受験生の夏(2)
翌日、リンクに着くと南場さんがスティーブン先生にプログラムを見てもらっていた。南場さんはシニアの試験には落ちたけれど、今年はまだジュニアで全日本を狙うことができる。僕のいない時間、よくスティーブン先生に見てもらってプログラムを練っているようだった。
「ああ、天宮来ちゃったか」
リンクに来た僕を見つけた上本がそう呟いた。南場さんほどではなかったけれど、上本も平野も機会があればスティーブン先生の指導を受けていた。他の多くの女の子たちもそうだった。
「もうすぐ先生帰っちゃうから、もうちょっと見てもらいたかったなあ」
約一ヶ月という短い間だったけれど、スティーブン先生の指導はみんなにとっても本当に有意義だったようで、もうじき訪れる別れを惜しんでいるようだった。
「夏休みなのに、忙しいんだな」
南場さんも僕を見つけると、すぐにレッスンを中断して上がってきた。
「天宮は受験勉強が大変らしいですよ」
上本の言葉に焦ってしまう。
「そんな大変ってほどじゃないけど……」
なんといっても、まだ受験勉強らしきものは始めていない。僕は誤魔化すように、慌ててストレッチを始めた。
「今回のプログラム、いい思い出になりそう」
一人の女の子の声が聞こえた。
「ええっ? どうしたの? 今シーズンでスケートやめちゃうの?」
まわりの子たちがどよめく。
「違う違う。あんなにいい先生に見てもらえる機会なんて、この先ないだろうなって」
「あーびっくりした。まあ確かに。私たちが海外レッスンとかありえないもんね。振付師を頼むなんていうのも夢のまた夢だし」
彼女たちの話を聞きながら、海外の指導をこうして受けられる幸運に僕もまた感謝をした。
「俺たち、得したよなあ」
上本もまた、そうつぶやいた。
「陽向さんも太っ腹だよ。天宮が忙しくて練習にあんまり来れないの知ってて、それでもスティーブン先生呼ぶんだもんなあ」
「あんまり来れないって……。毎日三~四時間は来てるんだけど」
一日の練習量としては十分なはずだ。
「でもその三~四時間以外は、先生、俺たちを見てくれてるんだぜ。なのに俺たちからは金取らずに、費用は全部陽向さんが持ってるんだからなあ。さすがだよ」
「天宮君のためだけに、呼んだってことだよね。最初っから全部自分が持つつもりで」
「いくらかかってんだろ。レッスン代の他に、旅費と宿泊費だろ。先生呼ぶより、二人分出してアメリカ行った方が安かっただろうにな」
「でも天宮君は今年は受験勉強が大変だから、アメリカに行く暇はなかったんでしょ?」
「それで先生呼んで、天宮には来れるときだけ来ればいいなんて言ってるんだから、すげーよなあ。俺だったらもっと来いって言っちゃうけどな」
リンクのフェンスに足をかけ、その足に顔を伏せるようにして前屈した。みんなの悪気のない明るい雑談が、僕を動揺させていた。
「どうして陽向は、何も言わないんだろうな」
南場さんがそう言うのを、僕は顔を伏せた状態のまま聞いた。胸が、痛かった。
僕が現れたらすぐ、リンクを上がってきた南場さん。
僕はどれだけ優遇されているんだ。
『ビートを体で感じて! もたつかないで!』
『君たちが踊っているのはチャチャだよ。もっと楽く、楽しく! 笑顔! 笑顔!』
スティーブン先生は僕たちのステップの横で、にこやかに声を張り上げた。アップテンポな曲に追われながら、息が上がってくるのを堪え、笑顔を作って応える。
『そうそう。制覇、もっと心からチャチャを楽しんで!』
先生は陽気に、リズミカルにステップを刻みながら、何度もそう僕を励ます。ダンスに必死になってついていく中で、時折り陽向さんの笑顔が見える。先生が彼女の表情をほめる。その声を聞くと、僕もちゃんとしなくてはと切羽詰まった思いに駆られる。
僕はアイスダンスの世界に住むには不釣り合いな人間だ。そんな人間を抱えたチームがこの世界で勝とうと思ったら、どうあるべきなのか。
姫島先生はアイスダンスでは当たり前とされるレールから敢えて外れた。だけどそれに代わるだけのことができるよう、英語のガイドブックを読み、プログラムを勝てるものにするため日々知恵を絞っている。吉田さんもそれに協力し、陽向さんは僕のために海外の技術を持つ先生を招いてくれた。お陰で僕は、日本にいながらいい指導を受けることができている。ここにはレールから外れたことを不安に思い、後ろ向きになっている人間なんていないのだ。
勝てる人間になれるかどうかは、レールに乗っているかどうかじゃない。
リンクの涼しさなど足しにならないほど、汗が吹き出す。チャチャコンゲラートはテンポが速く、エッジの乗り替えのシャープさが求められる。気を緩めることはできない。先生たちに言われた注意を思い浮かべながら夢中で滑っていると、「笑って」という声が聞こえてくる。思い出したように、僕は笑顔を作った。
明日からはもっと早くリンクに来よう。時間の許す限り、ここにいよう。先生も陽向さんも何のためにここまでやっているんだ。僕が本気にならなくて、どうするんだ。
一日三~四時間を超すような長時間の練習が成果を出すために必要なのかは分からない。だけど僕は他の人が僕のために差し出してくれたものに対する誠意として、やれるだけのことを陽向さんとともにやらなくてはならないと思った。
この日から僕はモミの木から遠ざかるようになった。そしてそれまで以上に練習に打ち込むようになった。「やらなくては」という必死の思いで打ち組むことは、体にかかる負担とは逆に、心地よいような気がした。それまでの自分の気楽さに対しての罪の意識のせいもあったかもしれない。それともスポーツで結果を出すには、それだけの熱い思いがなくてはならないような気がしていたからかもしれない。
スティーブン先生の帰国の前日。陽向さんが先生にお礼を渡そうと言った。
何かプレゼントでも買うのかと思ったら、陽向さんは僕たちの写真を貼った色紙を持ってきた。色とりどりのペンを出して、何かメッセージを書いてと僕に言った。
「日本語じゃだめですよね」
僕は悩んだあげく、陽向さんに
僕たちだけじゃなくて、振付の相談などに乗ってもらっていた他の生徒もやってきて、落書きみたいににぎやかに色々と書き加えてくれた。
翌日、スティーブン先生は色紙をとても喜び、「君たちはきっと素敵な演技ができるようになるよ」と言ってくれた。……らしい。
僕はその言葉をしっかりやれよというエールとして捉えた。「素敵な演技」という言葉のニュアンスに込められた願いに気づくことはまだ残念ながらできなかった。「やらなくては」という思いで取り組むのとはまったく異なるアイスダンスがある、そこを目指せと言われているということに気がつくことはできなかった。
こうして僕の夏休みは終わった。
学校が始まり数日して、流斗が東京の高校に推薦合格したという噂を聞いた。
隣の席の女子が、まるで聞いてきたことかのように流斗の噂を広めていた。休み明けから一度も流斗は学校に来ていないのに。彼女がスマホをご機嫌でヒラヒラさせているのを見て、なるほどなと思った。あいつは誰とでも連絡とってるんだな。
窓の外ではツクツクホウシが鳴いていた。流斗が引っ越してきてから一年が経っていた。すかっとした青空の向こうで、入道雲が少しずつ大きさを増していた。
流斗の座ってない前の席を見て、ふと氷の上で果歩の手を取ったあの日のことを思い出した。
あれだけ流斗にやめろと言っておきながら、僕はあっさり果歩の手を取ってしまった。氷に乗ってしまうと、僕たちアイスダンスをしている人間にとって、手をつなぐなんてほんとに簡単なことになってしまうんだ。いや、あの状況の果歩を教えるには、手をつなぐのが一番だった。僕はあの瞬間までそれに気がつかなかった。だけど流斗は多分、分かってたんだ。ああやればすぐに上達させてやれることを。それなのに僕は、あいつがもっと違う理由でそんなことを言ってるんじゃないかと、そういうことばかりが気になっていた。果歩のことを考えているつもりで、僕がやっていたのはただの邪魔だったんだろうか。
入道雲は夕立を運んできた。
僕は結局、スケートに染まった夏休みを過ごしてしまった。受験生としては何もしなかった夏。
六時間目が始まる頃には、夕立もおさまった。
久しぶりの英語の授業。その教科書を手にした時、なにか不思議な気持ちがした。ここに書かれていることがわかっていれば、あの先生とももっと近づくことができたんだろうな。
まるで魔法の言葉が詰まっているテキストのような気がした。
僕と果歩はだんだんと話をしなくなっていった。放課後はすぐに、大阪に向かうようになっていたから。果歩に帰りがけに「今日、来る?」と捕まえられても、「ごめん、行けない」と走ってすり抜けるようになっていた。
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