24 赤い蝋燭と人魚

24-①




「波」よりは、「浪」と表現する方が好きだ。

 潮騒を立てない静かな、それでいて流れ、とりとめなく滞ることなく動く水面の姿が好きだ。

 波瀾万丈という激動の人生よりは、砂浜で遊ぶ子供の足を濡らすぐらいの小さな、何気ないハプニングが起きる微笑ましい日常が良い……彼女は、そう思って絵を描いた。

 赤い筆でキャンバスに描かれたのは、浪に溶け込みそうな尾びれを翻して、白い海を悠々と泳ぐ魚。魚はどんな障害にも、苦悩にも囚われずにただ海を泳ぐだけ。ただ、生き延びるだけ。

 長い時間をかけて、かけた時間を忘却しそうになるほど描いた絵の数々が不特定多数の人間の目に触れる。赤い筆の魚の絵を前にして、作者である彼女は小さく息を吐いて瞼を閉じた。


「遂に明日からですね。先生の初の個展は」

「ハイ。よろしくお願いします」

「……ところで、ですね。私、先生の経歴を調べまして」

「……」

「先生、自分の子供を殺したそうじゃないですか」

「……」


 嗚呼、やはり海から離れたのが間違いだった。

 どれだけ耳触りの良い言葉を並べても、所詮はみんな“人間”だ。


「……After all貴方もやはり、, you are also greed欲深い人間なのね.」


 だから、人間は嫌い。




***




 東京都水門ミナト

 東京23区の中では、住人の1人あたりの所得が最も高いとされる高級住宅地に位置する地区。歴史に風化せぬ赤い塔がそそり立ち、各国の大使館や外資系企業が集中した異国の匂いを感じる地区。そこに、巨大な敷地を取り囲む煉瓦の塀が伸びていた。

 塀の向こうでは、清楚なワンピースタイプの制服の少女たちが行き交い、言葉を交わす。心地の良い鐘の音が時を知らせれば、少女たちの放課後の始まりだ。

 設立は明治時代後期。当時は上流階層の令嬢たちが青春を刻んだ名門女子校。今でも、制服の可愛さとモダンな建物は受験生たちの憧れとなっている。


 私立彩姫女学園。今年の4月から、ビルネ・アーベンシュタインはこの学園の中等部に留学生として入学した。


「アーベンシュタインさん、また明日」

「ご機嫌よう。また明日お会いしましょう」


 丁寧すぎる日本語でお辞儀をして、背筋を伸ばして教室を後にする姿は実にお嬢様。実際に、ドイツの不動産女帝一族に生まれたお嬢様であるビルネは、クラスメイトに一礼してからHRを終えて下校する。

 教師であった彼女の祖父――イーリスの夫のかつての教え子がこの学園の理事長だったため、その伝手で編入して来てそろそろ1か月。クラスで浮かない程度には馴染んだが、それでもどこか気を張り詰めているのはビルネ本人も自覚している。

 鞄からスマートフォンを取り出して、手付かずの通知を確認する。その中の一件は先日、連絡先の交換をした日本人の女子高生からだった。


『こんにちはビルネちゃん。急なお誘いだけど、GWに遊園地に行きませんか? 割引券をもらったの。もしよかったら』

「慣れあう暇など、ないというのに」


 メッセージの主は夏月だ。4月1日の『若紫堂』で連絡先を交換したのだが、そう頻繁に連絡を交わしている訳ではない。


『申し訳ありません。お断りします』


 漢字変換に少しの時間をかけてそう返答する。慣れあう暇などない、遊ぶために来日した訳ではないのだから。


「ナツキ・タケハラは、ヨミヒト・クロモジの『竹取物語』の能力として組み込まれた。言わば、彼女は敵……我らが悲願を達成するための、障害であるはずなのに」


 でも、悲願を達成するための我が家の代表である【読み手】が……。

 スマートフォンを鞄にしまったビルネは、誰にも見えないところで小さく溜息を吐いた。はっきり断言すると、彼女はハインリヒを信用していない。ついでに期待もしていない。

 アーベンシュタイン家の人間が誰も【本】に選ばれず、不老不死を巡る【戦い】へ参加できなかったところに、ぱっと出で現れた泥棒が【本】に選ばれた。

 祖母にとっては苦肉の策だったのだろうが、急ごしらえで来日させて戦場に放り込んだあの男のお目付け役として共に来日したビルネの目には、まだまだハインリヒへの不信感が拭えないのだ。

 ビルネ・アーベンシュタイン。私立彩姫女学園中等部2年月組……彼女は、祖母であるイーリス・アーベンシュタインとよく似ている。容姿だけではなく、過去に置いて来た先祖の悲願への執念も。

 不老不死を求めた主君によって生まれたが、一度も栄光を手にしたことのない、存在意義を歴史の中に埋没してしまったアーベンシュタイン家にたった一度の勝利を。


「わたくしたちは勝っていないのです」


 その信念を胸に、50年前、当時ビルネと同い年であったイーリスは【戦い】へと参戦した。ビルネもまた、祖母と同じように【本】を手にして来日するつもりだった。が、残念ながら彼女は【本】に選ばれることはなかったのだ。


「お嬢様、お待たせしました」

「イイエ、待っておりません」


 生徒たちの送迎車専用の駐車場に、ガーベラが運転するフォルクス・ワーゲンが入門ゲートを潜ってビルネの前に停車する。この学園に基本的に生徒は自家用車による送迎が望ましいほど、名家のご令嬢たちが通っているのである。

 普段ならばこのままこよみ野市の自宅マンションへ向かうが、今日はこのまま銀座へと向かう。隣に座る(先に日本語学校前でピックアップされた)ハインリヒの、フォーマルを仕立てに行くのだ。


「お嬢様、仕立屋の他にどこかお寄りになられますか?」

「ありません。採寸を終えたら帰りましょう」

「……オレのスーツを用意するだけなのに、高い店に行かなくてもいいだろ」

「ハインリヒ、貴方はアーベンシュタイン家の代表なのです。業腹ですけれど」

「ゴーハラ?」

「アーベンシュタイン家の者が、量産品の安価な正装など恥です。我が家の名を背負っているのでしたら、それ相応の物を着なければいけません」

「ハイ」


 ハインリヒは、先生であるイーリスとよく似たお目付け役が苦手だ。窓に映るビルネの虚像と視線を反らした。

 ハインリヒは目を反らしたが、彼をしっかり見張りなさいと言いつけられたビルネは彼のことをよく見ている。

 彼は大きな手にスマートフォンを持っていた。いつもそんな素振りは見せないはずだ。飾り気のないスマートフォンが震え、一度ちらりと画面に目を向けると小さく溜息を吐いた。


「ハインリヒ」

「……ハイ」

「メッセージ、ですか? 返しても構いませんよ」

「いや、返さなくても良いメッセージだから」

「……」

「……」


 会話が続かない。

 2人の関係は、言わば仕事仲間だ。仕事【戦い】が絡まなければ2人の間に話題などなく、後部座席には沈黙が流れるだけなのである。

 ガーベラも何も話題を振らず、フォルクス・ワーゲンは銀座の仕立屋に向かい、滞りなく採寸を終えてオーダーが終了した。


「貴方は背中が広いので、仕立て甲斐があるとテーラーがおっしゃっていましたよ」

「どうも」

「お嬢様、お待たせしました」


 本来ならば、このまま帰宅するはずだった。

 提供されていた紅茶を飲み終わり、ビルネがソファーから立ち上がったその瞬間……近くの展示場から、銀座一帯を飲み込むほどの大量の水が噴き出すまでは。

 白い飛沫がガラスの扉のヒビを入れて、木っ端微塵に吹き飛ばす。人間たちが状況を理解する暇もなく、展示場から吐き出された水は道路を、店舗を、自動車を、人間たちを飲み込み始めたのだ。


「お嬢様!」

「ハリンリヒ! 【本】を手にしなさい!」

「こんなところでかよ!」


 海岸沿いでもない都会のど真ん中で水に飲み込まれるなんて非現実的な話、【本】を手にした【読み手】にしか語れない。判断は早かった。

 ガーベラが仕立屋の店員たちを店の奥へと押し込み、ハインリヒがビルネの声に従って『しっかりもののスズの兵隊』のページを開く。銀座じゅうの店舗のガラスを割って侵入してくる水から彼らを守るように、『24人のスズの兵隊』たちは早速24体合体で巨大な兵隊となり水に立ち向かったのだ。


「……っ、息ができる?」

「どうやら、創造の中での水のようですね。すぐにでも溺死する訳ではないようです」


 流体である水を前に巨大なスズの兵隊はなすすべもなく飲み込まれて、2人も海の底のような世界へと迷い込んだ。だが、反射的に止めた息を吹き返してみれば苦しくないし、口にも鼻にも、耳の中に水は入ってこない。

 目に見える世界はこんなにも、青く、暗い色だというのに。

 仕立屋の外に出てみれば、建物の三階ほどの高さに水面が見える。深い海の底に引きずり込まれたかのように、身体に水が纏わり付いて動き辛い。巻き込まれた通行人たちは焦り、もがき、中には浮かんでいる者もいる。だが、息はできるので溺死はしていない。

 ハリンリヒのすぐ隣では、無人の自動車が浮力を持って水中に浮かんで縦になっていた。

 突如、海によって侵略されて滅びの道に片脚どころか全身を突っ込んでしまった人々の街……展開された世界は、そのような場面であった。


「海の底みたいだ……アトランティスか何かか? この物語は?」

「水、海……来ましたわ、ハインリヒ!」


 いつの間にか、ビルネは通学鞄の中に忍ばせていたデリンジャーを手にしていた。銃口を向けた先にいたのは、水中に浮かぶブラウンの長い髪。展示場から出て来てゆっくりと、海の底を優雅に歩くのは白い【本】を手にした1人の女性。

 上品なブラウスとロングスカートの服装が、海の底を泳ぐ人魚のように見えた。


「貴女ですね、ワタシたちを水の中に飲み込んだのは。日本語、通じますか?」

「通じますよ。長年、日本に住んでいますから」

「目当てはワタシたちの【本】ですね。そう簡単に手にできると思わないでくださいな」

「ええ、いただきましょう。不老不死になるために」

「下がれビルネ!」


 女が手にしたのは一本の絵筆だった。左手に白い【本】を、右手には絵筆。

 青い世界でビルネに向かって絵筆を振ると、毛先からは赤い絵の具が飛び散った。絵の具は飛沫から赤い魚の群れとなり、海の底で速度を上げて攻撃してきた。


「24人……じゃねぇけど! スズの兵隊Zinnsoldat!」


 巨大なスズの兵隊の拳と、ビルネのデリンジャーから発射された銃弾が赤い魚の群れを粉砕する。絵の具の飛沫は水中に溶けず、浮かばず混ざらずに道路に落ちた。落ちた絵の具はアスファルトに根を張って、植物が成長するかのように赤い円柱型のモノが何本も生える。

 珊瑚にも見えたが違った。伸びた赤いモノの天辺に火の気もないのに火が点いたのだ。ぼうっと、小さな光が灯り、未だに暗い青い海の底を仄かに明るく照らす。

 あれは蝋燭だ。海を照らす真っ赤な蝋燭の光が、彼女が創造した世界だった。


「変な気分だな。息ができる水の中に、そこで蝋燭に火が点いているなんて」

「海、赤い魚、蝋燭……【本】のタイトルが推測できました」

「マジか。海の話なんて、オレは『人魚姫』しか知らねえぞ」

「Japanの、割と新しい童話です。作者の名はミメイ・オガワ、発表は約100年前……タイトルは『赤い蝋燭と人魚』」


 異形の者が抱いた理想は、人間の欲望に潜むエゴイズムによって砕かれ、怨念は滅びを導いた。子供に朗読する童話としては、海の底のように薄暗く後味が悪い。

 だが、己の欲望を肥大させればそれ相応の報いが待っていると、戒める物語でもある。


「あらまあ、よく知っているのね」

「この1年のために、世界中の物語の勉強を怠りませんでした。貴女もよくその【本】を手に取られましたね」


 確かに。日本でもあまりメジャーではないタイトルの物語。だが、前に現れた【読み手】は、どう見てもコーカソイドだ。

 憂いを帯びた青白い肌、ブラウンの瞳には濁った冬の海のような影が差し込んでいる。

 あまり良い物語ではないようだ。ハッピーエンドは迎えていないだろう、きっと。『赤い蝋燭と人魚』のあらすじを知らないハインリヒでも、【読み手】の女性によって展開されるこの世界の空気で、それだけは察することができた。


「ご挨拶が遅れました。私はマリー・ゴールドマン。【本】のタイトルはお察しの通り、『赤い蝋燭と人魚』です。ボウヤが持つ【本】の紋章をいただきましょう」

「来ますわよ、ハインリヒ!」

「分かっているよ!」

「創造能力・蝋燭戯画Scarlet Candles


 白い【本】の背表紙には、赤い蝋燭に筆を乗せる着物を身に纏った人魚と、人魚が描いた海の住人たちの紋章。

 マリーは手に持つ絵筆を指揮棒のように振るう。海の底に生えて明かりを灯す赤い蝋燭からは、先ほどと同じく、赤い絵の具で描かれたような魚が次々と浮き出て実体化してきた。

 海沿いの村で、人魚の赤ん坊は蝋燭屋の老夫婦に拾われた。人魚は老夫婦の作った蝋燭に赤い絵の具で魚を、貝を、海藻を描いて店を繁盛させたが……やがて、裏切られる。

 蝋燭に描かれた赤い魚たち。海の世界の本来の住人たちが、指揮棒の動きに従って襲い掛かって来た。


24人のスズの兵隊24 Zinnsoldat!」


 巨大なスズの兵隊は本来の姿に戻る。24人のスズの兵隊に分裂し、各々の錫の武器を片手に赤い魚の群れを迎え撃つ。ハインリヒの隣に控えていたビルネも、デリンジャーに銃弾を装填し直して、魚群の中でも一層大きな魚を撃ち抜いた。

 掌サイズの拳銃が撃てるのは一発だけだが、それは彼女が持つデリンジャーが一丁だけだった場合の話。制服のワンピースの裾をめくり上げ、華麗なるスパイの如く隠し持っていたもう一丁のデリンジャーの引き金に指をかける。弾倉が空になれば、通学鞄から取り出した銃弾を装填する。

 狙ったのは『蝋燭戯画』で創造された赤い魚ではなく、【読み手】であるマリー自身だった。彼女は能力ではなく本体を叩いた……隣のハインリヒも、ちょっと驚いた。

 え、【読み手】じゃないお前が武装して片付けるの?

 創造した武器を片手にリアルファイトに身を投じていた祖母と、拳銃片手に参戦した孫娘は、やはりよく似ていた。

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