8「夜 紙雁家2」

「どうぞこちらへお掛け下さい」

 執事がソファーを手で指す。リビングとは違う、簡素な応接間だった。奥に机と椅子が一組、手前に向かい合うように小さめのソファーが一つある。

 ミハエルがソファーに腰を下ろす。リビングより堅く安定感のある灰色のソファーだった。

「早速ですが」

 執事が向かいのソファーに座り名刺を取り出す。深く刻まれたしわの割には動作が機敏で若々しく思える。

「執事の藤堂でございます。ご依頼の件ですが、旦那様が長く病気を患っておりまして、しばらくはお受けすることが出来ません」

「大丈夫です」

 ミハエルが名刺を受け取り、胸ポケットにしまう。

「と、申しますと」

 藤堂が訝しげに両手を組み顎を乗せる。

「私は貴方のご主人を殺しに来ただけですから」

「仰っている意味がわかりかねます」

「そのままの意味にとってもらって構いません」

 全く表情を変えずミハエルが懐から紙の束を出す。藤堂は目を細めてそれを受け取ると、しばらくの間眺めていた。

「それはこの町で起きたと思われる失踪事件の資料です。私達『使節』はその犯人をこの家のものと判断しました」

 細目のまま藤堂がミハエルを見つめる。

「子供の傾倒者は珍しいものではありませんが、私達を見て冷静にしていられるのですから可能性は低いでしょう」

 獣になった彼らは、ミハエル達の持つ特有の攻撃性を気配で見抜く。言い方を変えれば、天敵を見分けるのは生き物としては当然の能力なのであるから。ミハエルは何度か桜に対して殺気に近いものを発して見たが、全くといって良いほど無反応だった。

 気配を操る術は、シュヴァンデンの十八番なのである。

「そのような集団があるとは聞いておりましたが、貴方がたが……」

 それをミハエルが無言で返す。

「……ですが、旦那様がそうであると断定することはできません」

「失礼ですが、貴方はどれくらいこの家に」

「今年で四十年ほど、先代の頃より仕えております」

「でしたら、この家の血筋とその危険性については熟知していますね」

「少なくとも貴方様よりは。私もこの血を引く者ですから」

 テーブルに置かれた紙に手をかざす。すると、その紙が音もなくめくれた。

「私にはこの程度の力しかございませんが」

「なるほど、精神物理干渉能力(テレキネシス)ですか」

 テレキネシスは特殊能力の中でも代表的なものである。細かく分ければ、押す、引く、曲げる、などの結果から、干渉範囲まで様々である。

「そうであれば、その力を使い続ければどうなるかもわかっていますね」

「無論です、我々の歴史はこの血との戦いでもあったわけですから」

 異種の血が濃い者はしばしばその血に囚われる。それは蓋然性と必然性を兼ね備えた結果である。能力を使いこなす、ということは血を手懐ける、という意味でもあるのだ。

「我々はそのための防護策を用意しております」

「防護策?」

「貴方がたが我々を殺す方法を知っているように、我々も我々を殺す方法を心得ている、ということです。我々の敵は、我々でもあったわけなのです」

 血を使い続ければその血に支配される。

これこそが彼らの最大の欠点である。その血に目覚めてしまえば、後は緩やかに傾倒していくだけ。

 だから使節は組織のやり方に同意出来ない。必ず訪れるその時を知りながら任務を行う。百体の異種を処分し、一体の獣を創り出す。その考えは使節には到底許容できない。

 効率性の問題ではない、もっと単純な話をすれば、使節は人間以外の異種と混血が大嫌いだ、ということである。穢れた力は借りない、それが使節のルール。

「往々にして血が災いすることはございます。しかし、その者を処分するものもまた存在してきたのです」

「ですが今は」

「その通りです、本来は当主の役割でしたが今では他に家筋はおりません。お嬢様は旦那様の意向で血については知りませんし、仮に旦那様が発端だとしても私では旦那様には太刀打ち出来ないでしょう」

「だとしたら」

 藤堂が口元を締めながら頭を振る。

「防護策は一つではございません。仕事をするようになった者には体内にある種の金属が埋め込まれています。最も支配が遅い……」

「脳、ですか」

 支配されるとは実際にその血の異種になるということではない。その血に潜んでいる本能が顕著になってしまうということである。

 例えば、光を嫌ったり、凶暴化したり、その血特有の症状が現れる。

「その意識がヒトではないものに覆われた場合、その金属が作用して全身が崩壊致します。恐らくは貴方がたの使用する種類と同系統であると思いますが」

 意識が支配されても異種になるわけではない、化け物のようなヒトができあがるだけだ。異種とは能力の差が出る、だが通常の人間では対処出来ない、本能のみに従う獣。

 使節にとってもそれは敵対すべき存在である。

 なぜなら純血の異種は知性があるが、傾倒した混血はただの獣である。闇に潜み長期的に被害を及ぼす異種には綿密な計画を持って排除する。だが、獣は短期間で多大な被害を及ぼしかねないため早急な対処が必要になってしまう。

 天災などと嘆くうちに、都市が丸ごとなくなってしまうことも過去何度もあった。

「それが作用していないから大丈夫だと」

「旦那様は療養中ですが、そういった兆候は見られておりませんので」

 藤堂が深くまぶたを閉じ、ゆっくりと目を開き真直ぐにミハエルを見据える。

 ミハエルには藤堂が嘘を言っているようには見えなかった。

 ミハエルが腕を組む。彼の言葉を完全に信用することは勿論ない。全てがでたらめで、彼も桜も父親も、共犯かもしれない。混血が傾倒したかどうかは、それほどに外見ではわかりにくいものなのだ。だが、可能性の点でいえば、彼のいうことにも一理ある。

自分の推理が外れていたのか、任務に頭を割き過ぎていて何かを見落としていたのだろうかと考える。

「ご主人はどんな病気に?」

「わかりません、日中も外に出歩くことがないほどに憔悴されております」

「医者に見せたことは」

「旦那様が大丈夫だと言っている以上、私の方からは何も言うことが出来ません」

 憔悴、という言葉の意味を正確に理解することはミハエルにはできなかったが、ただならぬことなのは感じられる。それなのに医者に見せない。

「それでは、ご主人が身体を壊されたのはいつですか?」

 藤堂が細い目を上に向け、記憶を模索している。

「そうですね、三年程になりますか」

 その時、二人が入ってきた扉とは反対側の扉が開いた。

「藤堂、あれほど人を入れるなと」

 黒いガウンを纏った男が入ってくる。短く刈り込まれた髪、頬はこけている。その姿を確認し、藤堂が席を立つ。

「申し訳ございません、お嬢様がどうしてもと」

 どうやらこの人物が主人のようだ。

「桜か、全くしょうがないな。我が侭に育てられて。客人には早々に引き払ってもらえ」

 男がミハエルを一瞥する。ミハエルが客人らしく頭を下げてみせる。男はいかにも迷惑そうな表情だった。

 確かに男は平静を保っている。獣になっているとは到底思えない。

「そういうわけですのでミハエル様、大変申し訳ございません」

 藤堂がゆっくりと扉の方へと誘導する。

 渋々ミハエルがその後に続き、唯達がいる部屋に戻る。唯と桜は楽しそうに話しをしていた。

 最後に主人が入る。中にいた二人が同時に顔をあげた。

「桜、駄目じゃないか他の人を家に入れたりしたら」

「ごめんなさい」

 桜はその場から離れず、素直に謝った。唯は居心地が悪そうに肩をすくめる。

「さあ帰ってもらおう」

 冷めた口調で主人が言い放つ。藤堂も桜も他には言う事がない。客人としては反論する理由がないので、諦めてミハエルと唯が立ち上がろうとした時、主人が桜の方に目を向けた。

「桜、そんなものは早くしまいなさい」

 視線で桜を咎める。月の光に桜のクロスが反射をしていた。慌てて桜が自身の胸にしまう。

その瞬間、男の口元が一瞬緩んだような気が唯にはした。そして、その動作をミハエルも見逃さなかった。

 全員が立ち上がり、ホールへ足を向けようとする。

「私は寝室へ戻るぞ」

「いいえ、その必要はありません」

 男が藤堂へ向けて発した言葉を、ミハエルが返す。虚を突かれた男がミハエルを睨む。

「なんだと?」

「随分と練習をしたようですが、まだ今ひとつだったようですね」

 ミハエルが屈み、足元に置いてある白い包みを握る。一端をつかみ、それを身体を起こすと同時に、そのまま男へと振り上げる。

 男が右腕で一撃を受け止め、静寂が訪れた。

「無礼なことをしてくれるじゃないか」

「失礼しました、これが仕事なもので」

 不敵な笑みを浮かべる男に、ミハエルが全く同じ表情で返す。ミハエルが力を込めるが状況は変わらない。唯は胸元に右手を入れ、いつでも戦闘態勢を取れるようにしている。

「ミハエル様!」

 藤堂が遅れて叫ぶ。

「何て者達を連れてきたんだ、桜」

 笑顔の父親に桜は状況が掴めず困惑したまま立ち尽くしている。

「いつからそんな姿をしているんです? そういうことが得意な種がいるとは知っていましたが、まさか気配まで人のように変えるとは、上出来ですね」

「何の話だかわからんな、藤堂、この無礼な客を何とかしろ」

 頷くより早く、藤堂が二人の場所へ行こうとする。

「動かないで!」

 唯が懐から出した拳銃を瞬時に左手でスライドさせ男に向けて構える。

「おやおや、こちらのお嬢さんまで物騒なものを、一体私が何をしたというのだ」

 何も返さず、唯が引き金を引く。乾いた発砲音が響き、弾丸は正確に男の心臓を貫通した。弾丸の勢いで男が後ろに仰け反るが、膝を落とすことなく体勢を戻し、口元を斜めに歪ませる。

「そんな玩具では傷もつかんよ」

 その光景を見て、藤堂が二つの意味で驚く。一つは躊躇いもなく発射した唯に、もう一つは弾を心臓に撃ち込まれても平然としている自らの主人に。

 唯が連射し、硝煙が銃口から立ち昇る。全弾命中したはずだが、しかし男は表情を崩さない。

「ああ痛い、痛くて気が狂いそうだ。客人、この代償は高くつくぞ!」

 愉快そうに笑いながら男が叫ぶ。

 その声と同時に窓が割れ、外から複数のヒト型が勢い良く飛びこんでくる。窓を見たミハエルが腕の力を緩めてしまい、その隙に男がミハエルの鳩尾を蹴りつける。数メートル差が開き、男がホールへの扉を蹴り破り逃げる。その扉からもグールが入り込み、四人は囲まれてしまった。

「どういうことです?」

 部屋の中央に四人が固まり、藤堂が聞く。

「あれは偽者です」

「何と」

 ミハエルが強引に包みから剣を取り出し、鞘から引き抜く。窓側、桜に一番近いグールを斜め横に切り裂いた。銀髪があやしく色めく。

「ご主人は三年前どんな仕事を?」

 唯がマガジンを入れ換え、間近のグールが動きを止めるまでトリガーを引き続ける。

「住人が相次いで失踪するというものでしたが、もしや」

「ええ、それだと辻褄が合うんです。獣になったヒトは巧妙に正体を隠せない」

 獣と化した混血は本能のみで動いているようなものだ。町の外部の人間だけを襲い、事態を隠そうなどということは不可能である。

 ミハエルの推理は犯人が彼だという点では正しく、混血ではなく異種だったという点で間違っていた。

「それでは旦那様は」

「残念ですが、恐らくはもう」

 仕事の最中、異種と対面し命を落とし入れ替わられた。簡単すぎる帰結である。

 そうミハエルが言い掛け、正面のグールを真横に一閃する。あまりに鮮やか過ぎて、力を入れているようにはとても見えない。

 グールの数は減るどころか庭から這い上がろうとしているモノまでいる。もしもの場合に備えて保存しておいたのであろう。土に埋めておけば、数年間は風化が抑制される。かわりに肉から骨が飛び出しているものもいる。

唯が右のガラスから飛び込んできた前は女らしかったグールの上半身を破壊する。

「わかりました」

 藤堂が横に直立していた甲冑から銀色の棒を奪う。勢いを保ったまま思い切り真横にいた恰幅のいいグールを水平に殴りつける。老人とは思えない力でグールを壁に叩きつけ、棒を突きたてる。

「支援致しましょう」

 藤堂が意味深な微笑を浮かべながら棒を半回転させる。その動作は誰が見ても円熟した武道家そのものだった。

「昔取った杵柄ですか」

 ミハエルが感嘆の声をあげる。

 藤堂は自分もこの家の者だと言った。だとしたら、確かに彼自身が以前は狩り手であった可能性もあるということだ。グールを見ても冷静でいられるのがその証拠だ。

「ここは狭すぎます、一旦ホールへ」

 慣れた手付きでグールを弾きながら藤堂がミハエルに言い、言葉を介せずミハエルが目で同意をする。

 ミハエルが左右にいた二体を同時に裂き、ホールへの道を開く。ミハエルの背中を追うように、唯が動揺して足が竦んでいる桜の手を握りホールへと連れて行く。

 ホールには更に多くのグールが焦点の合わない目で獲物を求め彷徨っていた。

 中には二人が資料で見た人間もいる。

「サクラちゃんを頼みます」

 ミハエルが藤堂に目配せをし、唯が腰を屈める。桜と目線を合わせ、桜の頭に手を回し深く自分の胸に沈める。桜が小刻みに震えているのが唯の胸に伝わった。

「大丈夫だから」

 桜は何も答えず唯の袖を強く掴んだ。

「お嬢様、こちらへ!」

 藤堂が叫び、桜を呼ぶ。桜が唯の手から離れ、藤堂の元へと向かった瞬間、二階の階段から桜目掛けてグールが跳んで来た。手を差しのべかけていた藤堂が棒を握るが届きそうもない。唯が拳銃を構えるが桜とグールが重なっていて照準が上手く合わせられなかった。

「お嬢様!」

 藤堂が右手に力を込める、そこから発せられた目視できない塊がグールを上に浮かせる。

グールの位置がずれ、それに唯が下から弾丸で撃ち上げる。勢いを無くしたヒト型は地面に落ち、藤堂がとどめに棒で突くとうめき声をあげながら灰に還った。

 桜に寄ろうとした藤堂が胸を抑えてよろける。

「大丈夫ですか?」

「少し無茶をしたようですな、ここは任せて先に急いで下さい」

 寄ろうとする唯を空いた手で制止する。

 藤堂が立ち上がり、桜の手を取った。

「命に換えてもお守り致します」


 ミハエルが男の気配を追って階段を駆け上がる。裂くというよりは投げ捨てるようにグールを細い剣の腹で叩く。下半身だけ残ったグールを踏み潰す。不快な音がホールに響いた。

敵が呼んでいる、ミハエルは血が熱く煮えたぎるのを感じる。敵を、滅ぼさなければと深い、心のどこかで命令が下される。従うのではなく、同調するように、脳内から快楽物質が放出される。

 持ち主の意志を汲み取ったかのように刀身が淡青色に色づく。

「ミーちゃん!」

 唯の声でミハエルが片側のつりあがり歪んだ口元を正す。背後に違和感を感じ振り向くが既に遅い。背骨に圧力を受け数メートル飛ばされる。

「衝撃を逃がしたか、やるな」

 窪んだ瞳で男が笑う。廊下にいるミハエルとまだ階段にいる唯とを挟む位置に男が立っている。

 唯が狙いを定めてライフルを撃った。

「無駄だ」

 男の身体に吸い込まれるように弾丸が消えていく。ミスリル皮膜はその汎用性のため単発の威力が低い。それは純血の異種にとっては単なる弾丸以下の威力しかない。

 男の方を見返しながらミハエルが階下のホールに目をやる。多すぎる数と足手まといの桜のため藤堂は苦戦を強いられていた。

 唯が男に注意を払いながら可能な限り階段から藤堂の援護をする。

「お前らは何者だ。私の周りを嗅ぎ回って」

「教える義務はありません」

 ミハエルが身体を揺らしながら間合いを詰める。一方の男は余裕に満ちていた。

「使節のガキどもだな」

「名乗る気はないと言っていますが」

 悠長にミハエルが返す。

「知っているぞ、たかが人間の分際で我々を標的にしているクズめ」

「クズはどちらかわかりませんがね」

 言葉を吐き捨てる男に銀髪の騎士は言葉を流す。大抵、こういった口上を述べるものに限って下級に属する。

「折角快適な居場所を手に入れたというのに。こんなところまで出てくるとは、眠りの邪魔をしてくれたな」

「それは申し訳ありません」

「全くだ、償ってもらおう」

 短髪の男が首を傾げ、骨を鳴らす。

「いいですよ、永遠に眠ってもらいましょう」

 左手に構えた剣を水平に、男に向ける。体勢を低く、地面を這うように一気に間合いを詰める。

曲線的な剣の動き。円舞と呼ばれるそれは彼の家に代々受け継がれている、敵を滅ぼすためだけに存在する剣技である。

 それは一撃一撃が綿密に計算されていて、一撃を繰り出した瞬間には、既に五手先が決められているのだ。

 男は笑いながら軽く避ける。

「どうした、そんなものか?」

 笑いながらミハエルを蹴り上げ、宙に浮いた身体を右拳で殴る。衝撃を和らげることができなかったミハエルが壁に激突する

 異種と人間の差は本来歴然である。

 いかに彼らが人間の限界を引き出して戦ったとしても、それはやはり人間の力、最初から飛び越えてしまっている存在とは比較にならない。

殊接近戦においてその差は顕著となる。

 そう、少なくともこの男は思っているだろう。しかし、ミハエルもそれくらいはわかっている。わかっていて、それでも相手を打ち倒す技量があるからこそ、騎士が存在するのだ。

「数十年生きてきただけのお前らに、私の相手が務まると思っているのか」

 唯がライフルを撃つ。

「小癪」

 方向も確認せずに左手で男が弾を受け止め握りつぶす。その間にミハエルが跳ね起き男の腹部を裂いた。

 血は滴らず、傷は見る見るうちに回復していく。闇は彼らの領域、力を与え、神経を過敏にし、新陳代謝を活発にする。生半可な攻撃では意味がない。

 唯がライフルを放り投げ、スカートに下から手を入れ、太ももから取り出したマガジンを拳銃に差し込む。非効率な服装のように見えて、いや実際防御という観点からは非効率かもしれないが、スカートはこういった場合に役に立つ。要は使い方次第ということだ。

ミハエルが一歩下がり間合いを確保した後、唯が狙いをつけて撃つ。銀色の弾丸が男の背中に突き刺さった。

「くっ」

 男の顔が一瞬引きつる。

 今まで唯の弾丸を無視してきた男が口元を引きつらせる。

 ミスリル皮膜が異種に通用しないことを知っていて使節が対応をしないか。もちろんそんなことはない。それなら最初から純ミスリルで弾丸を造ればいい。欠点はコストが高いことだ。

 唯に託されているのはきっかりマガジン一個分、致命傷にはならなくてもミハエルの手助けになればいい。

「お休みの時間ですよ」

 唯が更に五発連続で男の体に弾丸を食わせる。

 体内に残る弾丸にうめき、男が身悶える。致命傷にする必要はない、戦闘で唯の役割は、今のところ成績優秀な騎士団次期継承者の補助でしかない。

その隙にミハエルが懐から小瓶を取り出した。コルク栓を抜き、青白く光る液体を銀色の剣へと注ぐ。

「聖水か」

 精神を立て直し男が苦々しく漏らす。

 その水はその身を清め、多くの異種の代謝機能を著しく低下させる。ミスリルの精製よりも早い段階で生まれたこの液体は、現在も広く、またミスリルの精製自体にも利用されている。異種にとって硫酸にも似た液体を惜しげもなく注ぐ。

 水分を得、レイディアントが輝く。空気に触れた瞬間から気化を始める聖水のため、剣が熱を帯びているかのようにも見える。

「『右手』を使う必要はないと思ったのですが、致し方ありませんね」

 ミハエルが剣を右に持ち替える。左手は、添える程度に。

 トクン、と心臓の鼓動が高まる。剣と自分が一体になる感覚。

「行きます」

 両手で剣を構え、ミハエルが駆ける。

「貸しも借りも水に流そう

 全世界は和解せよ

 兄弟たちよ、星空の下で

 神は裁く、我々は裁かずとも」

 呪文を唱え、肉体の限界値を引き上げる。剣はミハエルの一部となり、正確に動きを伝える。腱への負担を減らすことでよりしなやかに剣が曲線的な軌跡を描く。それは綿密な計算を超え、自在に舞う糸のようだ。

 これこそが円舞の本来の姿。

 ミハエルは左利きなのでも、円舞が左専用なのでもない。

 常人なら、軌跡を追うだけでも精一杯だろう。

 さっきまでの攻撃が、まるで遊戯のようにも思える。

 男が圧され、皮膚が裂けていく。

 ミハエルは相手に傷を負わせると同時に自らの肉体も軋み、筋肉が悲鳴をあげる。自分が何か大きな力によって生かされている実感、与えられた痛み、それだけが彼が存在しているという証。

 ミハエルの攻撃を避けようと男が天井すれすれに身体を浮かす。その機を逃さず唯が三発、男の左肩を撃ち抜いた。

 腕をもがれた反動で何もない空間、一階ホールへと自由落下を始める。最早男の勝機は薄い、二人はそう確信した。唯が階段から一階へ、ミハエルが二階からそのままホールへ飛び込もうとする。

 だが男が重力で床に引かれながら不敵な笑みを漏らした。男の視線の先、そこには桜と藤堂がいた。

 落下する男の考えに気がついた唯がスピードをあげて飛び出す。男が着地と同時に全速力で桜の元へと向かう。唯が二発男に撃つが勢いは止まらない。

 左腕から血が滲んでいる藤堂がその前に立ちはだかるが、男の残った右腕で弾かれてしまう。

 間一髪で追いついた唯が桜を押す。男の右腕は桜をすり抜けたが、今度は無防備になった唯の首筋を握り締めた。

「うっ」

 頚動脈を締められ唯の力が抜け、だらりと両腕が垂れる。唯の右腕から拳銃が落ちた。

「おっと動くんじゃねえ」

 二階通路から跳びかかろうとしたミハエルを見もせずに牽制する。

「こいつの意味がわかるな」

 唯の首をつかんだまま男が勝ち誇った顔でミハエルの方を向く。

 ミハエルが男を侮蔑するかのように無表情で剣をホールに放り投げる。半回転をした剣は床に突き刺さった。

「よし」

「桜、ちゃん」

 唯の頭の中が白く、霞んでいく。

「お、お父様」

 桜が力なく座り込む。床には唯が落とした拳銃が持ち主もなく転がっている。桜の指がそれに触れ、無意識で握る。

「唯さんを離して」

 唯がそうして見せたように、男に拳銃を向ける。だが重さのため照準がぶれて安定しない。

「桜、お父さんにそんなものを向けちゃいけない」

 その言葉に反応して桜が身体を震わせる。

「そいつはお父さんじゃありません!」

 ミハエルの声がホールに無意味に響く。桜には現状が把握できていない。

「さあ、床に置くんだ」

「サクラちゃん!」

 刹那の静けさの後、顔を伏せた桜の手から拳銃が零れ落ちた。

「良い子だ、桜」

 男が優しく、どこまでも下卑た顔で微笑む。

「だから、最初に殺してやろう」

 男が右腕を振り、唯を壁に叩きつけた。壁に背を付けた唯が、頭を垂らす。

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