泡沫の夢をみる1 絵師の登楼

早瀬翠風

絵師の登楼

苦界

 せわしく動く男の面を流れ落ちた汗が美津の頬に落ちる。

 汚らわしい。

 冷めてゆく意識のなかで美津は毒づいた。行灯の橙の灯が美津の美しい輪郭を照らす。睫毛の落とす影が官能的に歪んだ顔に長く伸びる。虚ろに漏れる甘い声が不意に途切れて美津の体を震わせた。

『お手をする犬とおんなじさ』

 淡路の言葉が蘇る。

『習い性にしちまうんだ。乳を揉まれたら啜り泣いて、あそこに挿れられたら喘ぐのさ。いちいち感じてたら身が持ちゃしない』

 だって姐さん、あのこたちは頭を撫でてやったら尾を振って喜ぶじゃないか。あたしは褒められてもちっとも嬉しくないんだよ。

 胸の内で訴えても答えてくれる声はない。淡路はもういないのだから。

「三津」

 源氏名で呼ばれて顔を上げた。

「あい」

 答えた唇に男の接吻けが落ちる。

「ん……」

 生温かい舌が挿し入れられて美津は吐息を漏らした。口のなかを大きな蛞蝓が這い回るようなその感覚にはもう慣れた。今ではもう吐き気を覚えることは無い。何故そんなことをしたがるのかは未だに理解出来ないが。

 見目麗しい男だった。美津を買い上げるだけの財もあるのだから、さぞやもてるだろう。しかし男が美しかろうが醜かろうが美津には関係なかった。ただ淡々と、金を落とした男に股を開くだけ。醜いから厭だと思わない代わりに美しいから嬉しいとも思わない。

 美津は起き上がって緋い襦袢を引っ掛けた。正絹の肌触りが火照った身体にひんやりと心地好い。裾に描かれた牡丹を翻して歩く。御簾紙を手にとこに戻ると男は三枚重ねた布団の上に胡坐を掻いていた。煙管に火を入れて手渡す。男が吐いた煙が部屋に漂った。

 御簾紙で丁寧に後始末をしながら、この客は朝まで居るつもりだろうかと考える。独り寝の機会を喪うのは惜しいが、これから下に下りてもう一人客を取るよりはマシだ。大門が閉まるまでにはまだ間があるし、大引けまでにはまだまだだ。

「今日は帰えるよ」

 落胆が顔に出た。唇を噛んで見上げると男は満更でもなさそうに眦を下げた。

「好い人でも出来んしたか?」

 御簾紙を当てていた内股を軽く抓る。いてて、と身を捩った男は照れたように鼻の頭を掻いた。実は嫁を貰うことになったのだと言う。

「それはおめでとうおざりんす」

 柔らかく微笑んでからちらと睨む。

「でも旦那、あっちのことも忘れないでおくんなんし」

 細い指で毛の薄い内腿をなぞると脚の間で大人しくしていたものがびくりと跳ねた。くすりと笑って美津は膝立ちになり男を抱きしめる。はだけた白い谷間に男の鼻筋が埋まった。

「下まで送りんしょう」

 綺麗に整えられた月代さかやきに接吻ける。男の肩に襦袢を掛けてやり自分も身繕いに立ち上がった。ちらりと見遣ると男は俯いたまま何やら考え込んでいる。

「旦那?」

 美津が声を掛けると顔を上げた男に手首を掴まれた。

「三津……」

 布団の上に引き倒される。圧し掛かってきた男の瞳の奥に劣情を見てとって、美津は胸の内でほくそ笑んだ。



     *



 賑やかな清掻すががきの音が廓に満ちる。遊女にとっては地獄の釜の蓋が開く合図だが、その音は軽やかで明るい。美津は格子の内側に座って煙管を口元に運んだ。

 美津のみせは半籬の中見世だが、緋い格子のなかのおんなたちは皆華やかで美しく、大見世程の格の高さも無い為がり易く、そこそこ繁盛している。今日も清掻は鳴り始めたばかりだというのに既に何人かが部屋に上がっていた。

 美津は宙に煙の輪を描いて格子の外に流し目を送った。丁度視線の合った男に艶やかに笑んで見せる。男が見世番に耳打ちするのを横目で見ながら美津は煙管を燻らせた。

 無理だろうねえ。

 美津は高い。小店の手代程度では手が出せないだろう。男の身形を見て美津は思った。小綺麗にしているし見目もかわいらしい男だが、金がないなら話にならない。此処はそういう所だ。

 ふと視線を感じて伏せていた睫毛を上げる。それを辿ると路の向こう側に立つ男と目が合った。美津の膚に粟立つように鳥肌が立つ。無意識に逸らしかけた視線を無理に合わせて紅い唇で弧を描く。

 美津はその男を知っていた。否。名も素性も知らないのだから知っているとは言えない。ただ、このところ美津が格子に座ると必ず居る。必ず目が合う。美津が笑んでも、誘うような視線を送っても、少しも動かない。眉ひとつ動かさない。

 それでも美津は目が合う度に微笑った。そういう役目だ。

 美津は粟立った膚を撫でた。年の瀬を迎えた格子のなかは、火鉢に炭を熾していてもやはり寒い。それでも、常ならば鳥肌が立つ程ではない。それなのに、その男を認めるといつもこうだ。溜息を呑み込んで視線を逸らす。先程の手代風の男が肩を落として首を振るのが目の端に映った。

 お茶を挽くことにならなきゃいいけどねえ。

 煙管の灰をとんと落としながら美津は思った。


 まったく、とんだ晩だよ。

 妓が疎らになった格子のなかで美津はそっと溜息を吐いた。本当にお茶を挽くことになるとは思わなかった。

 美津は売れっ子なので茶屋を通す客が殆どで、格子に出ること自体があまり無い。だからたまにこうして座っていると、引手茶屋を通す程の財は無いが小金は持っている小店の主などが挙って押し寄せる。美津はどちらかと言えば客を選べる立場なのだ。

 こんなことは初めてだった。このまま客が付かなければ遣手に嫌味のひとつも言われるだろう。何より、稼がなければ禿や新造に飴玉ひとつ買ってやれない。

 美津は再び格子の外に視線を向けた。あの男がまた居た。

 嫡娼あいかたは居ないのだろうか。この楼に登がったことは無い筈だから他の見世か。それともただの素見ひやかしか。よく見ると鼻が少し曲がっている。整った貌立ちのなかでその僅かな歪みが男をより魅力的に引き立てていた。

 目が合って、自分がぼんやりと男を見つめていたことに気付く。視線が絡めば笑えば好い。何も問題は無い。それなのに美津は笑えなかった。引き攣った視線を無理やり剥がし顔を背ける。

 煙管に火を点ける手が震えているのを周りの妓たちに気付かれるのではないかと気が気ではなかった。自分に何が起こっているのか理解出来ない。美津は生まれて初めて逃げ出したいと思っていた。この黒い塀のなかの世界しか知らないのに、一体何処に逃げるというのか。ふと自嘲の笑みが漏れた。

 口角の上がった唇に煙管を咥える。煙を吐くと白い筋が宙に漂って消えた。意を決して顔を上げる。

 しかし、視線を向けた先に男の姿は既に無かった。


「三津花魁、」

 襖の陰から若い者に声を掛けられて美津は立ち上がった。客の姿を探したが見当たらず、内所の方へ促されて眉間に皺を寄せる。

 楼主に窘められるようなことをした覚えはなかった。

 まだ若い楼主は美津とたいしてとしが変わらない。うんと小さい頃には共に遊びもした。早々に隠居した父親に代わり楼を取り仕切る彼は、軽薄そうな美丈夫だがなかなかどうして遣り手で容赦が無い。美津は平然とした顔で向かいに座ったが、内心では忙しく己の行動をさらっていた。

「はて、あっちは何をしんしたか?」

 努めてゆったりと首を傾げる。

「心当たりがありいせんが」

 楼主に振り撒いても仕様が無いが、経験が艶やかな笑みを美津の口元に載せる。

「何、客が付いたんで退かせただけだ」

 楼主が文机に片肘を突いて煙管を咥える。面白くもなさそうに吐き出された煙を、美津は目で追った。客の姿なぞ何処にも無い。美津の眉間に寄った皺を見て楼主は鼻を鳴らした。

「今晩は誰にも触れさせるなとかして花代を置いて行った。てめえは明日、茶屋を通して登がるそうだ」

「そりゃまた酔狂な旦那でありんすなあ」

「三津、お前え明日迎けえに行ってやんな。酔狂だろうが変人だろうが上客だ。逃がすんじゃねえぞ」

 呆れて宙を仰ぐ美津に楼主はにやりと笑った。


 触れさせるなと言われて、はいそうですかと従うほど妓楼は甘くはない。客には愛想好く頷いておいて、気付かれぬところで別の客を取らせる。同時に何人も、ということもザラだ。ちょいとお手水へ……などど繕って別の男の待つ部屋へゆく。

 だから、本当に部屋に引き揚げさせられて美津は驚いた。楼主はのらくらと構えていたが、これは相当の上客なのかもしれない。

 珍しく独り寝の布団のなかで、何故か先程の男の面影が浮かんで消えた。

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