朝を迎えて(2)

 リンクに行くと、大学生に混ざって果歩と流斗がいた。僕は心臓が跳ね上がるほどびっくりした。なぜ? と思うと同時に、死ぬほど帰りたいと思った。けれど、絶対に帰ってはならないと思い直した。

 僕の姿を見つけた北大路さんが、遠くから手を振った。果歩がものすごく驚いた顔をしてこちらを見た。吉田さんが僕を見つけて寄って来た。


「早速来るんじゃないかと思っていましたよ」

 吉田さんの手にはダイアグラムが握られていた。前の晩、僕が覚えられなかったパターンを覚えさせようと思ってくれているのだろうけれど、ダイアグラムなんて持って来られても、正直困ってしまう。拒否反応を起こしながらも、チラッと覗き込んだ数枚のダイアグラムには、全てカラーペンで何かが書き込まれていた。

 昨日遅く帰ってから今日のこの早い時刻までの間に、僕のために書き込みをしてくれた……?

「気になることがあったら、やってしまわないことには寝られないんですよ」

 とても幸せな仕事をやり終えたかのように、吉田さんは言った。

 みんな、こうやってどこまでものめりこんでいくのだろう。


「でも……、僕、これを読むのは……」

「大丈夫ですよ。パターンを読ませようと思って持って来たんじゃありません。あなたの頭の中に、コースを構築しやすいようにメモ書きをしてきただけです」

 困っている僕に対して吉田さんはそう言ってくれたけれども、僕にはそれがどういう意味だかよく分からなかった。


 遠くでみんなが集まって準備体操を始めた。貸し切りまでにはまだ少し時間があった。吉田さんが僕にイヤホンをくれた。

「ダッチワルツかけてるんですけど、聴こえますか?」

「はい」

「助走は覚えてますよね?」

「はい。助走だけはばっちりです!」

 僕がそう言うと、吉田さんはダイアグラムを開いた。

「良かった。これは助走を除いた部分が書いてあるんですよ。この、スタートと書いてある所からですね。」

 ダイアグラムには確かにスタートと英語で書いてあった。


「このように長い辺では、三つの弧を描くことになりますが」

 そういうと吉田さんはリンクの方に体を向け、紙に描かれている長い辺と実物のリンクの長い辺の向きをそろえてダイアグラムを寝かして見せた。紙の上の長い辺には互い違いに三つの半円が並んでおり、それがカラーペンで囲んであった。その両サイドに、違う色の囲みがあった。

「この両サイドにコーナーを回るステップがつきます。このコーナーを回るステップの途中からが、ダッチワルツの始まりです。この図の軌跡を見ながら、奥のリンクを見てください。どこで何をするか、ステップが思い浮かびますか?」


 僕は聴こえてくる曲を口ずさみながら、DVDで見た映像を思い浮かべた。図に書いてある通りの軌跡で進んでいく人の光景が、はっきりと目に浮かんだ。

「浮かびます!」

「良かった。どこで何をするか頭の中で考えて、リンクの端までシミュレーションで到達してください」


 いつの間にか近くに寄ってきてそのやり取りを見ていた果歩が嬉しそうに言った。

「もしかして、制覇って……頭悪いの?」

 なめんなよ! と言いたかったけど、空気が変わるのが怖かったのでやめた。以前の僕は何も考えずにそういうことを口走っていた。果歩は案外、以前と雰囲気が変わらない。人が滑っている所にふらっと寄ってきては、やっていることに口を出す。

「頭が悪いかどうかに関しては……どうなんでしょうかねぇ? そろそろ時間なんで、入ってみましょうか」


 みんなが練習を始めたリンクの端の方で、吉田さんが言った。

「なるべく外側を、カーブ浅めに使ってください。中心は他の人間が練習してますんで」


 果歩は僕の現状をどこまで知っているんだろうか。何のために、何を練習をしようとしているのか、知っているんだろうか。果歩はそれについて何も聞かず、いつの間にかいなくなっていた。

 僕は吉田さんの指示に従い、ダッチワルツを浅めに滑った。


 滑り終えた時、隣を通りがかった流斗が落胆したように言った。

「やっと来たかと思ったら、まだそのレベル?」

 ダッチワルツが難なくこなせたことを喜ぶ暇もなかった。

 覚悟はして同じ練習に入ったはずなのに、やっぱり流斗とは口をきくことも苦しくてたまらなかった。

 だけど、この苦しさの原因が自分の負けず嫌いから来ているのだとしたら……。

 僕は敢えて笑ってみせた。


「そう。残念ながら『今』の僕は、このレベルなんだよ。あいにく、ここから上っていくしかなくってね」

 僕は流斗を見据えた。

「そっちはなんでここにいるわけ? 東京に通ってるって言ってなかったっけ?」

「レッスンはね。自主練は近場で出来るならその方が効率いいから。いちいち東京まで行ってたんじゃ、氷に乗る時間が足りなくなるんだよね」

 流斗はそれだけ言うとすぐに僕から離れ、練習に戻って行った。


 あいつが大した努力もせずに優勝を手に入れただなんて、いつの間にそう思い込んでいたのだろう。

 練習に戻った流斗は、大学生に混ざってスケーティングだとかスネークだとか基礎的なことをひたすら続けていた。

 きっと僕と出会う前までも、そうやって技術を積み上げて来たことだろう。そして今だって、あんな優勝で満足しているわけがない。


 あんな優勝。

 そう表現してしまいたくなるような演技をした流斗は、目の前で見ると十分すぎるほどうまかった。もうそれ以上練習する必要はないだろうと言いたくなるくらいに。それでも彼には、僕にはまだ見えていないもっと上が見えている。

 その近くで練習している果歩は、バッジテストのときにも感じたようにやっぱり色々物足りない。以前の僕には、単純に上手いとしか思えなかったのに。

 二人の差がどの程度なのか、昔の僕には分からなかった。もちろん自分との差も。

 流斗達のアイスダンスに落胆してしまったのは、それが下手だったからじゃない。彼らは僕にできないようなことまでなんなくこなしていた。世界のトップには及ばない演技だったとしても、彼らを賞賛する人はたくさんいるはずだ。だけど僕には納得できなかった。それは、そういったことが見えるところまで僕が登って来たからなんだ。

 僕には流斗の背中が見え始めてきていた。


「来年にはきっと追いついてやるから! 僕の心配なんてしてないで、自分の心配でもしてろ!」

 僕は流斗の後ろ姿に向かって、そう叫んでいた。


「お友達でしたか」

 吉田さんが言った。

「友達……なんですかね?」

「彼もアイスダンスを?」

 ……?

 不思議なことを尋ねられた。

 もしかしてこの人、気付いてないのだろうか?

「えーと、あいつ昨日DVDに映ってた全日本ジュニアで優勝した奴ですが」

 そう言うと、吉田さんは苦笑いして、

「ええ? そうなんですか? 最近見るようになったし、どこの子かなとは思ってたんですが。ええ~!? でも全然ダンスの練習なんかしてなかったですよ!? いや~、気がつかなかったな~。道理で上手いわけだ」

 と驚いた。

 そして僕に同意を求めるように聞いてきた。

「でも服とか全然違ってましたよね?」

「そりゃ違うでしょーね、衣装でしたし! ていうか普通、服って着替えますよね?」

 この人……。今日僕を認識できたのも、もしかして昨日と同じ練習着を着ていたからなのか……?

 変なところで頭が良いわりに、人の見分けもつかない人のようだった。


 バッジテストの六課題すべてを滑り終えた時、吉田さんの言葉が僕を驚かせた。

「やっぱり。あなた、テストに必要なパターンダンス、全部覚えてますね」

「え? ええ!?」

 思わぬことを言われた。

「多分ですね、曲さえかかれば滑ることは可能だと思いますよ。滑り出す前に、今日やったように頭の中でパターンを思い浮かべてもらえれば」

「そんなまさか。今まで全然覚えられてる気がしなかったのに!?」

「多分ですね、あなたはポイントとしての――つまり点としての記憶力はすごくあるんじゃないかと思うんです。昨日滑ってみても、一つ一つの動作に限っていえば、習った通りにやる力はものすごく高いなと思いました。だからDVDをかなりの回数見たことで、ステップも部分部分は頭に入っていたんだと思います。でも、DVDだと動作には目が行くけれども実際のリンクのどこでどう動くかは把握しにくいですからね、全体の流れをつかむことがとても難しかったんでしょう。

 そこを今日、手助けしたんです。つまり点としての記憶を線につなげたんです。これからはもっと、物事を大きな流れでも捉えるようにするといいですよ。

 それからあなたは、カタカナの言葉を覚えるのが異常に苦手ですね。だから、ターンだのシャッセだのの名前の連なりでステップを覚えようとしても、覚えられるわけがなかったんです。同じ理由でパターンダンスのタイトルを言われても、タイトルもカタカナですからね、頭に入ってなくてピンと来なかったんでしょう。でも、曲を聞けば動くことはできるようですよ。良かったですね」


「ほんと良かったね~、制覇。馬鹿じゃなくって」

 通りがかった果歩が、わざわざそう声をかけてきた。

「記憶の仕方は、人それぞれなんですよね」

「あ、脳科学ですか? そう考えると面白いですよね!」

 そんなに面白いことだろうか。僕には何を言われているのかほとんど分からなかったけど。

 まあいいや。

 この二人はほっとくとして。

 こうしてやっと僕のバッジテストの目途が立ったのだった。


 貸し切りが終わると、僕は学校へ向かうため急いで着替えを済ませて鞄に荷物を押し込んだ。更衣室を出た所で、流斗が待ち構えていた。

「ちゃお」

 と声をかけられる。意味が分からなかったので、

「ここは日本だぞ。英語なんか使うな」

 と言ってやった。流斗は困ったような笑いを浮かべて、

「うちの車、乗ってかない?」

 と聞いてきた。

「自転車で来てるから、お構いなく」

 そう断ると、

「あれ? 自転車通学の許可、持ってるの?」

 と言う。

 自転車通学って許可が必要だっただろうか。

「あとで先生に言うからいいんだよ」

 そう言って適当に切り抜けようと思ったら、

「事後報告? 意外と度胸あるんだね~」

 とにやにやされた。

 ……。怒られるかもな。どっか途中で置いて行こう。

「そう言えば、この辺り、放置自転車の取り締まり厳しいんだってね。引き取りに数千円かかるんだって?」

 僕は腕時計を見た。走れば間に合う。走るにしては、荷物がかなり多いけど。

 そう考えていた一瞬の隙に、僕は流斗に腕を取られた。

「まあいいじゃないの。遠慮しないで乗ってけば。自転車は帰りに取りに来てね~」

 そう言って腕を引かれ、駐車場まで連れて行かれた。


 流斗を待っていた車には流斗の母親が乗っていた。その人は流斗の母親とは思えないくらい物静かな人だった。物静かを通り越して、僕の挨拶にすら声を発しなかった。こちらの方に軽く顔を向けて、わずかに笑いかけたように見えただけだった。こんな人からあんな奴が育ったのかと思うと、とても不思議な感じがした。僕は奇妙な緊張の中、車に乗り込んだ。

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