士たち。銃剣だけでなく、腕や胴体、首まで千切れた者までいた。

 兵士たちは失った四肢の付け根を押さえながら、一目散に森の奥へと逃げ帰った。

 女は一瞬の間に、何が起きたのかわからなかったが、腕や首がもげた遺体が転がっているのを目にして、悲鳴をあげた。


 赤子の無事を確かめようと、抱いた我が子の顔を見て、女は二度驚いた。いつの間にか赤子は泣き止み、打って変わってニコニコと笑っていたのだ。


「ルドルフ、いったい何が起きたの?」


 女は戸惑いながら名を呼びかけた。

 ルドルフ。それがこの子の名。

 この小さな口に、恐ろしい力が宿っていることなど、この時母は、知る由もなかった。




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