花を喰らう君と夢を喰らう僕


 塔の中に、君がいた。

 あの日、久しぶりに塔を訪れた。気まぐれに掃除をしているから毎日いるわけじゃない。離れることもある。

 塔は相変わらず無口で無愛想で、変わった様子なんて何ひとつなかった。住み着いている虫たちに声をかけながら、ひたすら続く螺旋階段を上る。

 ここで朗報をひとつ。巣作りが下手くそな蜘蛛が、ようやく獲物を捕らえていたよ。初めての獲物だから、どう食べるべきか困っていたみたいだけどね。不器用な蜘蛛に挨拶をして、最上階の扉の前に立った。しばらく来ない間に、どれくらい汚れたのだろう。まずは窓を開けて、床磨きをしようとのんきに考えていた。立て付けの悪い扉を開けようとしたとき、扉の隙間から花の香りがした。

 女の子がいた。

 部屋の中央に、女の子が座っていた。

 蒼色をたっぷり吸い込んだような海の瞳に、春に咲く黄色の花を連想させる髪の色。くるりと癖のある巻き毛は、彼女の細い肩にかかっていた。白い肌は透けているように見えて、触れると壊れてしまいそうなくらいほっそりとしている子だ。服は質の良いものだ。下流層の子ではないことはすぐにわかった。

 殺風景な部屋に赤い絨毯が敷かれ、小さな棚や机や椅子、ベッドが置かれていた。家具があるだけで部屋の様子はずいぶんと変わる。

 来る場所を間違えたのではないかと錯覚してしまうくらいに。

 彼女の手には花があった。花びらはなく、黄色の花粉を纏った雄しべが顔をだしている。絨毯に数枚、白の花びらが散らばっていた。

 彼女の小さな唇に花びらがくわえられ、僕と目が合った途端、はらりと落ちた。

 彼女は目を大きく開けて僕を見ていた。僕は驚いて固まってしまった。悲鳴を上げられたら大変だ。ひとまず、彼女が怪しまないよう笑いかけてみた。

「こんにちは」

 人の習慣に従って挨拶をしたのに、どういうわけだか彼女の顔は青くなった。勢いよく立ち上がったかと思えば、机の上に置かれていた紙袋を頭からすっぽり被る。小走りに部屋の隅に駆け寄り、背中を丸めてうずくまった。肩は小刻みに震えている。

 どうしようか迷った末、部屋に入ることにした。これ以上、驚かせないよう静かに閉めようとしたのに、扉が耳障りな音を立てる。びくりと彼女の肩を跳ねさせてしまった。

「驚かせてごめんよ。君を怖がらせるつもりはなかったんだ」

 一歩近づく。柔らかな赤色の絨毯が足音を消してくれたのは幸いだった。

「君は、この塔に住んでいる人なのかな」

 彼女の反応はない。背中を向けて黙ったままだ。彼女に触れるか触れられないかのぎりぎりの距離で立ち止まる。腰を落として片膝をつけ、紙袋の頭に話を続けた。

「僕はこの塔をたびたび掃除していたんだ。誰か来ないかなって」

 そこでようやく振り返った。僕と同じ目線の高さに海色の瞳が戸惑う。

 おそるおそると言った様子で、紙袋の中からくぐもった声が聞こえた。

「あなたは、見たのでしょうか……」

「何を?」

「わたしが、花を食べているところを」

 問いかけの言葉は、はっきりとしていた。紙袋に開いた二つの穴から、蒼い目が見つめている。爛々と輝く眼は星の灯を見ているようだ。

「うん、見たよ」

 僕は正直に答えた。

 扉を開けたとき彼女は花びらをくわえていたが、どうやら食事中だったらしい。

いつの間に、人は花を食べる生き物になったのだろう。僕が知る限り、花を主食にしないはずだ。

「そう、でしたか」

 紙袋の頭が俯いた。

「それでは、わたしの顔も見たのですね」

「そうだね」

 こちらも即答した。彼女の頭がさらに俯く。

「ねぇ、君はどうして花を食べるの? 人は花を食べる生き物だっけ」

「違います。それは、わたしが花喰いだからです」

 花喰いとは、初めて聞く言葉だ。

「君は魔物なの?」

「いいえ、わたしは人間です。ですが、普通の人間ではありません。花を喰らう娘なのです。とてもおかしな人間です。わたしと関わってはいけません。関わると、不幸になります」

 真っ直ぐ僕を映す眼は、一点の迷いもなかった。自分と誰かが関わると不幸になると信じ切っている眼だ。

 なぜ、彼女がそういう眼をするのかわからなかった。

人を不幸にしていいのは、僕だけなのに。

「もしかして、君は夢を見ないのか?」

「そういえば、花を食べるようになってから見ていません……」

「それじゃあ、君は不幸じゃないよ。誰かを不幸にもできないよ」

 僕は笑った。


「君を不幸にしていいのは、僕だけなんだよ」


 花を食べる前まで夢を見ていたのなら、彼女はただの人間だ。花を食べることをやめたら、きっとまた夢を見られるようになるはずだろう。

 塔の中に、君を見つけた。

 ようやく「物語の登場人物」に出会えた。君が花喰いを終える物語を紡ぐことができたら、僕はこころというものを見つけることができるかも知れない。

 僕は立ち上がり、右腕を腹に回して頭を垂れた。

「自己紹介をしようか。初めまして花喰い娘。僕は夢を喰う魔物だ。君の願いを叶えてあげる代わりに、君の夢をもらおう」

 花喰い娘は首を振った。

「あなたは、魔物には見えません。だって、人の姿をしているのではありませんか」

 海が広がる碧眼の眼に、深く沈んだ紅玉の眼が微笑んだ。

「ねぇ、花喰い娘。怖い存在は、いつだって人の姿をしているものだろう?」

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