猫とパン屋

 嘆いたところで元に戻らない事もある。

 流れる時と共に、あきらめが彼を諭したのだろうか。


 窓辺についた手のひらが埃で煤けたのが目に留まった。曇った窓ガラスに気が付き、振り返って部屋の中を見渡す。心に引きこもっていたときは何も目につかなかったけれど、こうして見ると何処もかしこも蜘蛛の巣だらけ。埃はフェルトのように積もっている。

 カフェがこんな状態で放っておかれるなんて良くない。

 どうせ時間は腐るほどあるのだ。ルカは手持ち無沙汰に掃除を始めた。窓を開け風を通し、積もったほこりを箒で払い落して外へ掃き出す。曇りガラスを拭いて、すっかり使われなくなったカフェのキッチンを丹念に磨きあげる。


 そうしていると、今までに起きた不幸な出来事がすべて夢で、自分の店でいつものように働いているような奇妙な充実感がえられた。


「すごいわね」


 手慣れたようすでルカが薪オーブンの掃除をするのを傍らで見ていたチェシャが感心していった。


「レストランにでも居たの?」

「私はパン屋でしたから」


 現実へ引き戻されたルカは失った店のことを思い出してチクリと胸を痛めた。

 愛しい人にパイを焼いていた頃が懐かしい。もう、遠い昔のように感じるのに失った痛みは一向になくならないし、心の空洞は埋められないままだ。


「あら、素敵ね。パイは魔女の大好物だわ。試しに焼いてみてくれない?」


 魔女の好物と聞いて少し微笑んだ。町の人々が恐れて噂する《森のご婦人》の好物がパイだなんて。ごく普通の人らしさを感じて親しみを覚えた。

 居候しているのだからこのくらいのことはするべきかもしれない。それでルカは久しぶりにパイを焼いた。有り合わせの物しかなくて、カエルのミートパイになってしまったけれど。


 香ばしくパイが焼ける匂いにつられて様々な鳥や動物がカフェの窓を覗く。チェシャが手招きをすると嬉しそうに、あるいは遠慮がちに部屋の中へ入ってくる。カフェのテーブルはいつのまにやら奇妙なお客でいっぱいになった。彼が焼いたパイを美味しそうに頬張る人たちを眺めながら、ルカは久しぶりに心が明るくなった。


「あなた、料理上手なのね」

「えぇ、好きなんです」


 姿は怪物になってしまったけれど、ルカの手はまだパン屋のままだ。そう思うと、じわりと嬉しくて涙がこぼれた。


 ルカはそれから毎日パイを焼いた。

 ウナギや苦菜、イチイの実。やっぱり変なパイばっかりだったけれど。それでもかつて人だった森の住人たちは、彼の焼くパイを大変喜んでくれた。



 そうして、魔女の家に小さなパン屋が出来た。

 いつもどこかへ出かけていて、時々しか戻って来ない魔女も、彼が勝手にカフェを始めたことについて良いとも悪いとも言わなかった。ただ、帰るとパイを丸ごとひとつ、何も言わずに平らげた。


 チェシャのいう通り、大好物のようだ。

 このカフェも本当は魔女の親しい友人の物で、その人が焼くパイやケーキ目当てでここに住み着いたのだとか。その人はどこに行ったのと聞いたけど、チェシャは教えてくれなかった。

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