7「夜 紙雁家1」
ミハエルがインターホンを押す。
一瞬の沈黙の後、
「どちら様でしょうか」
という老人の声が聞こえた。
「ミハエル=フォン=シュヴァンデンというものです。ご主人はいらっしゃいますか」
袖を引く唯を笑顔で制し、落ちついた声でミハエルが答える。
「旦那様は体調が優れないため誰ともお会いにはなりません。ご用件でしたら執事の私がお伺いします」
簡潔な、抑揚のない一息の言葉でインターホンの先が返した。淀みのない口調に、目の前の回答集を読んでいるのはでないかと唯は思った。
「ミハエル様、私の方に用件をお伝えいただけないのでしたらお引取りを願いますが」
「正面が駄目なら、裏口でしょうかね」
インターホンに聞こえないように小さくミハエルが呟いた。唯が屋敷のカーテンが揺れるのを見る。ミハエルが思案している向こうで、老人の囁き声が聞こえた。
「はい、いえ、お嬢様、ですが、旦那様の許可が、いいえ、決してそのようなことは」
そのやり取りに外の二人が顔を合わせる。三十秒程それが続き、老人の声がこちらに向く。
「お嬢様がお会いしたいと申しております」
その声は、先ほどの回答集からと同じ口調だった。
二人が同時に首を傾げ、そしてその執事の声が昨日の老人の声だとわかる。
「それではお願いします」
言葉なしに頷いた唯を見て、ミハエルが機械に答える。
「承知しました。ただいま門を開けますので少々お待ち下さい」
鉄の門が擦れる音とともに左側に格納されていく。手動ではなく、機械仕掛けで開閉が可能になっているのだ。見かけよりはずっと新しい建物なのかも、とミハエルの後ろについて唯は見渡す。家へと向かう道には綺麗に赤茶けたレンガが敷き詰められている。その脇には水はけも考慮してか芝生が一面を覆っており、真緑のそれは丁寧に処理されている。専門の職人でもいるのだろう。
入り口からは見えなかったが、向かって左手には割りと大き目の広さの部屋があるらしく、一面大きなガラスで窓にはめ込まれていた。それもカーテンが閉まっている。
玄関の前に木で作られた重厚な扉があり、二人がその場に立つと同時に扉が引かれた。
二人の正面には、昨日の老人とその後ろに申し訳なさげに隠れている少女がいた。
家の中は薄暗く、照明が所々弱々しく輝いているだけだ。シャンデリアさえも意味がない。広いホールの右側、緩いカーブを描きながら二階へ続く階段がある。右へ曲がるのがカーブだったか、それともシュートだったのか、唯はどうでもいいことを考えていた。二階の廊下からはこのホールが見下ろせるようになっている。
「こちらへ」
単調な挨拶を交わした後、老人が深く会釈をし、二人を左の扉へと案内する。
笑顔を投げかける唯に、少女は何も言わずにお辞儀をしただけだった。膝が見えない長さの紺のスカートをはき、周囲の暗さと同化しながら、昨日と同様その肌の白さを浮かび上がらせていた。
扉を開き、三人が中に入った後、最後に執事が閉めた。重々しいテーブルに向かい合った高級そうなソファーが二つあった。年代ものの甲冑が槍の代わりに銀色の棒を握っている。ミハエルが興味深そうにその甲冑を眺めていた。所属と同じく、騎士ものには興味があるようだ。
日が落ち、窓からはカーテン越しに月の光がほのかに射し込んでいた。
「お荷物はこちらへどうぞ。ただいま紅茶をお持ち致します」
バッグを部屋の隅に置き、二人がソファーに腰を下ろしたのを確認すると、執事は今来た扉を開けて出て行った。
押し黙った空気の中、最初に口を開いたのは唯だった。
「こんばんは」
座ったまま頭を下げる、合わせるようにして少女とミハエルも同じようにした。
「私は風見唯」
「ミハエルです」
沈黙の後、少女が消えてしまいそうな細い声で言った。
「サクラです、紙雁(カミカリ)桜」
「よろしくね」
「よろしくお願いします」
何だか不思議な返答で桜と唯が照れ笑いをする。
「桜ちゃんはどうして私達を入れてくれたの?」
笑顔で聞いた唯に、桜が少し困った顔をして、半ば俯きながら、
「とても、楽しそうだったから」
そう言った。
「私、体が弱くてあまり外に出られないから、お二人を見て、すごく楽しそうに見えて。それに町の外の人と話すことなんてないから」
「そうだったの」
唯が相づちを打つ。楽しそうにしていたつもりはなかったが、多分、それはミハエルのことを言っているのであって自分のことではないだろうな、と誰にも言わずに唯は納得していた。
三方が山で一方が海、しかも主要な交通機関からは隔離されている。陸の孤島という響きがとても似合っている町だ。
ミハエルは、桜の説明が少し気にかかっていた。
桜は人外の血を引く者であり、それもかなりの割合を占めている。本来であれば運動能力は並外れているはずだ。
「お二人はどうしてこの町に」
「知り合いに勧められたものですから、景色がとても素晴らしいですよ」
ミハエルが適当に言葉を濁す。
「この町には、それしかないですから」
年齢の割には大人びて落ちついた口調であるが、それもまた閉鎖的な環境で育った結果なのだろうか。
「あの、失礼ですけど、日本語がお上手なんですね」
「でしょ」
ミハエルに向けられた言葉を唯が何故か代わりに返す。
「英語も話せますよ」
ミハエルが苦笑交じりに言う。唯がいるからミハエルは日本語を使っているだけである。同じ日本人でも里見は英語が当たり前に使えるため、会話は英語ということになる。三人の場合は唯を優先して日本語にする。
「私も話せるよ、英語」
「私は、話せません」
意味もなく対抗心を燃やす唯に少女が肩を落として可愛らしく言う。
「頑張れば話せますよ」
的外れに近いフォローをミハエルが入れた。
少しの間、三人は当り障りのない話をした。大抵は今まで二人が行った国の話だ。二人はミハエルの機転で、唯の父親の仕事の関係で知り合い、旅行が趣味だという設定になった。
自分達が本当に何者なのか、二人は伝えるつもりはない。桜が、今回のそれだという判断はまだついていないからである。油断させて、という場合にも備えておかなければいけない。唯は呑気に会話を楽しんでいるようだったが、ミハエルは慎重に辺りをうかがっていた。
唯にはまだ討伐の経験が少ない。
代わりに、ミハエルは、生まれたときからそういうように育てられてきた。
咄嗟の判断で最も役立つ、経験が違う。
「紅茶をお持ち致しました」
そこへティーカップを漆器に乗せた執事が現れ、ゆっくりと丁寧にテーブルの上に並べる。全てを置き終わった執事が器を左脇に抱え、ミハエルの目を見る。
「ミハエル様、ご用件の方はいかが致しましょうか。依頼の件でしたら一応お聞きしておくことはできるのですが」
ミハエルが唯と目を合わせ、頷いた後、席を立った。
「サクラちゃんと一緒にいてください」
桜にも目配せをし、優しく微笑んで唯の肩に手を置き、執事の方へと歩み寄る。
「それではこちらへ」
音もなく執事がリビングのもう一つの扉へと移動する。執事が開けたその扉にミハエルが入る。
唯が正面を見ると、桜は沈うつな表情で顔を伏せていた。
二人がいなくなり、扉が閉められ全てが静寂に包まれた。
唯が紅茶に口をつける。
「やっぱりお仕事の話だったんですね」
少女が角砂糖を一つ、自分のカップに落とす。それに倣うように唯も角砂糖を入れた。
「桜ちゃんは」
「私はお仕事の事は何も知りません」
「そうなんだ」
唯はこういった家系は小さい頃から教育をするものだと思っていたが、どうやらこの家は何かが違うようだ。
「でも、たまにこうして人が来るんです。皆辛そうな顔で」
『仕事』というのならそれは勿論ボランティアではないだろう。化け物に悩まされ、かつそれを退治するのに高額の報酬を用意しなければならないのだから、自然と訪れる人の顔も沈むはずだ。
「この町に来る人は皆そう、疲れた顔で。唯さんみたいに笑顔でいる人は珍しくて」
唯が返答に困る。まさか仕事で彼女の家を調べに来たとは言えない。それに彼女には、決して笑顔でいられる事情などないのだ。
「あ、ごめんなさい、珍しいだなんて」
桜が唯の機嫌を損ねたかとあたふた手を振る。見当違いな言葉ながら、その行動に唯の表情がほころぶ。
「ううん、いいよ」
唯に迷いはない。たとえ彼女の父親であっても、そして、桜自身であって、それが獣として人に影響を及ぼすのであれば、何のためらいもなく弾丸を撃ち込める。それは唯が平穏と引き換えにした、変えられない現実なのである。
「お父さん、病気なんだってね」
もしも父親がそうであれば、できれば彼女を悲しませたくないが、自分の役目は果たさなくてはならない。
彼女を悲しませることと、彼女自身を殺すこと、どちらが辛いのかな、と唯は自分に向けて疑問を投げていた。
「うん、でも最近お父様見てないから」
「見てない、の?」
「食事の時にも降りてこないし、昼間も眠っているみたいだし」
独り言のように桜の声が小さくなっていく。
「前はいっぱい色んなところに連れて行ってくれたの、もちろん町の中だけだけれど」
「優しいお父さん?」
そう言った途端、桜の表情が明るくなった。
「うん、すっごく。忙しいお父様だけど、休みの日は必ず一緒にいてくれて、色んな場所のお話を聞かせてくれて、私が小さい頃にお母様が亡くなったから顔は知らないけど、たくさんお母様の話を聞かせてくれて、私の髪はお母様似だとか、目はお父様似だとか、毎日毎日それが楽しみで、ずっとずっとお父様が帰ってくるのを待っていたの」
ほとんど一息で桜が言う。それは本当に心の底から楽しそうで、それが逆に唯の心を締めつけた。
「それにね、誕生日には必ずプレゼントをくれて、これもね」
言いながら桜が胸元で微かに光るものを取り出す。
「ずっと前に、お父様にもらったんです」
唯が身を乗り出し、桜の首筋から伸びるチェーンの先を見る。
「綺麗だね」
「はい」
桜が嬉しそうに大きく頷く。桜の手の平に乗せられたそれは、銀色に輝く、装飾もされていないクロスペンダントだった。
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