第一章 臨時講師 神(2)

 夕日が、僅かに沈んだ。

 武道館の体育教官室の戸を静かに開けて退室しようとする、巨漢の学生。

 巨躯が纏う紺の学生服の襟元は開かれ、しかし決して気取っている訳でなく、彼の見事な筋肉質の体を包み切れずに止むを得ず開けているだけであり、それを証明する様に、彼が纏う学生服の至る所がぴっちりと張り詰めその一挙一動に、鍛え抜かれた筋肉が反応して脹れ上がっていた。

 巨漢は葉山  葉山正太であった。

 彼の貌は重く沈んでいた。その彼の後ろの部屋の奥にいる、先程、審判を勤めた奥野教師は、正太以上に沈み切って手にしている一枚の封筒を昏い貌で見詰めていた。

 その封筒には、『退部届』と書かれていた。



「葉山、待てよ」


 正太は校門を出た所で、背後から呼び止められた。


「何だ、水月〔みなづき〕か」


 正太は振り向きもせず、つまらなそうに応えた。


「……何だ、は無いだろう」

 

 巨漢の親友につれなくされた水月は、手にしたスポーツバックで目の前の大きな黒い壁を軽く叩いた。彼自身、正太よりは上だと信じている男前の顔を苦笑いに崩したそれには、悪意の欠けらは無い。


「聞いたぜ、今日の試合」


 水月は正太の正面に回り込み、その童顔を下から見上げる様に覗き込んだ。

 正太はきょとんとするが、それでも水月に応えようとしない。

 不意に、水月の顔が曇った。


「本当に、退部届けを出したのか?」


 正太は大きく溜め息をつく。正太は漸くその沈み切った貌で応えてみせた。

 水月は肩を竦め、


「いったいどうして、空手部を止めたンだよ?」

「……殴り合いが厭になっただけさ」


 正太はぼそり、と答える。そして水月を押し除けて再び歩き出した。


「嘘言うない」


 水月はやれやれ、と頭を掻きながら苦笑し正太の後を追う様に歩き出した。


「葉山みたいな格闘技莫迦が、そう簡単に止められる理由が無いだろ?何か問題でも起こしたの?」


 正太は寡黙に努めた。


「空手部の先輩達、みんな優しいのにねぇ。大体、葉山みたいな我が儘な野郎が、あんな好い人達の所に半年も居られたなんて、奇跡だよねぇ」


 水月は意地悪そうに言ってみせた。

 それでも、正太は応えない。


「だけど、八百長はいけねぇな」

「八百長じゃねぇよ!」


 漸く、怒声を以て正太は応えた。

 水月は眉を顰めて正太を睨んだ。


「じゃあ、どうして灰原さんを倒す寸前で廻し蹴りを止めたンだよ?」

「……見ていたのかよ」

「ああ。俺も空手部の部員なンだぜ。――幽霊部員だけどな」

「そうだったな」


 正太は破顔した。


「立派な空手道場の息子のくせに、乱取りが嫌いで殆ど顔を出さないお前さんでも、次期主将を決める試合は気になったか」

「まあな。うちの空手部は実力主義だから、拳の腕が上なら一年坊主でも主将になれるって話だしな。もっとも、それを実現出来る奴なんて、そうそう居ないが――お前は例外だと思ったんだがな」

「買いかぶりすぎだぜ」


 そう言って肩を竦める正太の顔が、不意に曇った。


「……なあ、水月。あの時、何処かで変な奴が俺達の事を見ていなかったか?」

「変な奴?」


 水月はきょとんとした。


「ああ。あの時、副将の隙を捕らえた時に、俺は変な気配を感じたンだ。――とっても冷たく、人をなぶる様に見つめている、厭な気配だった」


 水月は小首を傾げた。


「……気のせいじゃねぇの?俺は武道館の外から正太と灰原先輩の試合を見てたけど、他に不審な奴は居なかったぜ」

「見なかったが――感じなかったか?」

「感じた……?」


 水月は正太の質問に戸惑った。


「……そう言われてみれば…そんな感じもあった様な気がするけど…。でも、何故だろ? 何で、そんな事が気になるンだ?」

「俺にも、判らん」


 正太は肩を竦めた。

 正太がそう応えてから、暫く二人の会話が途絶えた。

 暫くして、二人は桜田通りに沿って数分間歩いた所にある児童公園に入って行った。

 正太は黙って、公園のベンチに腰を下ろした。その巨躯故に、そのベンチは正太には小さ過ぎ、鍛え上げられた筋肉が占める重量が木製のベンチを、ギイッと鳴かせた。

 水月は公園の隣にあるコンビニエンス・ストアの自動販売機から缶コーヒーを二本買って来、ベンチに座る正太に一本、放り投げる。黄昏の色の中に弧を描く缶コーヒーは、己を包み込む程大きい掌の中に収まった。


「済まンな」

「なぁ、葉山」


 コーヒーを煽った水月が再び訊く。


「もう一度訊くが、何で退部したンだ?」


 再び問われて、正太は漸く水月の顔を伺った。


「……理由……ねぇ」


 正太は曖昧な微笑を零して頭を掻き毟った。


「……自分が厭になっただけさ」


 そう答えると正太は腰を上げ、一気にコーヒーを飲み干すと、その空き缶を右方向にあるゴミ箱に向かって投げ遣り気味に放り投げた。好い加減に投げた所為か、空き缶はゴミ箱の中に収まらずに、砂利の敷かれた歩道に落ちた。


「ヘタクソ」

「煩ぇ」


 捨て直す気がないのか、正太はそのままさっさと公園を出て行こうとする。水月は嫌々正太の捨てた空き缶を捨て直そうと、ゴミ箱の方に歩き出した。

 一瞥もくれぬ正太の右掌が、何かを掴み上げようとする仕草をとったのはその時であった。


「何っ?!」


 水月は思わず目を瞬いた。正太の捨て損ねた空き缶を拾い上げようとした途端、その空き缶が突然宙に飛び上がって、ゴミ箱の中にダイブする光景を目撃したからである。


「な、何んだ今のは?!」

「これが、理由だ」


 公園を出た正太はぼそり、と呟いた。

 しかし、その呟きは、公園に一人取り残されて唖然とする水月には届く事は無かった。

 流行りのオカルトブームに気触れ掛けている水月には、今の現象は余りにも衝撃的であった。水月はショックのあまり混乱して立ち去った正太の事を忘れ、空き缶を持ち上げた奇怪な力の正体を突き止めようと、ゴミ箱をひっくり返したり、砂利を掻きあさったりして必死になって捜し回っていた。

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