第43話黒白の人竜 其の一

 ザインに刺されたエルキュールから血液が流れた時、アンネリーゼは驚愕で言葉を失ってしまった。悪魔が血を流すということが何を意味するかを彼女は知っている。最高位、即ち地獄の王の一人が現世で『受肉』した。これは王国どころか世界規模の大問題である。

 悪魔は強い。その強さの一つが彼らの現世における完全なる不死性にあった。悪魔は地獄という異界の魂魄だけの存在故に、そのままでは非常に不安定だ。それでは現世における活動が制限されるので、その鎖から解き放たれる為に仮初めの器を魔力によって作るのだ。

 しかし、現世で己の存在を安定させる方法はもう一つある。それが『受肉』だ。『受肉』とは仮初めではなく本物の肉体に悪魔が憑依することを差す。これは魔力で造られた偽りの肉体よりも安定するのだが、滅多に起こる現象ではない。何故なら『受肉』には非常に大きな欠点があるからだ。

 利点は単純に強くなれること。与えられた肉体の性能にもよるが、生来の魔術に強靭な身体が加われば強くなるのは火を見るより明らかだろう。肉体の質如何では悪魔の魔力を数段向上させることも可能なのだ。受肉した悪魔が格上に勝利したという伝承も残っている。

 ただし、欠点は利点を遥かに超えて致命的なものだ。悪魔は受肉した状態で肉体を修復不可能なまでに破壊されると、地獄へ帰還出来ずに死ぬ。受肉は現世における不死性を失わせる。悪魔と対峙する討伐屋には無理やり受肉させてから滅する、という方法をとる者もいるのだそうだ。

 デメリットが大きい受肉だが、今の問題は最高位悪魔が受肉してしまったことである。ただでさえ魔王以上の力を持つ悪魔が受肉することで更なる力を得た。それは地上においてエルキュールに勝ちうる者など皆無に限りなく近いことを意味する。…理屈の上では。


 「オラオラどうした!」

 「ぬぬぬ!な、何ということだ!全く見えぬ!」


 実際の戦闘になるとアンネリーゼの予想は大きく外れた。悪魔と言えども魔術を使う時の僅かなタイムラグを無くすことは出来ない。人間の魔術師などよりも圧倒的に短いのだが、本気になった人竜相手にその隙は致命的だ。ザインの猛攻は魔術を使う時間など与えない。戦闘が始まってからエルキュールはまだ一度たりとも魔術を使えずにいた。

 思いも寄らぬ苦戦に、エルキュールは苦々しさと同時に歓喜を覚えていた。悪魔の王である彼はほとんど戦ったことはない。大昔に一度だけ他の悪魔の王と小競り合いになったことがあるが、その時は終始魔術の撃ち合いだったと記憶している。そんな彼にはザインの剣術は、戦っている実感を与えてくれたのだ。


 「うおお…我が輩、ガラにもなく熱くたぎっておりますぞ!」

 「うるせぇ!さっさと死ね!」

 「くぅぅ!腕が!」


 ザインに腕を切り落とされたエルキュールであるが、その口元には笑みが浮かんでいる。それは余裕から来る笑みだ。もがれた腕の断面から青黒い触手めいた何かが伸びて、地面に落ちる前に繋がってすぐに元通りになってしまう。他の切り傷も同じで、斬ったり殴ったりしたそばから治っていく。鎧の化け物以上の再生力に、ザインは舌打ちを禁じ得なかった。


 「これが剣術!人間の練り上げた業という訳か!近距離ではどうにもならぬ!一旦、距離を取らねば!」

 「させるかよ!」


 エルキュールは背中から蝙蝠のような翼を生やすと飛び上がって空に逃げる。だが、彼は何を相手にしているかを忘れていたようだ。

 鎧の背面を突き破って出てきたのは、ザインの竜の翼であった。同時に腰の付け根からは尻尾が伸びる。完全なる人竜の姿を晒したザインは、二枚の翼を大きく広げた。


 「飛べるのはお前だけじゃねぇんだよ!」


 弾丸の如く飛翔するザインの咆哮が森の木々を揺らす。竜と悪魔の死闘はまだ始まったばかりだ。

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