ためらい(3)

 その日家に帰ると、僕は子供部屋に入りいつものように鞄から靴を取り出した。一足ずつエッジケースを外しては、床に並べる。エッジがびないようにするためには、しばらくそうやって乾かしておく必要があった。

 僕は靴を一つ持ち上げ、その銀色の刃ブレードを見つめた。ブレードを留めているビスが一ヶ所ゆるんでいるのに気がつき、それをドライバーで締めた。

 やっと持つことのできた自分の靴。シングルの物とは違うダンス専用靴。

 そのブレードに「Dance」という文字が刻まれているのを見ると、僕は無性に悲しくなった。やっぱりモミの木でシングルなんて言っている場合ではないのだろうなと漠然と思った。あのリンクからこんなに遠のくことになってしまうとは想定外だった。

 これが僕の進みたかった道なんだろうか。


「期待に応えるとは言ったものの……。ダンスの試合で結果出すってどんなだよ……」

 僕はアイスダンスの試合なんて、参加したこともなければ見たこともなかった。そんな僕が陽向さんに合わせて大きな大会で上位に入ることを目標にしようとしても、何も想像できず、現実味もまるでない。自分の立ち位置も見えなければ、目標までのステップもまったく見えて来なかった。

 南場さんが心配するのももっともだ。こんなことで、本当に来年求められるような形にまで到達できるのだろうか。


 その上、プレシルバーを取ると言ったからには、宿題のように課された六課題を覚えなくてはならなかった。

「まずはどうにかしてあれを思い出さないと……」

 すっかり忘れてしまいましたと先生に相談してもいいのだけれど、相当馬鹿にされそうで嫌だった。陽向さんは表だって人を馬鹿にするような人ではないけれど、あの発言を聞いてしまったからにはなめられるようなことはしたくなかった。


 何度か滑ったことはあるのだ。なんとか自力で思い出す方法はないだろうか。

 もらっているDVDを見るか――。

 しかし、たったそれだけのことがどうしても上手くいかなかった。

 練習を終えて自宅に帰り着くと、十時、十一時を回っていることがほとんどだった。そこから急いで何か食べて、風呂に入って……、その頃にはもう家族が寝支度に入っていた。みんなが寝静まった後はいいチャンスのような気もしたけれど、その時間からアパートの居間でテレビをつけるなどという目立ちそうなことをする勇気は僕にはなかった。

 しかしテレビをつけないことには、DVDを見ることができない。


 そのまま日にちばかりが過ぎた。リンクに行かない日も良いチャンスは来なかった。明るい時間は外で練習したいことがあったし、それが終わると家には大義がいた。大義と二人の空間でダンスの映像を流すというのにはどうしても抵抗があった。もっと遅くなると、両親も帰ってきて父なんかは大義と一緒にテレビを見始めたりもするし、ますますチャンスはつかめなかった。


 そうするうちに、DVDの他にもう一つ資料をもらっていたことを思い出した。

 机の引き出しの奥の方に、数枚の紙が束ねて折り畳まれていた。

 ダイアグラム――。

 これまで聞いたこともない言葉だった。

 これを見れば、何とかなるかも。

 僕はそう期待して紙を開いた。


 そこに書いてあったのは、リンクの形をした図形とその中にいくつもの半円のような図形。その横にはLFOだのRBIだのの文字が……。

「……ただの暗号じゃん!」



 陽向さんはいつも決まった女の子と一緒に、僕から少し離れたベンチに座った。最初に隣にいるのを見た陽向さんと同い年くらいの切れ長のきれいな女子高生。それがきょうちゃん先輩だった。

 二人はいつも笑いあいながら一緒に靴を履き替えていた。そんな普段の仕草においても、陽向さんに無駄な動きはまったくなくて、てきぱきとしていて美しかった。


 貸し切りが終わるとみんなさっさと靴を脱いであっという間にリンクを去って行く。だけどある日、一人の女の子が、雑誌を持って陽向さんの方に駆け寄った。

「陽向さん、サイン下さい」

「どうしたの? 突然」

 いつも一緒にレッスンを受けている仲間にそんなことを言われ、陽向さんは不思議そうにその女の子を見た。小学校低学年くらいの子だった。その子はページの開かれた雑誌を、笑顔で陽向さんに差し出した。

 きょうちゃん先輩が、陽向さんと一緒になって雑誌を覗き込んだ。


「わっ。ヒナ、かわいー。なになに。『ジュニア世代の期待の星がアイスダンスに転向』か」

「いつの間に撮ったのかしら」

 考えこむように記事を覗き込む陽向さんのまわりに、あっという間に小学生の生徒たちが集まり、口々にきゃあきゃあ言った。

 僕も陽向さんに近づき、みんなの後ろから雑誌を覗いた。


 そこにはサイズは小さかったけれど、遠くを見てにこやかに風を切っている陽向さんのアップが載っていた。とても良い写真だった。こんな写真付きで雑誌に記事が載るなんて、陽向さんのすごさを実感する。

 だけど載っているのはアイスダンスの写真だというのに、僕は写っていなかった。陽向さんの手が誰かとつながれていることが分かる程度の写真だった。アイスダンスをしていることを人に知られたくないはずなのに、僕は少しがっかりした。


 しかしふと記事に目を移し、そこに自分の名前が載っているのに気がついてぎょっとした。

「え? なにこれ? この本ってどういう本?」

 僕は慌ててまわりの人に雑誌のことを尋ねた。

 それはフィギュアスケートの情報だけを集めた月刊誌だった。それほど売れているような雑誌ではないはずだと、誰かが教えてくれた。実際、一緒にレッスンをしている仲間のうち、持っていたのはその子一人だけだった。そうはいっても、普通の本屋でも売っているというから心配だ。誰かの目に触れたりしなければいいのだけれど。


 そんな心配をしながらも僕は、自分の名前が雑誌に載ったことに浮かれてもいた。レッスンが休みの日になると僕は早速、陸トレのついでに遠くの本屋まで走って行き、その本を買った。

 そして両親には「自分の名前」が本に載ったということを自慢し、大義には「自分の相手」の美少女度を自慢した。

 だけど記事の内容については、何も伝えなかった。きょうちゃん先輩と同じで、見出しを読むだけにしておいた。


 そこに書かれていたのは、今後の陽向さんの活躍――つまり僕との活躍――を期待する内容ではなかった。

 かつて活躍を期待されていた陽向さんが、続く怪我を理由にシングルを断念したという非常に後ろ向きなものだった。買ったあと、ゆっくり読んで初めて僕はその内容を理解した。

 リンクでしっかり記事に目を通していた陽向さんは、サインした本をあの子に笑顔で返していたのに。そう言えばみんなが盛り上がっている中、先生だけが無断で記事を書かれたことを出版社に抗議すると言っていたのを思い出した。



 それからしばらく経ったある日。学校に着くと突然、僕の前の席に木野が座った。そして僕の方に振り向くと雑誌を広げて見せた。

「これ見たぞ」

 木野が持っていたのは、例の雑誌だった。


「(なんでお前が、こんなものを持っている!?)」

 僕は慌ててまわりを見渡しながらページを閉じ、声を抑えてそう聞いた。

「見ろ、この表紙を!」

 木野は僕の手を振り払うと表紙を表に向けて、僕に差し出した。そこには演技中の二十歳はたちくらいの女子選手が載っていた。

「もうちょっとこっちから撮ってる写真載ってないかな~、と期待して買ったのに、載ってなかったわ~」

「そういう目で見るの、やめてくれ。みんな真剣にやってるから」

 と、いうのは適当に作った理由だったけれど、とにかく僕はそう言ってその雑誌を奪った。そして没収と言って、自分のかばんに入れた。

「いやいや。返してくれ」

 すぐに鞄の奪い合いが始まった。

「あとで返すよ。帰りにお前んちのポストに入れといてやる」

「あほか。ポストなんかに入れてどーする!」


 鞄の奪い合いでかえって人目を引きそうになったので、僕は仕方なく雑誌を取り出した。

「学校で絶対出すなよ」

 表紙を裏にして机の下から木野の方に差し出す。しかしすぐには渡さなかった。僕はそれを強く握ったまま、

「中に書いてあったことは誰にも言うなよ」

 と言った。

「ああ、お前のこと? なんかすごくない? こんな所に名前が載るなんて」

「すごいだろ。それはいいから誰にも言うな」

 実際は僕じゃなくて、陽向さんがすごいだけだからな。

「相手の子、めっちゃかわいいし。なんで組むことになったわけ?」

 木野はなかなか上手いところを突いてくる。本来の僕なら自慢したいことだらけなんだけれど。

 僕は木野をにらみつけると雑誌を自分の方へ引き寄せた。

「どうやら返して欲しくないみたいだな」

 そうすごむと、木野は仕方なく「分かった、分かった」と黙った。


 風が日に日に冷たさを増し、木々は鮮やかに彩り始めた。

 流斗が転向してきて二ヶ月が経とうとしていた。彼は転入生とは思えないほど、すっかり学校に馴染んでいた。

 真面目とも軽いとも捕えられない雰囲気で、上手い具合に周囲の人間と日々やり過ごしていた。自分で頭が良いと言っていたわりに、果歩のように満点で名前を呼ばれることもなかった。意外なことに運動もずば抜けて出来るというわけでもなかった。何に対してもがむしゃらに努力するタイプではなく、要領良く気楽に過ごしているように思えた。影では相変わらず一部の女子に王子と呼ばれていたけれども、転入当初のように大勢の女子に囲まれてあからさまにキャーキャー騒がれることもなくなっていた。たまに悪ノリして謎な舞台度胸をみせるような少し変わったところはあったけれども、あとは特に目立ったところもなく、クラスの中では男どもと喋ったりふざけたり、前からいる奴らと同じ普通の存在になっていた。

 だけど僕は彼とはほとんど口をきけずにいた。陰でアイスダンスの練習をしているということに、僕は後ろめたさを感じていた。


 理由は違うだろうけれど、果歩も学校では彼を避けているものだと思いこんでいた。だから果歩が学校で彼と接触したことは、かなり意外だった。

 あの日――果歩が僕にバッジテストの話をしたあの日の朝、あいつは流斗にも同じ話をしたのではないかという気がしていた。どうしてもバッジテストの話がしたかった果歩は、学校の外で流斗を捕まえて、その流れで一緒に学校まで来てしまったのではないか。何となくそんな風に考えていた。

 ところが、そのあとも二人は何度か一緒に学校に来た。



 十月の終わり。週明けの朝のことだった。

 学校の門をくぐろうとした時、少し先に果歩と流斗の姿が見えた。ふとこちらを振り返った流斗と目があった。僕が目をそらすよりも先に、流斗はぱっと嬉しそうな顔をした。隣で果歩が冷ややかな目で僕をにらんだ。

 なんでそこで僕がにらまれなくちゃならないんだよ。

 まさか、木野から変なこと聞いたりなんか……


 僕が果歩と視線でやり合っている間に、流斗はまるで主人を見つけた犬のような勢いで僕のところまで駆けてきた。

「制覇! ちょっとこっち来て!」

「わー! 何だ何だ何だ!?」

「いいから。こっちこっち」

 そのままの勢いで僕は流斗に引っぱられ、自転車置き場の方へと連れて行かれた。

 正門とグランドをつなぐ通路に、トタンの屋根の渡された自転車置き場があった。そこはほとんど誰にも使われておらず、隅には落ち葉が風に吹き寄せられて溜まっていた。


「じゃーん」

 そこに着くなり流斗は楽しげに鞄から何かを取り出した。

「これ見たよ」

 彼が開いて見せたものには「アイスダンス 音川陽向 天宮制覇 組」と印字されていた。

 流斗にアイスダンスをしていることがばれた!


 彼の手にあるのは例の雑誌ではなかった。何かの冊子だ。

 僕は流斗の手からその冊子を奪った。

「何? これ?」

 僕はそこに目をやった。それは選手名簿らしかった。


 冊子を閉じて表紙を見る。そこにはただならぬ文字が並んでいた。

「西日本大会? ええっ! 西日本大会って?」

「近畿大会の上にあたる大会だよ」

 なんでそんなものに僕が載っているんだ……?


「近畿大会の上ってことは、近畿大会に出て勝ち進まないと出られないんだよね……?」

 戸惑う僕に、流斗の声が聞こえた。

「予選免除でしょ?」

「予選免除!? そんな仕組みがほんとにあるわけ?」

「ああ、よくあることみたいだよ。今年の近畿には君たち一組しかエントリーがなかったんだろうね。つまり不戦勝の一種ってこと」

 思っていた理由とは違ったけれど、どうやら僕たちは本当に免除されていたらしい。先生も陽向さんも、近畿大会を諦めたわけではなかったのだ。

 ということは、僕はいきなりそんな大きな大会に出なくてはならないということか……? 大丈夫なんだろうか……?


 開催日を確認しようと、もう一度手元の冊子へと目をやった。

「ん?」

 なんと大会は前日に終わっていた。

「昨日はどうして棄権したの? 出れば面白かったのに」

 流斗はにっこりしてパンフレットを奪い返した。


 棄権!? 僕、棄権しちゃったわけ?

 それってまさか僕が大会に行かなかったから、棄権になったとか……じゃないよね……?


 おろおろしながらも、僕は平静を装って

「僕は昨日試合があるなんて話、聞いてない」

 と言った。


 動揺する必要はない。聞いていないということは、先生は僕を大会に出すつもりじゃなかったということだ。

 と、思いたいけれど、エントリーされていたというのはどういうことなんだ? もしかして大会があることを僕が聞き逃したとか……じゃないよね……?

 もしそうだったら……

 わー! 考えたくないよー!


「なんだ。先生の方で勝手に判断したのか。つまらないな。でも、それにしたって大したもんだね。この前までアイスダンスのことすら知らなかったのに、もう選手権クラスでエントリーするなんて」

「あ……いや」

 相手がこいつじゃすごいだろとは言えない。だけどすごいのは僕じゃなくて陽向さんなんだということも言えない。経緯を話すことになんかなったりしたら色々とまずい。

 僕は後ろめたさで口をつぐんだ。


 流斗は僕とは裏腹にとても嬉しそうに見えた。

「でも、びっくりはしないけどね。君の場合、少し手を入れれば、かなり良くなるんじゃないかと思ってたよ。俺、見る目あるでしょ?」

「……えーと」

 よく言うよ、最初に僕と滑った時さんざん馬鹿にしたくせに! と思いながら、まさかものすごく上手くなっているなんて勘違いしてないだろうなとひやひやする。

 だから、こんなすごい大会に名前が載っちゃってるのは、陽向さんのお蔭であって……


「来年は出なよ。俺も頑張るから」

「え?」


 俺も頑張る――

 その言葉に僕は心拍数が上がるのを感じた。


「一年後、同じ舞台で勝負しようよ。それが言いたくて」


 !


 その瞬間、後ろめたさだの何だのの感情が、一瞬で消え去った。


 流斗は言った。

「ダンスは競技人口が少ないからね、つまらないと思ってたんだ。だけどこれからは……面白くなりそうだね」


 僕が一人増えたくらいで、競技人口の問題が解消するもんか。

 流斗が言っているのは、そんなことじゃない。もっと個人レベルの問題だ。二ヶ月前、屋上で話をした時、挑戦されている気がした。あれはやっぱり気のせいじゃなかったんだ。


 僕の鼓動が激しさを増した。

 同じ舞台――来年までにはプレシルバーを取り近畿大会に出るという意味か。今、どこまで級を持っているのか知らないけれど、流斗なら余裕で取ってくるだろう。


 僕はもう、すごいのは陽向さんであって自分ではないなんてことを言うつもりはなかった。それを口にすることは事実を正しく説明することではあるけれど、言い訳でもあった。


 言い訳なんかしたって何の役にも立たない。

 流斗が近畿大会に出てくるのなら、彼との勝負は避けられない。

 だったらその勝負、真剣に受けて立とう。


 そう思うと同時に僕の中には、絶対に流斗を負かしてやるという強い思いが湧いていた。

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