エピローグ
一階では幹太さんを始め、祖母の生まれ故郷の村の人々が集まって祖母の三回忌の宴会を始めていた。二階の窓から吹き込む風は確実に春の匂いを運んできていた。手をかけている窓の木枠も暖かさを感じる。まさかあの日から三回目の春を迎えられるとは思っても見なかったのでこうしたことも新鮮に感じる。
あの出来事のあと、東京に戻った私は入退院を繰り返した。幸い会社側の配慮で仕事も続けることができた。そして今年の春からは通院治療となり、仕事も完全復帰したものの完治したわけではない。しかし仕事に完全復帰した日に警備室の源さんを訪ねると「効いたんだよね、俺のお守り! やっぱり効いたんだよね! だからあと三個買い足しておいたからさ!」と喜んでお守りを渡され時、仕事に戻れて本当に良かったと思った。私の心の中では、あの時から死との距離はほとんど変化していない。というより常に死と同居せざるを得なくなった。ちょっとした体の変調に敏感になり、長期になりそうな仕事のプロジェクトは可能な限り期間を短縮する手段を考えるようになった。
私たち夫婦の関係は小さな行き違いがいくつも重なって大きなすれ違いを作っていた。それは一気に修復できるようなものでは無かった。また、徐々に修復しようにも何から手を付けて良いのかまったくわからない状態であった。病気はそれらを一気に修復する機会を与えてくれた。それは喜ぶべきものなのか、悲しむべきものなのかは今の時点でもわからない。結局のところ、あの数日間の出来事が私の病気に影響を与えたとは思えない。だが今私がこうしていられるのが祖母のおかげであるとすれば感謝している。
ショーイチさんに預けたストラトスは、ようやく先月にレストアが終わって蘇った。私が頼みもしないのに車内には競技用ロール ケージが張り巡らされ、安全性も向上していた。そして私が車を村まで取りに行くと告げるとショーイチさんは運転がヘタクソなヤツに運転させらないと言い張り、業者が実家の駐車場まで車を運んでくることになった。車検を通して公道も自由に走れるようになったストラトスは、外見は同じであるものの中身は二年前とは別の車のように仕上がっていた。サスペンションはラリー用の部品に交換され、高回転型に改造されたエンジンは私の希望通りに街乗りもできるように調整してあった。この三回忌が終わったら東京まで自走して戻る予定だ。
「良一、行くぞ」
一階からショーイチさんの声が聞こえたので、降りて行くと玄関でワイシャツ姿のショーイチさんが靴を履いているところだった。
「一応自分で使うレース用のシューズは用意してきた」
真っ赤で派手なレーシング シューズは、スーツにまったく似合っていなかった。
「え? 今日は走るつもりだったのですか? お酒は?」
「今日はバスで来ているから飲めるが、酒はお前とドライブした後にとってある。お前が車を当てた場所まで行って、俺が手本を見せてやる」
「あ、わかりました。お供します」
車のこととなると頑固なショーイチさんなので諦めて一緒に行くことにした。駐車場でストラトスの助手席側のドアを開けると、競技用のグローブをはめたショーイチさんが運転席で待っていた。
「あの時と一緒だな。良一」
「ええ、車も同じです。ヘッドホンは無いですが」
「お前は大人になったからフルハーネスのシートベルトも丁度良くなった」
「山道までの行き方は教えますので、市街地は穏やかにお願いします」
「わかった」
ショーイチさんは素直に答えるとニヤリと私を見た。車に乗り込んでシートに座り、四点式のシートベルトをきつく締めると同時にショーイチさんはゆっくりと駐車場から車道に出て山道に向けて走り出した。
「ショーイチさんは今も車いじりをしているのですか?」
「時々な。幹太さんには『ポンコツ車いじりのショーイチ』って呼ばれている」
「運転のほうは大丈夫ですか?」
「いつでも全開だ」
「そういう意味じゃなくて年で反応とか遅れませんか?」
「良一、この俺が遅れるわけがない。そんなことより病気はどうだ?」
「完治というわけでは無いですが、日常生活には支障はありません」
「そうか……それで村には来るのか?」
「ええ、近いうちに。幹太さんとの約束を果たさないと」
「また山登りか。俺も一緒に行く」
「ありがとうございます」
「それと、新しい車を手に入れたから運転させてやる」
「なんですか、今度は?」
「一九八〇年代のMR2のプロトタイプのラリー車だ」
「トヨタのMR2ですか?」
「ああ、恐らく当時のセリカのエンジンとトランスミッションを前後逆に配置した車でミッドシップの四輪駆動だ」
「そんな車は聞いたことがありませんが」
「当たり前だ。レースに出場する前にお蔵入りになって、博物館入り寸前で俺が無理やり譲ってもらった」
「わかりました。楽しみにしています」
市街地を抜けて私がストラトスで事故を起こした山道入ると、ショーイチさんはアクセルを床まで踏み込んだ。
「ここからコースです。この時間、対向車はほとんど通りませんが……」
そう言いかけてショーイチさんには無駄なアドバイスであることに気が付いた。
「良一、喋るときは舌を噛まないように注意しろ!」
揺れる車内では背後からのエンジン音やその他の機械音が入り混じって怒鳴らないと聞こえない。
「この道は初めてですよね?」
「そうだ。お前ナビゲーションはできるか?」
「カーブとギアの指示は出します!」
ストラトスは砂埃を巻き上げながらさらに細い山道に入った。
「右ヘアピン、一速!」
ショーイチさんは私の指示に従って急減速するとヘアピン コーナーに入り、サイドブレーキを引いてドリフトをしながらコーナーを曲がった。その後もショーイチさんは眠そうな顔をしながらコーナーを次々と駆け抜けた。七十歳を超えたショーイチさんの運転は学生時代の私の運転より確実に速くそして正確であり、狭い道であっても道幅を限界ギリギリまで使用していた。
「次の左カーブを三速ハーフ スロットルで抜けたあとが下りの直線で、その次がスピンしたコーナーです」
ストラトスは左カーブを曲がると直線で全開加速に入った。この直線は舗装が荒れていて、速度を落とさないと車がジャンプして収拾がつかなくなる。
「二速! ブレーキ! ブレーキ!」
ショーイチさんは私の叫びを無視して加速を続けた。コーナーが凄い速度で迫ってくる。
「ダメです! オーバースピード! オーバースピード!」
ストラトスは左右に飛び跳ねながらコーナーへ直進し、私は反射的に手足を突っ張ってコースアウトに備えた。するとショーイチさんは絶対に間に合わないと思われるタイミングでブレーキを踏むと右に車体を振ってスライドさせ、次にアクセルを戻した反動で今度は左に車体を振ってコーナーに進入した。
信じられない速度から減速して進入したコーナーの出口には二年前と同じように湧き水が溜まっており、私は息をつく暇も無く叫んだ。
「水!」
あの時と同じくストラトスは水に乗ってスピンを始めたが、ショーイチさんは車を立て直さずにそのままスピンさせた。
「良一! こうやるんだ!」
車は綺麗に一回転すると再び進行方向に戻って走り出した。しかし私はそれどころではなく、ドアのハンドルにしがみついているのが精一杯であった。
「わかったか?」
ショーイチさんは車速を落とすと私の顔を見た。
「わかるわけが無いです。速すぎです」
「ははは、そうか。それじゃあスピンの最中にシフトダウンしたのもわからなかったか?」
「え! いつの間に?」
「三速のオーバースピードで入ってシフトダウンする時間も無くスピンを始めたから、スピン中に二速にシフトダウンをした」
「まったく気が付きませんでした」
「ダメだ。やっぱりお前はヘタクソだ」
ショーイチさんは笑いながら視線を前に戻した。
「あ、ちょっと水温と油温が上がったから、これからはゆっくり走るぞ」
少し気分が悪くなりかけていた私はホッとした。
「多分お前はブレーキを踏むのが早すぎるから遅いんだ」
「ギリギリまで待っているつもりですが」
「違う。お前の言うギリギリは心理的な限界であって車の物理的限界じゃない」
「……」
「八十キロで入るコーナーは、正確に八十キロで入るんだ。七十九キロでも八十一キロでもダメだ」
「そんなことは毎回無理です」
「それができないからお前は遅い。例えば素人がF1のレースカーで全開の直線からヘアピン コーナーに入ったらどうなると思う?」
「本気でアクセルを踏んだら止まれずに死ぬんじゃないですか?」
「逆だ。その素人が直線でアクセルを床まで踏めたとしても、コーナーのはるか手前で車が停止する」
「そんなにブレーキが効くのですか?」
「ブレーキは効くのが当然だが、全開で走って『ここでブレーキを踏まないと確実に死ぬ』と思った地点から一秒以上待ってからブレーキを踏まないとダメだ。そしてコーナーの限界速度に確実に合わせて曲がるんだ……人生も同じだぞ、良一」
「人生?」
「ああ、何事もお前が思っているよりはるか遠くに限界は存在する。お前が決めた限界は手前過ぎて話しにならん……」
その後ショーイチさんは家に戻るまで道のりで色々な話をしてくれた。私が昔見かけた若者がジムカーナの全日本チャンピオンになった話や、飼い犬のラウダが三代目になった話をうれしそうに語っていた。なかでも二十年前に日本に偶然滞在していたアイルトン・セナとカートで競争してボロ負けした話では、サスペンションの五ミリの調整でセナはタイムが速くなったのに、ショーイチさんは五ミリの違いがわかっても速く走れなかったと笑っていたのが印象的だった。
実家に戻って玄関に入ろうとすると胸のポケットに入れた携帯電話が振動してメールの着信を伝えた。
ーーSub:お食事の件について
駅のホームで出会った少女からのメールだ。出会った時から毎年この頃を記念日と呼んで今回で三回目になる。そして彼女は今年から大学生になったので、そのお祝いも兼ねている。自殺をしようとした原因は未だに聞いていないし聞くつもりもないが、とにかく彼女は完全に心の傷も癒えて普通の生活を送れるようになった。何度か私が入院中に御見舞に来ようとしたが、彼女の気分が暗くなることを懸念して断った。しかしそれは私の考え過ぎだった。闘病中の私の知らないところで彼女は妻と連絡を取り合い、いつの間にか二人は意気投合して買い物などに出かけていた。それは妻にしても看病疲れのストレス解消になっていたと思う。
メールを読んで携帯電話をポケットに戻すと家に上がり、村の人々が集まっている広間に入った。
「良一、こっちだ」
私の近くに座っていた幹太さんが酒を飲んだ赤ら顔で横に座るように促した。
「酒は飲めるのか?」
「申し訳ありません。医者に止められています」
「病気の具合は?」
「おかげさまで会社に完全復帰できるまでに戻りました」
「オオババのおかげか?」
「わかりません。でも死ぬ前には私の病気は完治できないと言っていました」
「そうか……辰子さんの具合は?」
幹太さんは村人にお酒を注いでいる私の母親に目を向けた。私は病気の詳細を自分の口からは母親には話していない。それとなく他人から聞いたほうが母親のショックが少ないような気がしたからだ。
「母親の体調は相変わらずですが、最近はセレモニーホール朝日の文恵さんが週に一度くらいは寄ってくれています」
「まあな。オオババがいなくなって寂しいだろうし、文恵も楽しんでここに来ていると聞いた」
「文恵さんには感謝しています。それと今度村に行こうと考えているのですが、あの山に連れて行っていただけますか?」
「ああ、いいよ。約束だからな」
「ちなみに祠はどうなりました?」
「あのあと祠は動かした。もう封印する必要が無くなったし」
「では誰でも祠から後ろの道に行けますか?」
「そんな物好きな村人はいないが、村長が村おこしとか言い出して何でも観光スポットにするつもりらしい。それと村長はオオババの実家を歴史資料館に改造した」
「ついでにその資料館も見てみます。でも道の先の崖の下には昔の人々の……」
「そうなんだ……あまり人に見せられるような場所じゃ無い。そう言えばお前は覚えているか? お前が初めて村に来た日のことだが」
「ええ。夜はこんな感じの宴会でした」
「じゃあ、あの晩に祠の所で見たことを誰かに話したか?」
「いいえ。幹太さんに言われた通りに今まで誰にも話していません」
「実はあの時の祠のことでお前に言わなかったことがある」
幹太さんは死ぬ前の祖母のような目で私を見つめた。
「何でしょう?」
「あの夜の行列を見た部外者には災いが降りかかるという言い伝えがあった」
「呪いとかの話ですか?」
「いや、ただの言い伝えだ。それに俺の知る限りお前しか見た者はいない。あの時、子供のお前にこれを話したら怖がるから言わなかった。今まで言えずにすまなかった」
幹太さんは私の正面に向き直って頭を下げた。
「いいえ、幹太さん頭を上げてください。私の病気はそれとは無関係です」
「そうか、そう言ってもらえると有り難い。お前の病気の話を聞いてからずーっと気になっていたのでな」
幹太さんは照れくさそうに頭を上げるとビールを自分のコップに注いだ。
「まあ、でもオオババのおかげで俺たち兄弟は仲直りができた」
「それは私も同じで、祖母のおかげで妻との関係がうまくいくようになりました」
「なんだかんだ言ってもオオババはすごかったな……」
「それに比べて私はポンコツですよ。治療にはお金がかかりますし……でもそれは祖母の遺産で何とかなりそうです。さらに食事にも気をつかって定期的に検査や運動もして……結局自分ではできない部分が多くて妻に頼りっぱなしです」
「本当にストラトスとお前はポンコツで世話が焼けるな」
「いや、私はともかくストラトスはショーイチさんが完璧に直しましたよ」
「じゃあお前だけだな、ポンコツは」
幹太さんは豪快に笑った。そして私の頭を子供のようになでながら、コップのビールを一気に飲み干した。
世話が焼けるストラトスと私 荒木一秀 @Araki_K
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます