第31話.5-5

「ごめんね、ケイ。私のこんな我がままに付き合わせちゃって……」

 ヒロの告白にケイはいっさいの言葉を飲み込んだ。

 なにを言えばいいのかわからない。

 思いつきで物を言える状況ではない。

 いったい自分になにが言えるのだろうか。

 いったい彼女になにを言ってやれるのだろうか。

 それでも何かを言わないといけない。

 そう思い、ケイはなんとか言葉を絞り出す。

「……それでも、どうして死ぬ必要があるんだよ」

 思ったよりも声は出てくれなかった。

おそらくはそれは、こんな言葉では彼女を救ってやれないと察していたからだ。

 問われたミカは物悲しげに俯いた。

「お母さんが死んだのはね、私のせいなの。ううん、そもそもお母さんがお父さんを殺したのも、私のせいなの」

「……それは、違うだろ」

「違わない」

「だってお前の母さんは、お前を虐待から助けようとして……。それに自殺は……」

「違うんだよ、ケイ。本当は、お母さんはお父さんを殺したくなかったんだ。自殺だってしたくなかったんだ。でも、私がそうせざるを得ない状況にしちゃったんだ。……だから私は、お母さんと同じ世界に行って、謝るの」

「……」

 直感だった。

 きっとこれは聞いてはならない。

 聞いてしまうと後戻りできない。

 彼女にとって決して人に触れさせてはならない暗部。

 そういう真実をヒロはその胸に秘めている。

 ケイは喉が震えているのに気付いた。指先も震えている。寒いのだろうか。体が冷めているのだろうか。いや、違った。心が寒いのだ。心が怯えているのだ。これ以上、彼女の心に踏み込むことを恐れている。一歩でも間違った選択をすると、きっと彼女はすぐにでも飛び下りる。それが怖いのだ。

 それでも、とケイは拳を固く握り込んだ。

 意を決する。

 彼女はすべてを話すと言った。

 藤崎ケイを信じ、すべてを伝えておきたいと言った。

 ならば聞かなければならない。

 そうでなければ彼女の側に居る資格などない。

「……ヒロ、どういう意味だ」

 声は震えていた。

 でも、聞いた。

 彼女に真実を尋ねた。

 ヒロは安堵したように小さく笑った。

「逃げずに聞いてくれてありがとう、ケイ」

 そして彼女は腕を差し出した。火傷の跡がある腕。無論、ケイもその火傷の跡には気付いていたが、聞けずにここまで来た。聞けなかったのだ。

「あの日、私はいつものように洗濯物を畳んでたの」

 ヒロは話し出した。

 当時の芳野家はワンルームのアパート住まいで、母がスーパーのパートに出て、父は工場に出ていた。共働きの両親のため、家事の一部を請け負うのがヒロの仕事だった。そしてその日、いつものように洗濯物を畳んでいた。物によってはアイロンも掛ける。父が帰ってきたのはアイロンを掛けている時だった。いつもよりも早い帰り。どうしたのだろうか。そう疑問に思って出迎えると、父はそんなミカをビンタで退かせ、部屋へと入っていった。そしてすぐに怒声で呼ばれた。行くと、父はアイロンの電源が入りっぱなしであることに激怒していた。ヒロは出迎えるためにすこし席を外しただけだと説明したが、父は聞かなかった。教育と称し、アイロンをヒロの腕に押し当てたのだ。焼ける音がした。激痛が走った。泣き叫び、父を突き飛ばす。父は尻餅をつき、そしてふたたび怒声を響かせた。なんだ、お前も俺が必要ねえって言うのか。父は工場からクビを言い渡されていたのだ。それに対する不満が、ヒロの抵抗を以て爆発。今までにない怒気で顔を歪ませた。殺される。そう思ったヒロは、急いでキッチンへと向かい、洗い場にあった包丁を手にした。その瞬間、父に肩を掴まれ――。

「振り向き様にね、お腹を刺しちゃったの」

 ヒロが弱々しく言った。

「事故だったのかもしれないし、殺そうとしたのかもしれない。今となってはどっちだったか覚えてないの。でも包丁を取りに行った時点で、やっぱり殺意を抱いちゃってたのかな……。あ、でもそんなに深くは刺さってなかったみたい。お父さん、私が持ってた包丁を奪って捨てると、私を思いっきり殴ってきたから。うん、お父さんは私を本当に殺す気なんだなって思った。いつもよりずっと力がこもってたし。でもね、やっぱり刺した感触は手に残るんだよ。皮膚を貫いた感触がさ、筋肉に差し込んだ感触がさ、手に残って取れないんだよね」

 母がパートから帰ってきたのは、まさにその時だった。

「お母さんね、ドアを開けて現場を見た瞬間、私がお父さんに殺されると思ったんだって。だから落ちてた包丁を拾って、お父さんの背中を刺したの。お父さん、驚いてお母さんに振り向いたんだけど、今度はお母さんにお腹を刺されて倒れちゃってさ。お母さんはそんなお父さんに跨がって包丁を振り下ろし始めたの。何度も何度も。お父さんは生きている間、ずっと痛いからやめろって言ってたんだけど、お母さんはそれを無視して狂ったように刺し続けてた。滅多刺し。一心不乱だった。お母さんの腕が、服が血で濡れていくの。すこしずつ、すこしずつ、すこしずつ。お母さん、泣いてた。泣きながら刺してた。そしてお父さんが死んだのを確認するとね、私を抱き締めたの。大丈夫。ヒロはなにも悪くないのよ。ごめんね、守ってあげられなくて。そう泣きながら言ってね、いつもより強く抱き締めてくれたの。まるで、もう抱き締めることが出来ないことを悟ったように、抱き締めた感触を決して忘れないように」

 そしてヒロの母親はとある人物に電話をした。

「お母さんね、カオルさんに電話してくれたの。だからカオルさん、すぐに飛んできてくれた。現場を見て驚いてたけど、私とお母さんを見てすべてを悟ってくれた。それからお母さんは自首して、私はカオルさんの家に身を寄せた」

 それからしばらくして、ヒロは刑務所の母親と面会した。

「お母さん、やつれてたんだ。それを見た私はね、お母さんがすこしでも早く刑務所から出られるならって、本当のことを警察に言うってお母さんに言ったの。本当は私が最初に刺したんです。お母さんは私を庇うためにお父さんを刺したんですって。でもお母さん、それはやめなさいって。当然だよね。だって、それを言っちゃったら、お母さんがお父さんを刺した意味がなくなっちゃうもんね。でも、私はそれを理解できてなかった。子供だったからね。お母さんも、私が納得できてないことに気付いてた。だからお母さん、自殺したの。殺人犯として人生を終わらせたの」

 母親が死ねば、ヒロが真実を打ち明ける理由はない。

 だから死んだ。

 いや、おそらくはそれだけじゃない。

 娘に殺人という業を背負う必要はないと言いたかったのだ。

「わかったでしょ、ケイ。私はね、お母さんを追い詰めちゃったの。自殺しないといけないところまで追い詰めちゃった。だから謝らないといけないの。死後の世界が本当にあるかはわからない。でも、あるかもしれない。その可能性に私は賭けるの」

 ケイはなにも言わない。言えない。

 しかし閉ざされた口は歪んでいた。奥歯を噛み締めていた。

 そんなケイの苦悶を晴らすためか、ヒロはすべてを打ち明けてすっきりしたと、わざとらしく大きな伸びをした。これでようやく肩の荷が下りる。長い計画だったと白々しいまでに明るい声を出した。

 だが、そんなものは強がりだ。

 なのに指摘できない。

「ああそうだ。最後に、ケイに教えとくね。ちまたで騒がれてるペット連続惨殺事件の犯人は、ケイがダダって呼んでる彼だよ」

 もののついでのように彼女は言った。

 それは今しがたされた過去話を軽くするための気遣いのつもりなのだろう。

「ああ、なんとなく気付いてた」

 ケイは先の話から目を逸らせるようにあっさりと答える。

「へえ、気付いてたんだ。いつから?」

「前々から。野良ではなくペットを狙ってたのは、写真や映像を送りつける相手がいるからだ。もっと言えば、悲しむ相手がいるからだ」

 ダダのことだ。そんな被害者達の表情を想像し、悦にでも浸っていたのだろう。

「あいつが犯人だと確信したのは、お前とダダが知人だと教えられた時。つまり今だ」

 あのウェブサイトの創設者がペット連続惨殺事件の犯人だと気付き、またその創設者はダダだろうと当たりをつけていた。そしてそれはダダとヒロが知り合いだとわかった時点で確信へと変わり、同時にヒロがあのアングラサイトを知った理由もわかった。

「うん。そのとおりだよ、ケイ。……じつはね、彼にも大事な役割があるんだ」

 それが、最後の条件。

「お母さんはね、私を守るために自殺したの。だから私もケイを守るために自殺しないといけない。でも、これがなかなか難しかった。どうすれば私はケイを守るために自殺できるんだろうかって、ずっと考えてたの。そんなとき、彼と再会した」

 偶然だった。

 ヒロは高校からの帰宅の電車でダダと再会した。中学時代も仲が良かったわけじゃない。むしろ無関係に近い。会話というほどのこともしたことはない。ただ相手から一方的にケイについて聞かされただけ。それでも相手は声を掛けてきた。

 ――もしかして芳野か。久しぶり――

「たぶん彼、高校でも友達がいなかったんだと思う。私に声を掛けると、話すのが楽しいとでも言うように喋り始めたの」

 当初、ヒロはダダの話を聞き流していた。

「でも彼がぽろっと零したの、あのウェブサイトのこと。そしてそこの創設者がペットの惨殺死体の画像を投稿しているって話し出して、私はすぐに気付いた。彼がそのサイトを作ったんだなって、彼がペット連続惨殺事件の犯人なんだなって。だからちょっとつついてみたんだ。ほら、ああいう変質的な人ってなかなか周囲に理解されないから、いっそうに同志を求めてたりするじゃない。だから私は理解者の振りをしてみたの。そうしたら彼、あっさりと認めた。それどころか、ペットをどう殺したかを綴った日記まで見せてくれた。っで、その内容を読んでるうちに気付いたの。彼、もう動物殺しに飽きてきてるなって。そして私は直感した。――ケイ。じつは私ね、ちょっとした特技があるの。それはね、人の未来が予測できること」

 ケイはヒロと出会った時のこと思い出した。

 ――じつはね、私、未来が見えるの――

 出会ったとき、彼女はそんなことを囁いた。

 でもあれは冗談で、そんなことは出来るはずがなくて。

 怪訝にするケイを見て、ヒロは自嘲するように微笑む。

「虐待を受けてたとき、私はお父さんの一挙手一投足を見逃さないように観察してた。視線、指先、体の傾き、咳払い、声の調子、息遣い。そういうのから、お父さんがこれから望むであろうことを予測して行動した。風呂に入りたい素振りを見せれば、お湯を沸かした。喉が渇いた素振りを見せれば、お茶を入れた。テレビ番組がつまらないと感じてたら、リモコンを側に置いた。そうして出来るだけ怒らせないように神経を使ってたの。そして気付くと、お父さんじゃない人の考えとかもわかるようになってた。不思議なもので、相手の考えとかがわかれば、その人がこれからどういう行動に出るのかがわかるの。私が未来が見えるって言ってたのは、つまりはそういうこと」

 未来なんて見えてない。すべて予測していたに過ぎないのだとヒロは言った。

「そんな目で彼を観察して、わかっちゃったの。彼、いつか人を殺すなって」

 そのとき、ヒロの自殺計画は明確な形を成した。

「彼、なにか理由があれば人を殺すってわかったの。小さな理由でいい。誰にも理解されなくてもいい。ただ、彼にとって人を殺す言い訳が出来ればそれでいいの。彼だけが納得できる理由があれば……。ケイさ、すこし前に彼と電車で再会したでしょ。あれ、私が教えたの。あの時間、あの電車に乗ったらケイと会えるよって」

 ――やあ、藤崎。久しぶり。本当に会えるとは思わなかったよ――

 あのときのダダの言葉が脳裏に蘇る。

 そうだ。ダダは言った。

 ――本当に会えると思わなかったよ――

 あれは、そういうことだったのか。

「彼、私とケイの関係は知らなかったの。だって私、彼に話してなかったからね。だから、どうしてお前が藤崎のことを知ってるんだって聞かれたんだけどね、適当にはぐらかした。ケイの告白をかわしてたからかな、そういうのも身についてたみたい、私」

「……でも、どうして俺とダダを会わせたんだ?」

「彼にケイへの殺意を抱かせるため」

「なっ……」

 つまりそれは、ダダに藤崎ケイを殺させようとした、ということではないか。

 しかしヒロは首を振った。

「そうだけど、違うの。きっと彼はケイを殺す、このまま私がなにもしなければ」

「なにもって……。まさかそれが……」

「そう。私が自殺することで、ケイは殺されないで済む」

「なんで……」

「彼の変わった性癖は知ってるでしょ? 彼は人の歪んだ表情が好きなの。それこそ、嗜好が嫌悪感を上回っちゃうくらい。だから私の自殺でケイが悲しめば、そんな表情を見て彼のケイに対する負の感情は消え去る。ううん、それどころか満足すらする。だから私が死ぬことは、ケイを守ることになるの」

「そんな無茶苦茶な……」

「ケイにはそう思えるかもしれないけど、私はこれで条件を満たすことが出来るの」

 お母さんは私の側にいてくれた。

 ――だから私はケイの側にいる。

 お母さんは自分の代わりとなるカオルさんを私に用意してくれた。

 ――だから私は自分の代わりとなるミカを用意する。

 お母さんは私を守るために自殺した。

 ――だから私はケイを守るために自殺する。

「全部、お母さんが私にしてくれたこと。私はこれらをケイにする」

 そして今、条件は満たされるのだ。

「長かった。でも、これでお母さんに会える。……謝れる」

 ヒロがケイに微笑みかける。

「同好会を作っての映画撮影。たしかに条件のためって言うのもあったと思うけど、最後にみんなで何かがしたかったっていうのもあったと思う」

「……最後ってなんだよ」

「最後は最後だよ、ケイ」

 ヒロは夕空を仰ぐ、まるで天上に存在する天国を見上げるように。

 瞬間、ケイは悪寒を覚えた。

 まさか――。

「待て……」

 ケイは呟くように言って一歩を踏み出した。

 ヒロは両手を広げる、まるで夕空からの迎えを受け入れるように。

「待てって……」

 ケイはふたたび呟くように言って二歩、三歩と歩み出した。

 ヒロは瞼を閉じる、まるで人生の終幕を受け入れたように。

「待てよ!」

 ケイは駆け出した、一秒でもはやく彼女のもとへ。

 ヒロの体がゆっくりと倒れる、なにもない後方へ。

「ヒロ!」

 ケイは目前にまで接近。彼女を掴もうと手を伸ばした。

 ヒロの唇が僅かに動く。

 バイバイ。

 そう言ったように見えた。

 そして彼女の姿は屋上から消えた。

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