10 長靴を履いた猫【Returns】

10-①




「……読人」

「ん~?」

「生きているか?」

「死んでる」


 返事をしている時点で生きているので大丈夫、死んでいない。

 机に突っ伏していた顔を上げた読人は、三日月のヘアピンで止めた前髪が乱れているしその表情も憔悴し切っている。声をかけた正美も同じく疲れ切っているが、その表情の中には重荷を捨て去ったような解放感が滲み出ていた。

 二月の中旬の金曜日、本日にて都立暦野北高等学校の期末試験の全日程が終了したのである。

 一週間をかけて全十五科目を終えて、もう精も根も尽きたと言わんばかり。だけどもう解放される……最終日の最後に立ちはだかった物理に苦しまされたが、もう色々な意味で試験は終了したのだ。


「駅中で昼飯にしようぜ」

「あれ、柔道部は部活ないの?」

「今日は自主練。暗黙の了解で出なきゃならない系のな。食ったら直ぐに学校戻るわ」

「ごめん、俺もう先約がある」


 そう、試験から解放されて次に訪れるのは楽しい時間だ。今日の午後、夏月と一緒にランチの約束をしているのである。試験勉強の最中に、激励のつもりでLINEを送ったら彼女の方からお誘いしてくれたのだ。都心部に行ってみたい店があるから、一緒に行かないかと。

 夏月と読人の2人きりではなく彼女の友人も加えてのランチであるが、それを励みに今日まで頑張って来た。夏月と一緒にランチ、それだけで胸は高鳴りっぱなしだし顔は熱くなるし挙動不審になるしで自然と顔がにやけてしまう。

 黒文字読人は感情が顔に出やすい。以前は伸びるのが長い前髪でよく見えなかったが、前髪をヘアピンで上げた今となっては解りやすい表情が他人にも簡単に把握されてしまう。ましてや、小学校からの付き合いである正美には彼が何を考えているのか丸解りである。

 幸せそうにへらへらによによしたその顔は、これから幸せな一大イベントが待っていますよ~っと語っていた。なので、締め上げて吐かせる事にする。


「先約って誰だ? 何だ? まさか彼女ができたとか言わないだろうな!」

「ギブギブギブ!! ち、違う違う。竹原さんとご飯食べに行く約束をしていて……!」

「竹原と!? お前らいつの間にそんなに接近しているんだよ? デートか?それとも、「遅れたけれどはいこれ、バレンタインデーのチョコレート」じゃないだろうな!」

「デデデ、デートじゃないし……2人きりじゃなくて、竹原さんの友達も一緒だから! チョコは、もらえたら嬉しいな」


 柔道部の鍛え上げられた腕でアームロックをされたら本気で痛い。が、口では痛いと叫んで降参を訴えているが、読人の顔は幸せそうに綻び続けているではないか。

 青春真っ盛りの高校生たちにとっては、カレンダー上のイベントは何でも甘酸っぱい想い出になり得るはずなのに、進学校を名乗る北高はバレンタインデーと期末試験の日程を見事に被せて来やがったのである。期末試験の真っ最中にチョコレートを手作りする暇も、ハートが乱舞するラッピングの既製品を手に告白をする暇もない。精々、コンビニのチョコレート菓子をシェアして脳に糖分を送るぐらいだ。

 2月14日の当日、その日の事はよく覚えている。序盤の難所である数学連戦を終えた読人と正美は、男2人で侘しくたい焼きに被り付いていたのだ。しかも、『無問鯛』の2月限定チョコレートたい焼きが妙に美味いのが何だか寂しかった。中に甘さ控えめのチョコレートクリームを入れただけではなく、砕いた板チョコが入ったチョコレートたい焼きは、溶け切らないタイミングで鉄板から上げられた板チョコのポリポリした食感が癖になる大当たりの新商品だった。美味しいのに、切ない……その日の夜、母が買って来た駅地下のオペラを紅茶と一緒に食べた時も同じ心境だったのは、言うまでもない。

 そんな風に高校生活最初のバレンタインデーを過ごしたのだが、もし本当に夏月からちょっと遅いバレンタインデーチョコレートをもらえたなら嬉しさでとんでもない顔になる自信がある。義理だって良い。夏月の友達込みのランチの約束だけで、すっかり溶けて甘ったるい匂いをまき散らすチョコレートのような顔をしているのだ。これ以上崩れるとしたら、一体どうなるのだとアームロックをかけ続ける正美はちょっと興味を持った。


「はいはい、お前は女子2人と楽しくランチして来いよ。俺は、駅前のコンビニで弁当を買って寒い道場で食って、この寂しさを自主練にぶつけるから」

「えー……じゃあ、マサも来る?」

「……っ」


 1年C組16番・松元正美。柔道部において重量級の期待のルーキーである彼は、この日初めて自主練を休んだ。




***




 夏月が来てみたいと言っていた店は、23区内にあるパンケーキの店だった。

 パンケーキと言っても、ふわふわで分厚いスフレ生地にクリームとアイスとフルーツをこれでもか! とトッピングした女性受けするスイーツではなく、甘さ控えめで塩味の効いた生地にベーコンや目玉焼きを盛り付けた、所謂おかずパンケーキをメインメニューとしている店である。

 店内もモノクロを基準にしてスッキリまとめた、男性グループでも気軽に入れるシンプルな内装なのがありがたい。最近オープンしたばかりで、まだメディアや雑誌で紹介されていないために店内は左程混み合っておらず、ランチタイム真っ最中でも数分待っただけで席に座る事ができた。


「見てこれ、和風チキン納豆だって」

「え~美味しいのかな? 試してみる?」

「ちょっと興味ある」

「竹原さんって、納豆が好きなの?」

「凄く好きって訳じゃないけれど、珍しい物は挑戦してみたくなっちゃうの」

「私はスタンダートが良いや。三種のチーズにしよう」


 パンケーキに納豆と言う前代未聞のメニューに目を輝かせた夏月は、ちょっとわくわくしたような表情で微笑んだ。

 軽い遠視だからと、メニューを見るためにかけた眼鏡でも隠し切れない彼女の笑顔に、ちょっと顔が熱くなるのを感じた読人はメニューを熟読するふりをして顔を隠す……あ、和風チキン納豆って、人気№5だ。

 期末試験が終了した後に合流した夏月とその時に紹介された彼女の友人、そして正美を加えた4人で電車に乗り、ランチにやって来ていた。4人掛けのテーブルに男女で分かれて2人ずつ、咄嗟に夏月の前の席に座ると隣に座った正美に苦笑されてしまった。

 ゴーダ・チェダー・モッツァレラの三種のチーズが嬉しいパンケーキを即決したのは、夏月と同じ1年B組の戸田トダアカネ。夏月と並んでも頭一つ背の低い、小柄で可愛らしい少女だった。そんな彼女の前の席に高校1年生にして185cmもあって身幅も厚い正美が座っているのは、随分と両極端でアンバランスである。


「ん~……やっぱり和風チキン納豆に挑戦してみよう!」

「本気なの夏月?」

「じゃ、俺はビッグ・ミックスグリルパンケーキにしよう。これって、制限時間内に食べ切れば半額になるんだろ」

「それって2、3人前ぐらいのボリュームがあるって書いてあるよ。松元君大丈夫?」

「多分大丈夫。マサはめっちゃ食べるから」

「俺に限らず、柔道部は大体これぐらいは食うぞ。読人はどうする?」

「えーと……」

『ベーコンエッグ・マッシュポテト添え』

「じゃあ、それ……でぇ?!」

「どうしたの?」

「あ、いや、何でもない! 俺、ベーコンエッグ・マッシュポテトで! ちょっとトイレに行ってくるね!」


 いつの間に出て来たのだろうか?

 読人とメニューの間に座っている火衣が、人気№1!とポップで目立っているパンケーキの写真を指差して、堂々と注文していたのである。掌サイズの火衣を両手で隠してトイレに駆け込む読人を、3人は不思議な視線で見送っていた。


「何で出て来たの?」

『ベーコンエッグパンケーキが食べたかったからだ』

「出てきちゃ駄目だよ。見付かったらどうするの?」

『それより、読人。向かいの女が例のナツキか? 中々良いな』

「良いよね」


 珍しい物好きと言うか、好奇心旺盛でチャレンジ精神が豊富な面を知った……例えその対象が納豆だとしても、果敢に攻め入る夏月に「良いな」と感じたのは読人が彼女に惚れているからだろうか。痘痕も笑窪とはよく言う。

 じゃなくて。子供向けアニメに出て来る妖精に近い存在である火衣が、こんな風に好き勝手登場して喋ってはいけないのである。

 また次の機会にこの店に連れて来る事を条件に、【本】の中に戻ってもらうように納得してもらったのと同じタイミングでブレザーのポケットに入れていたスマホが振動し、正美からのLINEを受信していた。ベーコンエッグ・マッシュポテト添えを注文しておいたと言うメッセージに続き、「ズボンのチャックが開いていたか?」と来た。

 そっちも見られちゃ駄目な奴である。濁した返事を送信して、一応ズボンのチャックを確認してから苦笑いで席に戻ったのだった。

 それからは何事もなく時間が過ぎ、とにかく楽しいランチタイムを過ごせた。正美が制限時間内にビッグ・ミックスグリルパンケーキを食べ切って店員だけではなく他のお客からも拍手をもらい、記念にとインスタントカメラで4人の写真を撮り。和風チキン納豆が意外と美味しいと、ちょっとおすそ分けしてもらった時に顔が真っ赤になったのは店内の暖房が効きすぎていると言い訳して誤魔化した。

 精も根も尽き果てる期末試験を頑張れたのは、このためだったと若干本気でそう感じるほど、夏月と一緒にいる時間は読人に幸福に満ちていたのだった。




***




 期末試験を終えてからやって来た週末は、普段より一層解放感に満ち溢れているのだろう。冬の寒さで冷たくなったタイルを踏み締めるブーツが若干リズミカルに聞こえる気がするのは、その解放感のために浮かれているからだ、きっと。足取り軽く、竹原夏月はフラフラとウインドウショッピングを楽しんでいた。

 金曜日は期末試験を終えて、前々から約束をしていた友達とのランチで楽しい時間を過ごした。土曜日は所属している剣道・薙刀サークルの活動で竹刀を振るい、良い汗をかいた。そして本日、日曜日は特に宛てもなく1人で自由気ままに街をふら付いている。

 友人とわいわい騒ぎながら買い物をするのも良いけれど、こんな風に自分のペースで好きなだけ勝手気ままができるお出かけも楽しい。店先のワゴンセールに積み重なっているインナーの山を掻き分けて物色してみたら、気に入った色のカットソーがあったので購入する。これだけでも今日は出かけて良かったと感じるで、自分はつくづく単純だとも感じてしまった。


「あ、古本屋にも寄って行こう」


 夏月は読書が好きである。小説も読むし童話も読む、漫画も読めばノンフィクション系のエッセイ集だって読む。好きなジャンルに特に拘りはないが、歴小説やミステリー系統をよく手に取り恋愛小説はちょっと苦手。理由は……読んでいると、恥ずかしくなってしまうから。少女漫画も同じで、漫画は少年漫画の方が読みやすくてよく手にするし弟たちと一緒に漫画の貸し借りもしている。

 有名どころは大体読んでいるし家にコミックもある、そろそろ新しい本を開拓しようかと大手チェーンの古本屋に入った夏月だったが、これと言ってピンと来る物はなかった。ならばと、100円の文庫本コーナーに何か良いのがないかと店内を散策していると、100円コーナーの後ろにある児童書のコーナーで思いがけない出会いをしたのだ。


「……この本、どこかで見た事があるような?」


 小学生の頃に読んだ懐かしいタイトルの本の中に、一冊の真っ白な本が隠れるように紛れていた。表表紙にも裏表紙にも写真や挿絵が載っておらず、シンプルにタイトルだけが印字されているB6版サイズの白い表紙に金糸の縁取り……どこかで見た事がある気がして、ビニールで梱包されているそれを手に取ってみるとどこで見たのか思い出した。


「黒文字君が持っていた本と同じだ。同じ出版社のシリーズ物なのかな?」


 以前、読人と一緒に喫茶店に行った時に、彼の荷物からぶちまけられてしまった本と同じデザインだ。白と金の綺麗な表紙の本は夏月の印象に強く残っていたのだが、確かあの本は亡くなった祖父の形見だと読人はそう言っていた。

 値段のシールを確認してみると、こんなにも立派な装丁で汚れもないのにかなり安い。タイトルは……ちょっと季節外れだけど、夏月が好きな物語だ。素晴らしい宝物を見付けたような充足感が夏月の中から溢れて来て、一切悩む気配なくその白い本をレジに持って行ってお買い上げしたのである。そして、家に帰るのも待てずに古本屋の帰りにカフェに寄ってビニールの梱包を解き、白い本の写真と共に読人にメッセージを送った。

 この時の夏月は、新しく買った本の表紙を開くわくわくとドキドキに胸を高鳴らせていた、カフェで頼んだ抹茶オレの味もよく覚えていない。ましてや、その店内で彼女を観察していた人物の視線にも気付くはずはなかったのだ。

 ほんの数分だけ時は遡り、とあるカフェチェーン店内の窓際の席に座る男がいた。他の客の視線がチラチラと彼に向かうのは、彼が美しいプラチナブロンドとミントグリーンの瞳を持っていたからだろう……それもきっと、視線を集めた一因だろうが、それ以上に彼の連れに視線が集まった。


「折角一番で日本に乗り込めたと思ったのに、1か月でまだ紋章が一つだけって、おかしくないか? この僕が!」

『だから、さっきも言ったろう。最初っから大物狙いで動いてたからだ。男はな、でけぇ夢を視るのも良いが、それを叶えるためには辛い下積みにも耐えなきゃならねぇ時があるんだよ……っチ、近頃は嫌煙の風潮で嫌になるぜ』


 目の錯覚でなければ、プラチナブロンドの白人青年の向かいの椅子に長靴を履いた猫が座っている。しかも、テーブルの上にはアイスコーヒーが置かれている……。

 1人と1匹の姿を目にした者は幼い女の子がおままごとをしている光景を思い出し、可愛らしくともあんまり関わりたくないので早々と視線を逸らす。時には、こっそりと写真を撮る者もいたが向こうは気にしていないようだ。

 1月某日、黒文字蔵人宅を急襲して『竹取物語』の【本】を強奪しようとし、読人を襲った『長靴を履いた猫』の【読み手】であるリオン・D・ディーンと、その能力で召喚された長靴を履いた猫ことシュバリエがティータイムに興じていた。

 長靴を履いた短めの脚を組んでアイスコーヒーをストローで啜り、全席禁煙のためにマタタビスティックを吸えないと舌打ちをする猫……こんな行動をして、しかも喋っていると言う事実を周りの人々は気付いていない。彼と同席している猫が本物とは思わないし、ましてや喋るはずなんてないと思い込んでいるからだ。それに、彼らの会話は普通の一般人にはフランス語のやり取りに聞こえるため、内容さえも理解できないのである。


「やっぱり、地道にレベル上げをした方が良いか。僕の嫌いな作業だ」

『それを地味にこなしさえすれば、その内良い夢が視れるぜ……不老不死を手に入れたいんだろ。リオン』

「ああ、勿論だ。僕が世界の全てを見るためには、人間の100年足らずの寿命なんて短すぎる」


 自信と誇りに満ち溢れた表情でカップを持ったリオンは、温くなりかけたカフェオレを口にすると一瞬顔を顰めた。やっぱりこのカフェオレはミルクが多すぎる……本物のカフェ・オ・レは、コーヒーとミルクが半々だ。これじゃあカフェ・ラ・テに近いではないか。

 日本のチェーン店はこんなレベルかと諦め半分に店内を見回してみると、当たり前であるが店内からは日本語しか聴こえない。【読み手】同士は言葉が通じるので不便はないが、あと10か月は日本にいる予定なのだからもっと日本語を勉強しておこうかと思ったリオンの視線が、ある一点で止まった。

 童顔が多い日本人にしては大人びた顔立ちの少女、楽しそうにゆらゆら揺れるショートブーツの爪先が可愛らしい。店員から飲み物を受け取って一口飲んで青い袋の中から本を取り出すと……白と金糸の装丁に表紙にはタイトルだけの、【読み手】同士の白い【本】を手にしていたのだ。


「シュバリエ、地道なレベルアップ作業をしよう。なぁに、可愛いMademoiselleが相手なら楽しめそうだ」


 それから数分後、読人のスマートフォンが夏月からのメッセージを受信した。




***


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