幕間  『女神の慈愛』

【ハロルド】


 第二レギオン軍エルヴェ腹心、千人隊長ハロルドは瓦礫に埋もれた状態で重い瞼を開いた。


 眼前に夕暮れがかった空と大きな雲が広がる。

 首を動かしてみると、ここが壊された防壁の上だとわかる。体を動かそうとしたが、もはや使い物にならない状態に壊れている。


 そうか、俺の運命はここまでか。ハロルドはその思いを簡単に受け入れる。それほどまでに、あの赤い翼の生えた男の強さは圧倒的だった。


 上官のエルヴェより瀕死の赤い男との戦いを預かった時、ハロルドは気乗りしていなかった。

 翼も折れ、体中に矢が刺さり血反吐を吐いている。対してこちらは千の兵力。勝敗は明らかであり、これ以上の攻撃は蹂躙でしかない。ハロルドはそう考えた。



 だが現実は違った。

 赤い男は重傷の身でありながら兵達を野菜のように潰し、ハロルドの大盾を半分に引きちぎり、防壁まで投げ飛ばされた。

 壁にぶつかる直前、咄嗟に残った盾で衝撃を緩和しようとしたが焼け石に水でしかなかったようだ。



 自業自得だな。とハロルドは全てを受け入れた。

 エルヴェ隊に配属されてからというもの、ハロルドは神に向き合えないようなことをいくつもしてきた。


 断ることも出来たかもしれない。だが、ハロルドは自らの出世の為にその全てから目を背けてきた。表では残酷な行為に身を染めながら、裏では本国の妻の為、娘の為と言い聞かせてきた。その報いがこれだ。


 一兵として常に死の覚悟はしてきたつもりだった。だが、いざその身に降りかかってみると、様々な後悔が襲ってくる。


 今回の魔族の街への進軍はハロルド自身気が進まなかった。なぜもっと強く反対出来なかったんだろう。


 過去、エルヴェの残虐な行為を見る度に、何度も何度も退役を考えた。何故決断できなかったんだろう。


 何故、妻に愛してると言えなかったんだろう。


 何故もっと娘を抱きしめておかなかったんだろう。


 死ぬ前に胸のロケットに入れた家族の顔を見たかったが、指先一本動かすことが出来なかった。


 目からは涙が溢れてくる。ただ、ただ神に対して憤りを募らせていた。

 生きたい。などという虫の良い事を願っているわけじゃない。家族の顔を見て、すまない、と伝えたかった。


 この汚れた身にはそれすらも許されないのか。ハロルドは心の中で吐き捨て、滲んだ空から目を反らした。






 女が立っていた。


 いつの間にか、高い防壁の上、瓦礫まみれで倒れているハロルドの横に女が立っていた。


 防壁を通る風に女の長い髪が揺れる。


 美しい。女の存在を目に入れた瞬間にハロルドはそう思う。

 それは決してよこしまな思いからではなかった。

 その存在自体に畏怖の念を覚え、原罪を背負った人間とは別次元の崇高な美を秘めていた。


「あなたはもう助からない。何かしてもらいたいことある?」

 女に問われる。ハロルドはかろうじて動く首を下に動かした。


「……これ?」

 女は少し考え、首にかかっていたロケットを引き出し、目の前に差し出す。

 ハロルドが頷き、ロケットが開かれた。

 ハロルドは愛する家族の微笑みに謝罪して、その後神に感謝して、笑顔のまま天へと旅立った。


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