再び乗れないストラトス

 高速道路に乗って北に向かい、四十分ほど走って一般道に下りた。ここからは片側一車線の県道だ。昔と違って道も整備されており、通行量が極端に少ないこの時間帯なら三十分ほどで村まで到着するはずだ。

 右折すると駅に向かうと表示してある交差点を直進したあと、何となく見覚えのある山肌がヘッドライトに照らし出された。これ以降、村までは一本道のはずなので地図が無くても迷うことはない。

 十分ほど走って川にかかる橋を渡った頃、徐々に霧が出てきた。走行に影響するほどでは無かったが、速度は落とさざるを得なかった。そしてショーイチさんが昔私を駅に送る時に使ったと思われる脇道への分岐点を過ぎた頃、さらに霧が深くなって前方の視界が一メートルほどになった。さすがにここまで霧が深いと運転に支障があるので上り坂の待避所に車を止めると、霧が薄くなるまでしばらく待つことにした。

 車から降りて途中のコンビニで買ったペットボトルの水を飲んだ。暗闇と霧であたりは何も見えなかった。二十分ほど待ってみたが、霧が動く気配も薄くなる気配も無かったので仕方なくトランクから懐中電灯を出して車の前に回った。

 リトラクタブル ヘッドライトの間に取り付けられたラリー用の四連ライトにはハードカバーが取り付けられていた。かつてストラトスがラリーで走っていた頃は夜間ステージがあり、その時にはカバーを外して六個のヘッドライトで強烈に道路を照らしていたのだ。私はハードカバーを取り外すとドアを開けて助手席にそれを放り込んだ。そして再び運転席に乗り込むとエンジンをかけて小林さんがシフト レバーの前に特別に取り付けてくれたスイッチをオンにした。

――予想以上に強烈だ

 車の前が真昼のように明るくなった。照らし出された霧はまるで映画のスクリーンのようだった。ライトのビームを良く見ると白色に黄色が混じっていた。先ほどハードカバーを取り外す時に四連ライトを見たら外側の二個が黄色だった。使用することが無いと言ったにもかかわらず、小林さんがこだわって外側をフォグ ランプにしたのであろう。

 私は再び車に乗り込むと村を目指して走り出した。四連ライトのおかげで視界は改善されたものの、速度を上げることは難しかった。しかし霧が晴れるまで待っていたら最悪の場合、夜が明けてしまって午前中に家に戻れなくなることが確実だった。

――四連ライトを点灯させる時は念のため連続して三十分を超えないでください

 さらに小林さんにそう言われていた。ストラトスに積んであるバッテリーは通常のもので、四連ライトの点灯を前提としていなかった。長時間四連ライトを点灯させ続けると、エンジンで駆動されている発電器の発電が追いつかなくなってバッテリーが上がる可能性があった。何とか三十分以内に村に到着できるとは思ったが、急ぐに越したことはなかった。

 二十分ほど走ると徐々に霧が晴れてきたので四連ライトのスイッチを切った。そしてさらに五分走ると霧は完全に晴れた。


 昔の記憶が確かであれば右側のガードレールの向こうには川が流れているはずだ。左側は切り立った崖が続き、それが途切れた場所が村の入り口だ。見通しの悪い左カーブを曲がると、突然ライトに鹿が浮かび上がった。鹿は右側のガードレール近くの道路上に棒立ちしていた。鹿はその位置から動く気配は無かったが念のためカーブのイン側に寄った。

 右側にいた鹿に気を取られて前方に視線を戻すのが一瞬遅れた。視線を戻すとイン側に高さ三十センチほどの平たい落石があって避けきれずに左前タイヤでそれに乗り上げた。次の瞬間、車体が右に激しく傾いたので反射的に両手を上げて天井を支えるように突っ張って転倒に備えた。それからあとの出来事はお決まりのスローモーションだった。

 我に返ると車は横を向いて道の真ん中に止まっていた。どうやら横転して元に戻ったようだ。それが証拠に目の前のフロントガラスの一部が歪んでひび割れている。天井に手を突っ張って体重を支えたおかげで体は何とも無いようだ。ドアを開けてみたら普通に開いたので、車から降りて懐中電灯で車体を点検した。

――何だってこんな場所に落石が

 振り返って落石を照らして罵った。鹿は驚いて逃げたのか姿を消していた。車を一周して確認したところ、車体の屋根の一部が凹んでフロントガラスが割れていた。その他には目に見える致命的な損傷は無かった。

 運転席に戻ってエンジンをかけてみたら拍子抜けするくらいあっさり始動した。車を通行の邪魔にならない位置まで動かして停車させ、道路に散らばったリアウィングの破片などを拾ってトランクに入れた。そしてエンジンをかけたまま腕時計で三分計ったあと、車の下部を照らして点検を始めた。水漏れおよびオイル漏れなどは確認できなかった。ダッシュボードに取り付けられた計器類も正常値を示していた。


 村の入り口に到着すると村に下りる道へ右折した。道の両側は畑で家々が点在している。五百メートルほど走って村の中心部に入ると道が街灯で照らし出された。村の様子は三十年前より大分変わっていた。小学校は綺麗に建て替えられ、家々も新しくなって一見街中と変わらない。街中と違うのはコンビニが無いくらいだ。

 一台も車とすれ違うこと無く村の資料館らしき建物を過ぎると、街灯が途切れてまた畑の中の道に戻った。そのまま進むと右前方に祖母の生まれた家が見えてきた。暗いので正確にはわからないが、家は昔のままのようだった。そこを通り過ぎると左側にショーイチさんの家があった。まだ夜も明けきらない早朝なのでショーイチさんの家の中は真っ暗だ。ショーイチさんの家を見た時点で記憶がはっきりと蘇った。すぐ近くの裏山に祠に通じる鳥居があるはずだ。

 速度を落として周囲を見渡すと道路から少し入った場所に、納屋がある小さな空き地を見つけた。そこに車を入れると納屋の後ろに車を止めた。この場所であれば道路から車は見えにくい。できれば昨日よりさらに壊れた車をショーイチさんに見せたくなかった。

 祠を見たあとに幹太さんとショーイチさんに挨拶をしてすぐに一人でここまで戻ってくれば車を見られることは無いだろう。幸い車は東京まで自走できそうな状態であり、仮に途中で走行不能になったとしても小林さんに連絡すれば取りに来てもらえるので安心だ。


 ペットボトルの水を上着のポケットに入れて懐中電灯を持ち、畑のあぜ道を歩いて祠に向かった。四月とはいえ山間部の明け方なので気温は市街地より低い。車に入っていた作業用の軍手を両手にはめると鳥居をくぐって細い山道を登り始めた。

 山道は子供の頃歩いた時と同じ傾斜のはずであったが、病気を抱えた上に運動不足の私には息切れする場所がいくつかあった。それでも何とか二十分ほどで祠の前に到達すると、肩で息をしながらペットボトルの水を飲んで一息ついた。

 夜明け近くの薄明かりで見えた祠は古ぼけてはいるものの、子供の時に見た祠そのものであった。祠がある窪地の周囲は当時のままで土が崩れることなく押し固められているようだった。そして今私が立っている場所にあの晩のショーイチさんが立っていた。夢の中の私も同じようにこの場所に立っていた。

 しばらく祠を見ていたらその光景が夢の中の光景と重なり、ふと後ろを振り返ってみたが誰も私のあとをついて来た人はいなかった。祠の前に行くとしゃがみ込んだ。身代わりの祠なのでお供え物はできない。

――バアさん、色々ありがとう

 そう胸の中で言って立ち上がって祠をあとにした。山道に戻る時にもう一度振り返って祠を見た。森の中に朝日が差し込んできたので祠の後方まで良く見えた。

――あれは何だ?

 子供の時は背が低くて見えなかったが、今見ると祠の後ろの森は木々が抜け落ちたように無かった。祠に近づいて横から後ろを見ると、雑草で覆われた幅一メートルほどの溝があった。

 祠の横の土手を上がってその溝に下りた。足元の感触が土と違っていたので雑草や枯れ木をかき分けてみると、石畳が現れた。いくつか石畳を見てみると大きさも配置も均等では無く、中には墓石も混じっていて、石畳は森の奥に続いているようだった。


 道を見てしまった以上はこのまま戻るわけにもいかず、雑草をかき分けて森の奥に歩いていくことにした。石畳は所々枯れ草や土で覆われてはいたが、周囲の景色から道であることは確認できた。しばらく登り道を上がると体温が上がってきたので軍手を外して上着を開け、息が上がらないように歩幅を小さくして歩いた。

 この道が一体何のためにいつ作られたのかはまったくわからなかった。ただ確かなのは、幹太さんやショーイチさんそして祖母がこの道を知らないというのは有り得なかった。何らかの理由で私に話していなかったのだ。

 石畳は途切れること無く続き、五分ほど歩くと森が途切れて山の尾根に出た。朝日に照らし出された尾根は遠くに見える山まで続いているようだった。腕時計を見ると午前六時を過ぎたところだ。

 三十分歩いてこの道が終わらなかったから引き返す積もりだ。そしてこの道のことを幹太さんかショーイチさんに尋ねようと思った。立ち止まってペットボトルの水を一口飲むと尾根の道へ踏み出した。


 幹太はいつものように六時に起きると洗顔をして家を出た。高台にある幹太の家からは村全体を見下ろすことができる。庭を吹く風の空気の匂いからすると、気候は一気に春に変わったようだった。幹太は軽トラックに乗り込むと倉田トメの生家に向かった。生家に到着して車から降りると家の玄関に向かった。玄関前には一人の小柄な老人が立っていた。

「幹太、昨日は一緒に行けなくてすまなかったな。葬式はどうだった?」

「オオババは大往生でした。村長」

「それは良かった。これでもう誰もこの家に戻ってくることは無いな」

 村長は家を見上げた。

「はい。私もいつまでこの家を維持できるかわからないので、時期を見計らって私の方で処分しようかと思っています」

「そのことなのだが、この家は村で引き取ろうと思う」

「しかし……」

「オオババの家はこの村の歴史でもあるし、一昨年建てた資料館の別館にして当時の暮らしを再現してはどうかと思っている」

「それなら寄付させていただきます」

「じゃあまたあとでその話をしよう」

 村長は立ち去った。

――オオババ、家は残るってさ

 幹太は山を見上げてそうつぶやくと家の中に入って掃除を始めた。


 ショーイチは六時半に起床するとトレーニング ウェアに着替えて外に出た。玄関横の犬小屋ではグレイハウンドの『ラウダ』が尻尾を振ってショーイチにじゃれついてきた。ショーイチはラウダの首輪に手綱を付けると早朝のランニングに出かけた。

 ラウダは二代目だ。初代ラウダはその精悍な体つきを気に入って子犬から飼ってみたものの、まさか成犬になったら一日に数キロの散歩が必要とは思わなかった。元来真面目なショーイチは毎日の散歩を欠かすことなく続け、一年経つ頃にはラウダと一緒に毎日五キロは走れるようになっていた。

 いつものように県道を走っていると道路にいくつかの落石を見つけた。ショーイチは注意して道に出ると落石を拾って反対側の川の方に投げた。細かいガラス片も落ちていたので同じように拾うと道端に寄せた。

――どう考えても良一の運転が上手いとは思えん……

 そうつぶやくとラウダと一緒にまた走り出した。


 私の腕時計は六時四十分を指していた。どうやら終点はまだまだ先のようだった。諦めて立ち止まるとペットボトルに残った最後の水を飲み干し、元来た道を戻り始めた。

 汗をかいてきたので歩きながら上着を脱ごうとした。すると上着の袖が時計に引っかかり、それを無理矢理外そうと体を右に傾けた時に運悪く浮き石を踏んだ。浮き石は尾根道から転がり出し、続いて私も倒れて尾根の斜面を滑り落ちた。中途半端に脱いだ上着が背中で邪魔をして両手をうまく使えなかった。

 滑り落ちる途中で体の位置が変わって横になった。そして目の前に木の根が迫ってきたが、両手が使えないので何もできなかった。衝突に備えて反射的に歯を食いしばった。


 幹太は倉田トメの家の掃除を終えると自宅に戻った。妻が用意してくれた朝食を食べ終えると箪笥の引き出しを開けて一枚の写真を取り出した。その写真を居間のテーブルに置くと老眼鏡をかけて赤いペンを持った。

「お父さん何をしているの?」

 妻がお茶を運んできた。

「昨日、良一に頼まれた」

「良一君に?」

「何でも村の親戚の顔と名前が知りたいらしい」

「村から百人も行けばそうなるわね。そう言えば昨日、勘吉さんは告別式に出たの?」

「いや、来なかった。でもそれはもういい」

 勘吉は写真の人物に名前を書きながら答えた。

「まさかあなた、とうとう勘吉さんと縁を……」

「いや、逆だ。勘吉は許してやる」

「また急にどうして?」

「オオババにそうしろと言われた。あそこの礼服の上着ポケットにオオババからの手紙が入っているから見てみろ」

 幹太は手に持った赤いペンでハンガーにかかっている礼服を指した。


 目を開けると木の根元に当たっている左肩が痛んだ。起き上がろうとしたら首にも痛みを感じた。そのまま起き上がると首に引っかかっていた何かが外れた感触があった。上半身だけ起き上がった状態で上着を脱ぐと、右手で痛む左側の首を触った。濡れた感じだったので右手を見ると手のひらに鮮血が付いていた。

 首からの血を見て背中に冷や汗が流れるのがわかった。しかし、良く考えてみれば頸動脈が切れていれば生きているはずが無い。首が位置していた木の根元を見ると鋭い先端の枝がこちらに向いていた。

――これが根元まで刺さっていたら死んでいたな

 そう思って足元の上着からハンカチを取り出して傷口に当てて止血をした。しばらく強く傷口を押さえていたら出血は止まったようだった。首元を見ると首から提げていた源さんからもらったお守りがシャツの上に飛び出していた。お守りを手に取ってみると真ん中に貫通した穴が開いていた。

 私はお守りを見ながら源さんに感謝した。これは幸運以外の何者でも無いと思うと同時に、今までの出来事が単なる不運とは言えないことも感じていた。歩きながら服を脱げば足元がおろそかになるのはわかっていたし、鹿の件にしても用心して徐行すれば落石に乗り上げることは無かった。どちらも頭ではわかっていたが、どうしても体の方が勝手に動いてしまっていた。

 尾根に戻ろうと斜面で立ち上がろうとしたところ、左足首に強い痛みが走って立ち上がれなかった。どうやら尾根まで這い上がれそうにも無い。見上げた感じだと尾根まで三十メートルはあるようだった。ひょっとしてと思い、上着から携帯電話を出して確認してみると圏外だった。仕方がないので諦めてその場にとどまることにした。無闇に動いたところで村まで戻るのは不可能な状況だった。

 しばらくして村の人々が起き出せば誰かが置いてある私のストラトスを見つけ、そして知らせを受けたショーイチさんが探しに来てくれるはずだ。そう楽観的に考えて斜面に横になった。


 ショーイチはラウダとのランニングを終え、食事をしてしばらく休憩したあとに作業服に着替えて庭に出た。納屋を改造した作業場には三台の車が置いてある。派手なレース用のカラーリングがしてあるそのうちの一台に近づくとドアを開けて運転席に座り、キーを差し込んでひねった。ショーイチは納車前のテスト走行をこの時間にいつも行っている。

 始動したエンジンは野太い音でアイドリングを始めた。ショーイチは一旦車から降りると、懐中電灯で車の下部を照らして液漏れが無いことを確認した。再び車に乗り込むとレース用の四点式シートベルトを体にきつく締めて庭から村道に出た。

 村道を通り抜けて山道に入るとショーイチはアクセル ペダルを床まで踏みつけた。現代のハイテク装置を満載したこのスポーツ四輪駆動車は、ストラトスやジェミニと比較にならない加速を開始し、ショーイチの体はシートに押しつけられた。車内にはギアやその他の部品から発せられる機械音がうるさく鳴り響きだした。

 車は登り道に入ってもまるで下り道を走るように加速を続ける。目の前にヘアピン カーブが迫ってくるとショーイチはアクセル ペダルから足を離してブレーキ ペダルを思い切り踏み込んだ。後方で『パン!』と音がしてマフラーが一瞬炎を吹き出した。サイド ブレーキを引いて後輪をロックさせ、ヘアピン カーブを鋭く回ると再び加速を始めた。

 しばらくして緩やかなカーブを時速八十キロで曲がると幅が広い直線に出た。そこでショーイチは全開加速に入った。速度計の針は瞬く間に上昇して百五十キロを超えた。そして二百キロに到達する少し手前でカーブが迫ってきた。

 ショーイチはブレーキを少し踏んでギアを一つ落とすと、百キロを超える速度でカーブに進入した。外から見れば明らかにオーバースピードだ。四輪すべてのタイヤが滑り出して車はスピンを始めようとする。ショーイチは涼しい顔をして進行方向に前輪を向けたままアクセル ペダルを踏み込んだ。すると、車に搭載されている姿勢安定装置が駆動機構に介入して車は四輪ドリフトをしながら綺麗にカーブを曲がっていった。


 腕時計は時計は午前十時を指していたが、頭上の尾根の方からは人の気配がまったく感じられなかった。もしかしたら今日はショーイチさんが村にいないのかも知れないと思い始めた。そうなると村人は幹太さんに知らせるのだろうか?

 そもそもストラトスを人目につかない場所に停めたのが失敗だった。もし車の発見が遅れて私の救出が明日以降になると夜の気温低下で体力が持たない可能性がある。家を出る時に書き置きを残せば良かったと後悔した。

 そう考えると焦りが出てきて、膝を使って尾根を這い上がり始めた。しかし膝では草が生えている斜面を捉えることができない。すぐに滑り落ちて元の場所に戻ってしまった。今度は痛む左足首を無視して上り始めたが、斜面の半分を登ったところで痛みに耐えきれなくなった。そして斜面に座り込んで休憩したとたん、空腹と喉の渇きと強烈な疲労感に襲われてその場に横になった。目を閉じると気が遠くなってきた。


――良一……

 頭上から声が聞こえた。

――良一……

 子供の頃、祠の前に落ちたあの時と同じだった。

――良一……

 目を開けて横になったまま首だけ動かして尾根を見ると、ショーイチさんがこちらを見下ろしていた。

「良一! 大丈夫か?」

 大丈夫と叫ぼうと思ったが、喉が渇き過ぎてうまく声が出なかった。

「大丈夫なら手を振れ」

 私は右手を挙げて力無く振った。

「そこを動くな。今からそっちに降りるから」

 しばらくするとショーイチさんがロープを使って私の横に降りてきた。

「良一、生きているようだな」

「み、水はありますか?」

 かすれた声でそう答えるのが精一杯だった。ショーイチさんは首から提げている水筒の蓋を開けて私に渡してくれた。

「全部飲んでもいいからゆっくり飲め」

 私は言われた通りにゆっくりと半分ほど飲んでショーイチさんに水筒を返した。

「ありがとうございます」

 ショーイチさんは背中のリュックサックを降ろした。

「これで二回目だな。お前をこの山で助けるのは」

「ご迷惑をおかけします」

 ショーイチさんは私の首の傷を見るとリュックサックの中から救急箱を出した。

「首の傷は深くは無いようだな。他には?」

「左足首を捻挫していると思います」

 水を飲んだおかげで意識もはっきりして喋れるようになった。腕時計を見ると午後二時を回ったところだった。ショーイチさんは私の首を消毒して絆創膏を貼ったあと、左足の靴と靴下を脱がせるとテーピングを始めた。

「それにしてもお前は買えば一千万円を超えるようなスーパーカーを、良く平気であそこまで壊すな」

「やっと見つけてもらえましたか……」

「見つけるも何もあの空き地は俺の空き地だ。だいたいお前が俺の空き地にストラトスを置いたからここに来るのが遅れたんだ。村の連中はあのストラトスを見ても俺の客の車だと思って、誰も俺に知らせてくれなかった」

 私は自分の馬鹿さ加減が嫌になってきた。ショーイチさんはテーピングする手を休めずに話を続けた。

「九時頃に幹太さんが、お前が夜中に出かけたまま行方不明になってるらしいと俺の家に知らせに来た。俺はまさかお前がストラトスで村に来ているとは思わないから探す気も無かった」

「到着したのは夜明け前でどの家も寝静まっていました」

「そして十時過ぎに幹太さんがお前のストラトスを見つけて俺の家にすっ飛んできたってわけだ。どうだ、足首はきつくないか?」

「大丈夫です」

 足首を軽く動かしてみたが、それほど痛みは感じなかった。

「よし、じゃあとりあえず尾根まで上がろう」

「え? この足ではちょっと……」

「大丈夫だ。俺がお前を背負って登る。腕は大丈夫だよな?」

「はい」

「じゃあ俺のリュックサックをお前が背負って、俺の背中に乗れ」

 ショーイチさんは救急箱と私の靴をリュックサックに仕舞って私に渡した。私は言われた通りに背中に乗ると、ショーイチさんはロープを両手で掴んで力強く登り始めた。

 尾根まで上がると丁度幹太さんが村の方面から歩いて来たところだった。

「お前は車をぶつけたり転がしたり、自分は道から滑り落ちたりと忙しい男だな。最初はここが思いつかなくて村中探し回ったぞ」

 幹太さんは笑いながらショーイチさんの背中から降りた私の肩を叩いた。

「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「一応お前のストラトスを見つけた時点でオオババの家には連絡しておいた」

「ありがとうございます」

「まあ、お前が無事で良かった。それにしてもショーイチ、お前は相変わらず山道を歩くのが異常に速いな」

「毎日ラウダと足腰を鍛えていますから」

「ショーイチさん、ラウダって……」

「ショーイチが飼っているグレイハウンドとか言う犬だ。足は車と同じくらいに速いが、犬のくせに鼻が利かなくて人捜しには向かない。だからここに連れて来なかった。何だ良一、足を捻挫したのか?」

「はい」

「まさか良一が足に怪我をしているとは思わなかったから担架は持ってこなかったぞ。ショーイチ」

「作りましょう。しばらく待っていてください」

 ショーイチさんは緩やかな斜面を選んで尾根から降りていった。


 幹太さんと二人きりになったところで私は話を切り出した。

「幹太さん、実は昨日話していなかったことがあります」

「何だ?」

「私の体のことなのですが……」

 私は自分の病気のことや祖母が死んだ晩の出来事などを幹太さんに話した。幹太さんは私が話している間中、道が続いている森の奥を遠い目で見ていた。

「昨日お前とリンゴの話をして何となくお前が病気になったような気がした」

 私の話が終わると幹太さんはそう言って私の顔を見た。

「俺もお前に話していなかったことがある」

「この道のことですね」

「ああ」

「この道の先には何があるのですか?」

「何も無い」

「幹太さん、私はもうこの場所に戻ってこられないかも知れません。隠さずに本当のことを教えてください」

「いや、隠してなどいない。本当にこの先には何も無いんだ」

「じゃあこの道は……」

 幹太さんは上着のポケットから水筒を出して一口飲み、水筒を持った右手を伸ばして道の奥を指した。

「この道はあの山を越えたところの崖で途切れている」

「崖ですか?」

「そうだ。この道は今から百年以上前に作られた。そしてあの山が『姥捨て山』と呼ばれた場所だった」

 幹太さんは右腕を降ろした。

「昔はこの村も貧しくてな、村で病人が出るとそれを口実に年寄りが口減らしのために姥捨て山に行かされたらしい。病人を治すお祈りをする名目でな。そして崖から身投げして命を断った。そしてこの道、この石畳な……」

 幹太さんは足元の石を軽く蹴った。

「これは途中で年寄りが足を踏み外して落ちないように作った。お前みたいに生きて落ちると死ぬまでの間苦しむことになるからな」

「幹太さんは崖まで行ったのですか?」

「行った。本当に切り立った崖で落ちたらまず助からない」

「幹太さん、これからその場所に連れて行ってもらえますか?」

「良一、急ぐな。病気を治してもう一度ここに戻ってこい。その時に俺がこの道の最後まで案内してやる」

「しかしそれまで体が持つかどうか……」

「オオババがお前の病気を何とかするって言ったんだろう?」

「しかしそれは一時的なものだと言っていましたし、何とかできるとも思えませんし、戻ってこられない可能性の方が高いです」

「いや、ここに戻ってきたかったら先にお前が病気を治せ。オオババはお前の葬式を見たくないと言って死んだのだろう? 俺だってお前の葬式に出る気は無い。とにかくお前の意志で病気を治せ、それが先だ」

 そう言われてしまうとそれ以上幹太さんに逆らうことはできなかった。

「話を戻すと明治の初め頃に姥捨ての習慣は完全に中止されてこの山道も入れないように祠を置いて封印した。そして村で重病人が出ると皆で祠にお祈りをするようになった。最近は重病人が出ないのでお祈りはまったくやらない。多分お前が見たのが最後だ」

「このことを村の人たちは?」

「もちろん知っている。だが表だって言うようなことでも無い」

「祖母も当然……」

 尾根に上がってきたショーイチさんが視界に入った。

「ああ、知っていた。子供の頃に一回くらいはお祈りに行ったかも知れない。ショーイチが戻ってきた。ここで待っていろ」

 幹太さんはショーイチさんの方へ歩いていった。


 幹太さんとショーイチさんはロープを使って何かを引き上げていた。私は座り込んだまま姥捨て山と呼ばれた山を見ていた。あの晩の夢の続きがあるとすれば、祖母はこの道を親子三人で歩いていったに違いない。この道のことが夢に出てこなかったのは、私が知らなかったからだ。

 道の向こうでは二人が今度は上着を脱ぎだしていた。そしてしばらくしてまた上着を着ると担架らしきものを持って戻ってきた。

「良一、待たせたな」

 先頭を歩いてきたショーイチさんは担架らしきものを足元に置いた。それは二本の太い木の枝にTシャツを二枚通し、ロープで前後を固定した即席の担架だった。

「乗り心地は悪いが我慢しろ。ほれ、この上に横になれ」

 私は言われた通りに地面に置いた担架の上に横になった。ショーイチさんはロープを使って担架の調整をしながら話し出した。

「お前の話は幹太さんからさっき聞いた。良一、ストラトスは置いていけ。俺が直しておくから」

「いいえ、まだ東京くらいまでなら何とか走れます」

「いいか良一、ストラトスはお前の体と一緒で全部直さないとダメだ。見た目はまだ走れるが、どこにダメージがあるかは開けてみないとわからない。それにお前の左足は捻挫していてクラッチが踏めんだろう。俺ならクラッチを使わなくてもギアは変えられるがな」

「しかしあれだけ壊れていると……」

 幹太さんが私の肩を叩いた

「大丈夫だ。ショーイチが完璧に直す。修理代金は村で持つように俺がここに来る前に村長に頼んでおいた。村の連中はオオババに世話になったからな」

「俺が新車と同じくらいのレベルまで直す。交換が必要と思った部品は壊れていなくてもすべて交換するし、部品が無ければ作ってでも交換する。だから安心しろ」

「わかりましたショーイチさん、でも街乗りもできるようにお願いします」

「安心しろ。街中も山道も全開で走れるようにしてやるから」

「いいえ、そう言う意味では無くて街乗りができれば十分ですから」

「お前、せっかくストラトスを持っているのに全開しないのはもったいないぞ。まあお前が何をどう希望しようがすでにストラトスは俺の手元にあるし、金を出すのは村だからな……ははは。幹太さん準備はいいですか?」

「おう」

 私が乗った即席担架は二人の屈強な老人によってあっさりと地面から離れた。

「良一、俺の経験上もし次にお前が事故を起こしたら車は廃車になるしお前もただでは済まない。何故だかわかるか?」

「いいえ」

「お前は最初の事故から何も学んでいないからだ。だからまた同じような事故を起こした。もっと物事に対して注意深くなれ」

「それは何となく感じていました」

 私を乗せた担架は祠の方に向かって動き出した。

「わかればそれでいい。ちなみにどうでもいいがランサー エボリューションは素晴らしいぞ。今朝乗ってみたけど段違いにいい。電子装置が介入しまくって、運転が下手なお前でも二百キロでドリフトができるぞ」

「平気な顔をして二百キロでドリフトする人はラリー ドライバーかショーイチさんくらいですよ」

「さすがの俺もラリー ドライバーには敵わないがな」

 ショーイチさんは得意げに笑い出した。

 私は横になったまま上着のポケットから携帯電話を出した。尾根に上がったことで通話可能になっていた。メールを確認してみたら見知らぬメールアドレスからメールが入っていた。

『Sub:リョウちゃん、俺だ』

――本文:孫の携帯を借りて代理で書いてもらっています。奥さんからリョウちゃんの居場所に心当たりが無いかと連絡がありました。元気だと思うけど、これを見たら連絡をください。源。

 私は首の絆創膏に手を当てると携帯を再び上着のポケットに戻し、少しの間目を閉じた。


「良一、お迎えだ!」

 頭の後ろで幹太さんが叫んだので我に返り、体を起こして幹太さんの体の横から前方を見た。祠の前の広場に集まっている村人の中から妻が走り出てこちらに向かってくるのが見えた。

「あーあ、村の連中が祠を動かしちまったよ。百年くらい動かしてなかったのに。まあいいや、俺たちが動かす手間が省けたな」

 ショーイチさんが笑い出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る