28-③




 白い頬に一文字の傷ができて赤い雫が飛ぶ。

 鬼女が出現した瞬間に、反射的に後ろに退いて距離を取ったためこの程度の……薄皮を一枚と、ロングスカートに脹脛までのスリットを入れられたぐらいで済んだ。だが、被害の程度に安心している場合ではない。

 依然として、鬼女との距離は縮まってしまっているのだ。


『若いオンナは、美味しく! 食べてアゲルからねぇぇ! 血の一滴も残さズニ、全部キレイに食べるからねぇ! ワシの血肉になれば……一緒ニ、ずっと一緒サァ!!』

「なるほど、それが鬼女と成った母のに対する罪滅ぼしですか! 狂人の思考ですわね」


 そりゃ、とっくの昔に狂っている。胎を裂いた娘も、肝を抜いた孫もとっくの昔に自分のナカに収めている。

 鬼女を振り払うように白扇を扇げば、夕顔の蔓が伸びて鬼女の手足を拘束する。だけど、直ぐに解かれるのは目に見えていた。

 人ならざる鬼女の怪力は、弱々しい蔓なんて簡単に引き千切られ出刃包丁でズタズタに切り刻まれる。夕顔が三味線を打つ度に出刃包丁の切れ味がよくなるように錯覚してしまう。

 再度、紫乃の目前に出刃包丁の切っ先が迫ると、彼女は間一髪で避けてあばら家の床にゴロゴロと転がった。頭から落ちたボーラーハットに出刃包丁が突き刺さり、真ん中に穴が空いてしまっている。


「……になってよね。お気に入りなんだから! 青海波!」

「無駄よ。無駄、無駄、無駄! あたしの鬼女は、そんな人形じゃ止められないわ。それとも、何か必勝の策でもあるのかしら? 素敵な光源氏が助けてくれるとか?」

「……はぁ?!」


 青海波人形鬼女が紫乃の前に現れても、鬼女は闇に紛れて姿を消し、青海波人形を無視して通り過ぎて紫乃に攻撃を仕掛けてくる。

 力任せに扇いだ白扇から白い夕顔が鬼女の前にぶつかると……何だか、紫乃の表情がより一層険しくなっていた。


「……紫乃さん。非常に業腹――つまり、激おこですか?」

「その言葉は存じ上げませんが……ええ、非常に業腹ですわ。この【本】の【読み手】だからと言って、光源氏のファンだと決め付けられるのは……!」

「うん?」

「私、『源氏物語』そのものは好きです。全五十四帖を空で言えますわ。ですが、主人公の光源氏は大っっっっっ嫌いです!」


 とても力強く、とてもオープンに隠さずに、蛇蝎の如く嫌厭するとは正にこのこと!と言わんばかりの大嫌いを叫んだのである。

 50年ぐらい先取りしすぎた単語を口にした蔵人に対する嫌悪なんて、子供がこの野菜が嫌いと言っているような可愛いわがままだと思えるような、そんな可愛いものだった。


「まあ、物語は好きだけど主人公は嫌いというのは、よくあることですからね。物語と脇役だけを愛して、主人公は嫌いという方の同人も拝見したことがありますし」

「光り輝く源氏の君などと、ハンサムなプレイボーイなどと言われていますが、やっていることは片っ端からガールハントして力ずくでモノにして挙句の果てには不義密通なり様々な馬鹿なことをやらかして出世しまくってウハウハしているだけじゃないですか!! 恋する女も女ですが! そこは時代の流れとしては仕方ないですが! 正妻が亡くなって喪が明けてさあと意気揚々と若紫に手を出したとか本当! 最っ低!」


 初めて、この夢の中で時代相応の単語、もとい読人にとっては死語が出て来た気がする。


「そもそも! 若紫を引き取ったのだって、忘れられない藤壺の姪でよく似ていたからって理由だったし。いい歳して女三宮を妻に迎えたのだって彼女が藤壺の血縁だったからって、プレイボーイを通り越してただのマザコンよマザコン! 夕顔に関連するえにしだってそうよ。娘の玉鬘を引き取って養女とした癖に嫁いだとなったら手を出さなかったことに後悔するとか、色狂いもそこまで来ると病気ですわね。付ける薬も切る腫瘍もないさっさと安楽死でもさせた方が良い病気よ!」

「紫乃さん、怖い」

「何この女」


 紫乃の瞳孔が開いている。ろくな息継ぎもせずに一気に不満をぶちまけ、その様子に蔵人のみならず夕顔まで若干引いていた。

 まあ確かに、『源氏物語』自体は雅な国風文化の結晶だ。当時の愛憎入り乱れる貴族社会を描いた長編小説は、日本のみならず世界中にファンがいる。が、紫乃に言わせてみれば主人公がアレなのだ。何故お前が主人公なのだ。

 やんごとなき美青年プレイボーイに憧れる者もいるだろう、古典の教科書にも載る恋愛物語だ……だが、彼女が言いたいのはこういうことだ。

 女が全て、恋愛物語の美青年に憧れると思うなよ。


「絵合、五節の薬玉、襲色目、そして青海波の舞……良いじゃない。ソレが好きで。ソレだけが好きで。『源氏物語』が好きだからと言って、全てを全て、愛さなければならないという決まりなどないのよ。好きな場面があれば嫌いな場面もある、だからこそ物語は面白い! 主人公を召喚したからって、調子に乗っているんじゃあないわよ!」

「っ、何をする気なの!」


 主張を貫き通した紫乃が『源氏物語』の頁をめくる。【本】には更なる光が灯り、彼女の想像力により新たな能力が創造された。


「この場が鬼女の闇ならば、全部吹き飛ばして差し上げますわ。小細工なしの、正々堂々の、力業で! 展開能力!」


 あばら家が全壊してしまいそうなほどの突風が巻き起こった。


「野分吹きすさぶ春町!」


 野分とは台風の古語。野の草を強風が吹き分ける様子を現す、秋から冬にかけての季語である。『源氏物語』では中盤に当たる二十八帖の巻名だ。

 野の草を吹き分け、女性を慎み隠す御簾さえも吹き飛ばしてしまいそうなほどの突風が巻き起こると同時に、紫乃を中心に世界が塗り替えられつつある。

 不気味な旅路の夜は、台風の夜へ。鬼女の狩場であるあばら屋は、寝殿造りの六条院の屋敷へ。

 物語の世界を現実に展開する能力同士が、同時に発動された時……勝つのは、より強く自身のを創造できた者だ。


「暴風で闇を祓おうって言うの? 馬鹿じゃないの、そんな力業!」

「できるかどうかなんて、やってみなければ分からないわ! 少しは想像力を働かせなさいな」

「岩手、もういいわ。全部食べていいわよ……その包丁で、刺し殺しておしまい」

「ではその前に、世界を変えて差し上げましょう!」


 秋の季節、春の町と称された六条院の屋敷へ野分が襲い掛かる。強風に吹き上げられた御簾の向こうから現れたのは、爛漫の桜の如き艶姿――父の妻である紫の上の姿を目にした夕顔を驚愕させ、彼の世界を衝撃と共に塗り替えたように。


「この風は、世界を変える」


 荒れ狂う風は、出刃包丁を片手に紫乃へと襲い掛かろうとする鬼女を押し戻し、夕顔の髪と着物の袖を乱す。

 手にした撥で三味線を打つこともできぬほどの風。『黒塚』の【本】の頁がめくれて、パラパラと音を立てて、逆さ吊りの蔵人の身体がブラブラ揺れた。

 闇を侵略する風が世界を塗り替える。六条院の屋敷が、はためく御簾の場面が夕顔までをも飲み込めば、お互いの展開能力が衝突し合い弾けたのだ。


「あ、いて。どうやら、展開能力同士が相殺し合ったようですね」

「あの女、本当に力業と勢いで、岩手の場面を塗り替えたと言うの……!」


 夕顔の『奥州安達ヶ原ひとつ家』の場面が閉じられ、鬼女は闇を失い夕顔の側で蹲ってしまっていた。蔵人を逆さ吊りにしていた縄も消え、世界は被害に遭ったパブという現実に戻っていた。

 野分の勢いは多少衰えた。だが、未だ風は吹き荒れ、カウンターの後ろの酒瓶が落下して、多種多様なアルコールで床が汚れ、酒気が鼻に刺さる。


『眩しい! マブシイ!』

「怯まないで岩手! 電球の明かりがあるからと言っても、今は夜! 未だ貴女の世界なのよ!」

「では、夜すらも塗り替えて差し上げましょうか」


 紫乃の手には、いつの間にか年季の入った手提げランプがある。カウンターに吊るされていたあのランプだ。白扇の蔓を伸ばして引き寄せたようである。

 ここで、夕顔が何かに気付いたかのように床を見て、微かに表情を歪ませた。


「……なるほど。野分を巻き起こして、力ずくの勢いで場面を展開させて突破したかのように見えますが。紫乃さんの本当の目的は、強風で酒瓶を落としてアルコールを充満させること。アルコール度数80%のストローも、見事に割れていますね。お酒臭い」

「召喚能力……物語の主人公を召喚する能力。物語の中からそのままそっくり召喚された本人ならば、弱点もそのままのはず。安達ヶ原の鬼女は、観世音菩薩の光明を放つ破魔の矢。もしくは、稲妻によって絶命したとされています」

「っ! やめろ!」

「苦手なんでしょう、光が」


 火が灯ったランプが、紫乃の手から落ちた。

 様々なアルコールが乱雑に混ぜられたカクテルが水たまりとなった床へ砕けたランプの火が燃え移り、辺り一面は一瞬で火の海と化したのだ。

 炎はアルコールを噛み砕きながら、轟々と音を立てながら燦々と燃える。『黒塚』の物語から逃れることのできない鬼女は、己を貫いた光の矢を怯えるように炎の光に悲鳴を上げた。


『イヤぁぁぁぁぁ!!』

「岩手!」

「では、今度はこちらの登場人物に入場を願いましょう。女狂いのろくでなしによって人生を狂わされた、愛情と嫉妬と矜持が入り混じった、女の情念を! 創造能力・六条御息所!」


 恋人の愛情を渇望しつつも、己の自尊心を押し殺した故に、嫉妬心が抑圧できずに生霊と化した女の怨念。

 顔から一枚、また一枚と剥がれ落ちる般若の面が黒い雫となり、炎の中に黒い涙跡ができる。赤黒い薔薇と何十本もの帯紐によって封印された怨霊が創造されたのだ。


『ア、ア……ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!』

「一説には、源氏と逢瀬の最中の夕顔を呪い殺した物の怪とは、彼女の生霊だと言われています。夕顔も葵の上を、死してなお紫の上と女三宮を苦しめた、愛故の憎悪。貴女が源氏を呪い続けるならば、私がいつでもその舞台を整えるわ」

「岩手! 包丁を持って、あの紐を切って!」

『嫌……イヤ……姫、サマぁ……!』

「立ちなさいよ! 立って……!」

「一条大路車争い!」

『ギャァァァァァァァァ!!!』


 祈祷に使われる芥子の匂いが染みついた全身の帯紐が何本も伸び、鬼女を絡め取る。骨の浮き出た身体は、枯れ枝が折れるようにバキバキと音を立てて強く拘束されると、赤黒い薔薇の咲いた十二単が開けて空虚な闇が見えた。

 六条御息所の十二単の奥から出て来たのは、お揃いの般若の面が付いた牛車だ。引く牛も者もいないその姿は、妖怪・朧車。

 般若の面がケタケタと笑い、牙を見せて大きく口を開ける。車輪を高速回転させて真っ直ぐに突進する先は身動きが取れない鬼女だ。

 怯える鬼女の濁った双眸に映るのは、屈辱の存在であった牛車に宿った勝者の高笑いか。それとも、微かな光に包まれた正気の狭間に置いて来た過去の想い出か。

 絶望の悲鳴を上げる鬼女へと突進して行った牛車は、白髪を振り乱す頭を食い千切り、炎の海に赤黒い薔薇を散らしたのである。


「嫌……嘘、でしょ岩手。何で負けるの。嫌、死にたくない! 嫌!!」

「死にたくないなら、『黒塚』の【本】をいただけますか」


 怯えて床に座り込む夕顔の前に、穴が開けられたボーラーハットの埃を払いながら紫乃がそう声をかけた。

 三味線も撥も落とした彼女が、震える手で『黒塚』を差し出せば、「めでたしめでたし」の一言とともに【本】は閉じられ【戦い】は終わる。現実に展開された物語はになり、紫乃のボーラーハットの穴もロングスカートのスリットも、頬の傷も元に戻ったのだ。


「『鉄のハンス』『あしながおじさん』『怪鳥グレイフ』『カエルの王子様』。そして、『黒塚』。五ついただきましたわ」

「……覚えておきなさいよ。岩手あたしを殺した報い……いつか、いつか、いつか!」

「はい、お帰りはこちらですよ」


 丁寧に扉を開けた蔵人になど見向きもせず、紫乃だけを睨みつけたまま、夕顔は返却された『黒塚』を抱き締めたまま夜の中に逃げ去った。三味線も撥も放り出して【本】だけを、赤子を抱くかのように大切に抱えていた。


「マスター、大丈夫ですか? 気絶していますね。明日は臨時休業かな」

「貴方は大丈夫そうですね、蔵人」

「これでも、つい先ほどまで頭に血が下りて大変でした。紫乃さんは、紋章を七つ獲得おめでとうございます」

「八つ、ですわ。先日、『兄と妹』の【読み手】からいただきましたので」

「おや、独走状態ですね。私も負けていられません」


 蔵人が中折れ帽を傾けて目線を隠す。本気か軽口かいまいち判断のつかない発言だ。

 紫乃が持つ紋章は、『源氏物語』以外は七つ。うち、この場で手に入れた五つと『金の斧・銀の斧』を手に入れた回想は読人も目にしている。

 つまり、この記憶は基本的に蔵人が見聞きした彼の記憶なのだろう。蔵人の知らないところで紫乃が紋章を手に入れても、読人はそれを視ることはできないのだ。

 しかし、八つ……蔵人は未だに二つ。確かに、紋章という経験値の獲得で言えば、記憶の中で見る50年前の【戦い】では紫乃が独走している状態だ。

 蔵人の記憶が幕を閉じ、朝が来る。

 調停者の存在を知っていたという、蔵人の新たな謎を残して。

 あと、若かりし頃の紫乃が以外な一面を見せて。






To Be Continued……

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

『源氏物語』の能力一覧:

創造能力・青海波

光源氏と頭中将が舞った演目『青海波』の衣装を着たからくり人形を創造する。

最初は糸で操られた人形だったが、能力が成長した今ではある程度自律して動くことができる。主な武装は太刀、自分たちを操っていた糸を張り巡らせることもできる。


武装能力・夕顔の白扇

夕顔から光源氏に渡された白扇を武器とした物。

弱っちい花などではないと主張せんばかりに、強靭な蔓は伸びて鋭利に尖って突き刺さる。薙ぐだけで近中距離に対応できるし、薙ぐだけなので女性の腕力でも扱える。

紫乃さんの主武装。


展開能力・野分吹きすさぶ春町

光源氏の息子、夕霧が紫の君の姿を目にしてしまった『野分』の物語を展開する。

猛烈な勢力の台風が吹き荒れる物語は、御簾の向こうに隠れた存在を暴くかのように全てを吹き飛ばす。力業。


創造能力・六条御息所

日本文学史にその名を遺す、最凶の悪霊・六条御息所を紫乃が想像し創造した切り札。

彼女の叫びは、源氏への恨みであり愛であり暴言であり睦言である。彼女の憎悪が晴れるまで、彼女の情愛が尽きるまで、紫乃は彼女のための舞台を拵える。

全身を拘束する帯紐で、源氏の妻たちを死に追いやったかのように縊り殺す。

・一条大路車争い

六条御息所と葵の上、もとい愛人と正妻の車争いが元ネタになった屈辱の車。

これなら葵の上の牛車に勝てる……そう、牛車自身が意志を持って相手を轢き殺し、時には食

い殺す妖怪・朧車と化した最強の車である。

どうしてこうなった。

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