10「過去1」

 ガシッ

「クソ、野郎」

「随分と上手い日本語ですね」

 ミハエルが、ビルとビルの隙間にある路地で、一人の男の首を左手で締め付けていた。男は、サラリーマンらしいスーツで、鞄まで持っている。

 ミハエルはいつものように、黒いスーツを着ているが、帯剣はしていない。

「知らねえ、よ」

 男が毒づく。

「貴方が知っているとは思っていませんよ」

 首にかける握力を強め、男をそのまま壁へと叩きつける。力のせいか、多少のコンクリートが砂となって下に落ちる。

「知っていそうなのを、知らないのか、って聞いてるのよ? 理解できる?」

 里見がミハエルの後ろに立って、男に向かってゆっくりと話し掛ける。まるで外国語を聞き取らせているようだ。

 男はミハエルの腕を解こうと両手を挙げようとするが、そのたびにミハエルは壁にめり込ませようとする。力の差は歴然であった。

「知ってて、言う、馬鹿がいるか……」

「今ならまだ、簡単に死ねますよ?」

 男に対して感情の欠片もない脅しの言葉をかける。

 里見が一歩、男の側に向かう。

「それとも、死ぬよりも辛い目が希望?」

 男が里見を睨む。まだ戦意は失わずにいる。

「どうやら本当に知らないようですね。無駄足を踏みました」

 その瞬間、男が安堵の溜息をする。

 すると、ミハエルが緩めた腕で、男を思い切り壁に叩きつける。

「もしかして、このまま逃げた方が怖い目に遭うのかしら?」

 男の眼球が、僅かに振幅する。

 その言葉は、男にとって、重要な意味を持っているらしかった。それをミハエルも里見も見逃さなかった。

「なるほど、情報は持っているようです」

「だ、まれ」

「黙るのは、貴方です」

 ガシガシ、と男の頭をコンクリートにぶつける。後頭部からは血が滴っているが、ミハエルにも男にも関係はなさそうだ。

「どうせ死ぬなら、人の役に立ってからの方が良いでしょう」

「誰が」

「ミハエル、右手をもらいなさい」

「了解」

 無感情な里見の声にミハエルが反応する。男が避けようとする間もなく、ミハエルが手の平を男の右肩に押し当てる。掴むでもなく、軽く手刀のように振りかざした。男が苦痛に顔を歪めたのは、音もなく自分の腕が切り裂かれ、落ちた右腕を見たのを確認した後だった。

 腕はひくひくと別な生き物に生まれ変わったかのように動いていたが、次第に動きが緩慢になって、そして煙を上げながら灰になり始めた。男の肩からも、血は流れる様子はなかった。もはや人間の肉体とは違うということを確認するまでもない。

「次は左? 足? それとも頭にする?」

「くっ」

「そう、じゃあ、選択方式にしてあげるわ。貴方を飼っているのは誰? 政府? 組織? 独断? それとも別な何か?」

「わ、我々は」

「ミハエル」

 ミハエルが首を絞めていた左手で男の頭を壁に叩きつけた。

「質問にだけ答えてください」

 淡々とミハエルが、一度、二度、三度とリズミカルに男の頭を壁に打ち付ける。そのたびに男の口から血が零れ出る。

「……組織だ」

 観念した男が答えた。

「ありがとう。次に貴方たちの目的は何? 勧誘? 確保? 破壊?」

「どれでもだ」

「なるほど」

「ありがと。それだけわかればそれでいいわ」

「な、だから、この手を」

「ミハエル、許してあげなさい」

 里見の短い指示に、ミハエルが背中で答える。

 男の首を絞めていた左手を緩め、指を立てた右手を男の胸に捻りこませる。

「あ、え」

「せめてもの、安らかな眠りを」

「ぐわ」

 男の身体が炎に包まれて、消えていく。男の姿は、壁に残った焦げた跡だけになった。

「さて」

 ミハエルが手についた灰を服で拭う。

「どうしますか? 里見さん」

「私たちも行きましょう。どうやら私たちの動きが筒抜けらしいわね」

「内通者がいるということですか?」

 ミハエルたちの所属する使節は秘密主義で閉鎖的な組織ではあるが、一方で規模も大きい。作戦の一部が漏れ出ることもあり得ないことではない。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。今はあまり関係ない」

「そうですね」

「どちらにしても、これがすべてではないでしょう」

 里見が灰に目を向ける。

「行くわよミハエル、第六が敵に奪われるようなら」

「敵もろとも切り捨てよ、ですね」

「そういうこと。私たちも彼らと目的は変わらない」

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