瑛明と晏如の会話


「…………寿晏じゅあん、か。こんな夜遅くにどうした?」

 晏如あんじょの方にふり返った瑛明えいめいが、先に問いかけた。

 それから、露台ろだいの椅子に座っていた彼は、琵琶びわを持って立ち上がる。

「…………殿下こそ、こんな夜遅くに何をなさっているのですか?」

 晏如は、露台の入り口から、その中に入った。

 相手の質問が自分が聞きたいことであったので、ついつい同じ質問で返してしまう。

 そんな晏如の姿に、瑛明は苦笑してしまった。生真面目というか、何というか。

「わたしは…………。見ての通り、琵琶を弾きながら、月をでておったのだ。少々…………眠れなくての」

 そう言いながら、琵琶を露台にある机の上に置く瑛明。

 彼は、月明かりを楽しむために、一つ置いていなかった燭台しょくだい(ろうそく台のこと)の数を、増やした。

 燭台に立つろうそくの一つ一つに、火打石ひうちいしで火をつけていく。

 とたんに、辺りがぱあっと明るくなった。

「まあよい。そなたとは一度、話してみたかったのだ。さあ、早くこちらに座れ」

 瑛明がこちらへ、と手招きをする。

 晏如は、言われた通り、しぶしぶと椅子に座った。

「殿下。僕に、何のご用ですか?」

 晏如は、早く話してくれ、と言わんばかりの口調で聞いた。

 初日がアレだったので、もはや遠慮などしていない。できれば早く自分の部屋に帰って、寝たかった。

「そう申すな、寿晏。いや…………晏如」

 胡蝶こちょう以外に久しく呼ばれることのなかった本名を言われた晏如は、表情を変える。

 実は、寿晏の正体を知っているのは、瑛明と胡蝶のみだった。

「まずそなたに、謝らなくてはな。初日に、女装をいきなり強いたこと、許してくれ」

 そう言うと、何と王子さまが晏如の前で、いきなり頭を下げたのだ。

 これには、晏如もビックリ仰天してしまった。驚きのあまり、椅子からばっと立ち上がる。

「で、殿下!? おやめください!」

 しかし、そんな晏如の静止の声さえ聞こえないようだ。

 瑛明は、頭を下げ続ける。

「“いわく、己の欲せざる所は、人に施すことなかれ、と。(自分がされて嫌なことは、人にもしてはいけない、という『論語』の言葉)”。龍国の王子であるわたしが、このようなことでさえ守れなかったのは、本当に恥ずかしい限りだ。胡蝶にも、久しぶりにきつく叱られた」

 さすがは王子さま。謝罪にもさり気なく、博識ぶりを披露しちゃうのね…………。

 いつまでも頭を上げてくれない瑛明を前に、途方に暮れてしまった晏如は、そんな現実逃避じみたことを、考えてしまう。

 そうは言っても、そんなことをしたところで、目下のゲンジツは一向に変わってくれないので。

 晏如は、大きなため息をつくと、説得するように話し出した。

「……………………。殿下。殿下のお気持ちは、よぉ――くわかりましたから。だからもう、頭をお上げになってください」

「よいのか…………?」

 ここでようやく、おずおずといった感じで、王子さまが顔を上げる。

「ええ…………。確かに、最初の三日ほどは嫌な気持ちをずっと抱えていました。この容姿に、僕は劣等感を持っているからです。そうではありますが、ここは給料も高いし、ご飯もおいしいし、何よりもみなさん、とても優しくしてくださいます。僕の奉公経験の中でも一番待遇の良い、最高の職場です。だから…………。もう、そこまで気にしていません。安心してください」

 晏如は、仕方がないな、という風に苦笑交じりに言う。

 実際、ここはかなりいい職場だった。女装しなくてはいけない、という条件をのぞけば。

「しかし…………」

「もう、この話はやめにしましょう! ね、殿下」

 なおも言う瑛明に、晏如は、無理やり話を終わらせた。

 瑛明は、せっかくの晏如のやさしい思いやりに、甘えることにした。

「…………わかった。では晏如。そなたは何か、ほしいものはないか?」

「ほしいもの…………ですか?」

 晏如は、瑛明の突然の提案に首をかしげた。何だ、いったい藪から棒に。

「ああ。そうだ。今までのそなたの働きに表して、何か一つ、と思ってな。何でもよいぞ。別に、物でなくともよい」

 なぜか、今日の王子殿下は気前が良かった。

「そうですねぇ…………」

 晏如は、口元に手を当てて、考えるしぐさをした。

 何でもよい…………、か。何だかずいぶんと気前のよい話だ。

何か裏でもありそうな気がする。

 そんな風に、本当に心からの善意か、そうではないのか、思わず疑ってしまう晏如である。

 一応言っておくが、彼は何でもかんでもすぐに信じてしまうほど、バカではない。

「では殿下。何か一曲、弾いてもらえませんか?」

 しばらく考えた後。晏如は、そう言った。

「よいのか。それで?」

 少々拍子抜けしたらしい瑛明が、確かめるように問う。

 それに晏如は、満面の笑みでうなずいた。

「はい。別に、物でなくとも良いのでしょう? それに、欲しいものは、自分で努力して手に入れよ、というのが我が家の数少ない家訓なのです。だから、物はいりません」

「…………そうか。そなたはなかなか、よい男だの」

 瑛明は、思った。

 王子である私に、そのような願いを言うとは…………の。

 瑛明はいつも、お近づきになりたい、という下心を持って自分に近づいてくる宮廷の者たちの方が、見慣れていたので。

 一方。

「えへへ…………。そ、そうですか…………?」

 ほめられた晏如は、照れくさそうにほほを染めた。

 瑛明の目には、そんな晏如の姿が新鮮に映った。

 どうやら晏如は、他人のほめ言葉に慣れていないらしい。

 それは、いつも飾りの多すぎる美辞麗句を日々聞いている瑛明にとって、微笑ましかった。

「ああ。では、お望み通り、弾くとするかの」

「はい。お願いします」

 瑛明は、琵琶を手に持った。

 それから、それを構える。

 夜の離宮に、琵琶の美しい音色が響いた。


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