鴉と猫と狐と

「クロウ、起きなさい。クロウ!」


 キルケの声がする。

 だが、前後不覚なほど深酒をし、朝帰りのクロウは、呂律ロレツのまわらぬ生返事をするばかりでお話になら無い。

 赤い瞳に銀の髪、ガラス細工のように繊細な美しさを持つ魔女キルケは、寵愛する使い魔の姿に呆れた顔をしてため息を漏らした。


「大切な話が……もぅ」


 話をするのを諦めたのか、キルケはポシェットから取り出した金の指輪をソファーに伸びているクロウの胸に押し付けた。そのまま粘土の人形に埋め込むように沈めていく。やがてすっかり見えなくなったところで指を引き抜いた。血も傷もなく消えた指輪を確認して魔女は満足そうに頷く。


「大切な預かりものだから、貴方が持っていてね」


 そう、耳打ちするとクロウは何か適当な返事をした。

 キルケは怒って眉をつり上げたが、直ぐに困ったような微笑になって、クロウの伸ばしっぱなしの黒髪を撫でた。


「お留守番、宜しくね」


 黒いよそ行きのローブのフードをかぶり直し、魔法で呼び出した従者を数名引き連れると、おとぎ話に出てくるような馬車に乗り込んで出掛けてしまった。


 ***


 数時間後、目を覚ましたクロウは酷い胸焼けを感じた。

 さすがに飲みすぎてしまったな。キルケが何か言っていたみたいだけど、覚えてない。

 まあ、後で聞き直せば問題ないか。


 浄化魔法で体をスッキリさせ、濃いコーヒーを飲んでぼやけた頭を覚ます。机の上に置かれたメモには、キルケがしばらく魔界に行って留守にすることが書かれていた。それと、意外なことに『体には気を付けなさい』とも。


「俺の心配をしてくれるんだ。優しいじゃない」


 フッと笑ってメモ紙を手のひらで燃やして灰に変えた。

 さてと、また暫くは遊んでいられるわけだ。主の不在に遊ぶ気満々なクロウは今日は町のどこへ繰り出そうかと思いを巡らせていた。


「クロウ。さっきキルケが帰ってきていたよ」


 酔い潰れたさまを見て怒っていたよ。

 余り心配をかけるんじゃないよ。


 狐の爺さんの小言を聞きながら、クロウは密かに寝ていて正解だったと思った。起きていたら魔界へ行く従者の1人として連れていかれたに違いない。それは御免だ。

 1度追放された身としては、余程のことがない限りはあちらへ足を踏み入れたいとは思わない。


「おい」

「分かったよ。気を付ける。だからお小言は……」

「そうじゃない!」

「あ?」

「お前さん、なんか気配がおかしくないかい?」


 狐の爺さんはクンクンと鼻をならして眉を潜める。

 目の悪い爺さんは鼻が利く。そのため周りの者が気付かない臭いにも過敏に反応をしめした。

 酒場のアルコールと煙草、それに安い香水と白粉の臭い。それに善良な人々の前では言うのにハバカられる薬の煙など、思い当たる臭いならば両手の指に余るほどある。


「あ~、スマン爺さん。今後は気を付ける」


 爺さんは察してくれたようだが、まだに落ちぬようすで鼻を鳴らし、自分の定位置である窓辺のクッションにうずくまった。


 まぁ、爺さんもこう言うことですし、夜までは大人しく家にいるとしますか。


 クロウは足元に落ちていた新聞を拾うと、ソファーに腰を下ろした。そこに、忙しないようすでチェシャが現れ、ついでの用はないかとクロウに尋ねる。


「クロウ。私ルカの店に行くけど、キルケに何か頼まれることとかあった?」


「無いな。それからパイは買うだけ無駄だぞ。キルケはしばらく帰ってこない」


「あら、そう」


 町に降りるため人の姿へ戻ったチェシャが、手籠から取り出したメモにキャンセルの線を幾つか引いている。と、急に感じ取った気配に眉を潜めた。


「ちょっと、何か変なもの連れてこなかった?」


 そう言いながら、チェシャもソファーで新聞を読んでいるクロウを怪しげにじろじろと観察した。


「何ださっきから! お前も爺さんも新手の説教か!?」


 さすがにクロウも嫌気がさして抗議する。

 チェシャも何かおかしいと感じながら原因が分からないようで、狐の爺さんと視線を会わせて肩をすくめた。


「お爺さんもおかしいと思う?」

「思うんだが、何がおかしいのか分からなんだ」


 今度は二人でまじまじとクロウを見つめてくる。

 鬱陶しくなって追い払うように手を振った。


「夜遊びして悪かった! だからもう行ってこいよ」


 これ以上しつこくするのも意味がないと思ったのか、チェシャは『はいはい』と返事をして出掛けていった。

 傍らで憮然とした表情で座っていた爺さんも『煩くて寝られない』とぶつぶつ溢して奥にあるキルケの寝室へ逃げこんだ。


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