第7話 父さんな、けっこう慕われているんだ


 その日、山羊山紫乃は社員食堂で小海老とじゃがいものアヒージョに、具材たっぷりペスカトーレを注文し、窓側の席でひとりの昼食を満喫していた。


 黒崎がきょうのように名古屋への出張などで不在の間、紫乃は基本的に担当セクションを監督して回るだけとなる。なにも問題が起こらなければ、そのまま定時で帰ることができる楽なお仕事だ。まあきょうは黒崎が日帰りで戻ってくるために待っていなければならないのだが。


 がたっと音がした。向かいの席に乱暴にお盆が置かれたのだ。


 愛読している毎日十五分間だけ漫画が読めるアプリから顔をあげると、そこにはへこたれない笑みを浮かべる減給されたばかりの伊藤がいた。


「ういっす、山羊山さん、ここいい?」

「どうぞお好きに」


 伊藤くんか、じゃあいいか。そんな気持ちで、再びアプリに目を落とす。山羊山と伊藤は同期だが、伊藤のほうが圧倒的に出世が遅かったため、伊藤が山羊山をさんづけする体制ができあがっていた。


「山羊山さん、きょうのメールってもう処理しました?」

「ええ、午前中に」

「俺まだあと半分以上残っているんすよねえ、お互い統括部のエースはやっぱ大変すよねえ……、って午前中に!?」


 伊藤は『はー、山羊山さん俺の二倍の早さでメールを処理したのかー、すげーなー』と思う。だが実際は、返信が必要なメールは紫乃が300件、伊藤が100件だから、紫乃は伊藤の六倍以上の早さでメールを処理したことになる。


 さらに言えば、その間に紫乃は衣装部との打ち合わせを終え、新作デスゲームの衣装の試着をこなし、新作デスゲームの舞台をヘリで下見したのちに再び会社に戻ってきている。知らぬが仏というものだ。


「きょう黒崎部長、出張なんすねえ」

「そうですね」

「山羊山さんはついていかなかったんですか?」

「わたしの担当ではないので」

「なんか山羊山さんって、いっつも部長と一緒にいるイメージがありましたけど」

「たまたま担当が重なっているんでしょう」


 アプリから目を離さずなるべく脳容量メモリを使用しないように受け答えをしていると、伊藤は伊藤で山盛りの天丼にかぶりつきながら遠い目をした。


「はあ、羨ましいなあ……。俺も山羊山さんみたいに、黒崎部長と一緒に仕事をしてえなあ」

「残業が増えるだけですよ」

「なに言ってんすか、山羊山さん! あの部長のそばで働けるなんて、圧倒的な経験! 圧倒的な成長! そんなすげえチャンスじゃないですか!」


 素っ気ない返事をすると、伊藤がドンとテーブルを叩いた。どうして導火線が着火したのかわからないが、伊藤は社食で大声を出す。うるさかったので紫乃は顔をしかめた。


「部長のそばで、あの部長の活躍する姿を見られるなんて、それだけでFATHERに入ったかいがあるっていうもんですよ! 俺は今、あの伝説と呼ばれる人の近くで仕事ができている……! くー、こんなに名誉なことはないですよね! あ、俺、もっと仕事ができるようにって隠し撮りした黒崎部長の写真を携帯の待ち受けにしているんすよ、見ます?」

「伊藤くんって、ワールドカップのときだけ日本を応援するようなタイプですよね」

「え? 当たり前じゃないですか、同じ日本人ががんばっているのに、なんで応援しないんですか!? 山羊山さんってひょっとして冷血動物ですか!? こわっ、山羊山さんこわっ!」


 食って掛かられたが、気にせず紫乃はスマホを指で操作する。漫画を読むのが十五分という時間制限がある以上、その十五分をきっかりと使い切らないと気が済まないのだ。


 姉ふたりという騒がしい環境の中で育ったため、目の前で伊藤が黒崎部長107列伝なるものを語り出しても、気にせず漫画に没頭することができた。紫乃は自分のマイペースさを自分の美点だと思っている。


 そんなときである。血相を変えて飛び込んできた影があった。わざわざ社食に人を捜しに来るなんて、よっぽどの事態だ。彼は額の汗をハンカチで拭きながら、食堂を見回して、拝むようにその名を呼ぶ。


「――あ、あの、黒崎部長は、本日見ませんでしたか!?」


 紫乃は残り三分の時間が残っていたスマホをポケットにしまい、立ち上がる。手を挙げると、彼は釣竿にかかる魚のように飛びついていた。


「本日はわたしが代理を」

「ああっ、山羊山さん! あなたがいてくれてよかった、実は問題が!」


 紫乃の向かいでは「やれやれ、ゆっくり食事を取る暇もねえってか」と伊藤がネクタイを緩めていたが、彼にはまったく関係のない話であった。




「こちらです」


 通されたのは、FATHER社4階のMMORPG部門である。


「なんすかここ?」

「えと、ソシャゲが中心になる前に、デスゲームとして運営されていた部門です。今は少しブームも下火になりつつありますが」


 天丼をもったままやってきた伊藤にも丁寧に説明する社員である。


 MMOタイプのデスゲームは、オールインダイブ――つまり、プレイヤーの意識が丸ごとゲームの中に入り込んでしまうシステムの上に作られている。


 ゲーム中で死んでしまったら本当に死んでしまうという感じのやつだ。それ自体はしばらく前に主流になったデスゲームなのだが。


 紫乃はモニター画面を注視しながら、眉をひそめた。


「なんだか、ずいぶんと苦情が寄せられていますね」


 批難轟々だ。このままでは株価にも影響が出そうなぐらいである。


「そ、そうなんですよ! 実は先日のバージョンアップが大変評判が悪く……。このままじゃMMO部門全体の責任になってしまいます! 私たちみんな露頭に迷っちゃいますよ! 助けてください、山羊山さん!」

「え、デスゲームにもバージョンアップとかあるんすか?」

「そりゃありますよ、デスゲームでもゲームはゲームですから!」


 ハテナマークを浮かべる伊藤に、社員が一生懸命説明する。


「たとえば盾役と攻撃役のバランスが悪かったら、それを修正したり……。近接攻撃と遠距離攻撃のバランスがとれていなかったら、それも修正したり。強すぎるスキルがあったら、他のスキルを上方修正してバランスを取ったり! モンスターの配置だってちょくちょく変更しているんですよ!」

「いや、でもこれって、中に人が閉じ込められているんすよね?」


 そんな状態でバランスがちょこちょこ修正されたら、修正されるたびにプレイヤーが振り回されてしまうのでは。


「まあそのつど人は死にますけど」


 くいとメガネを持ち上げて、彼はさらりとすごいことを言う。


「でもこれはデスゲームである前にMMOなんですよ! 私たちが運営するリアルゲームオンラインは、剣と魔法のシビアな世界です! そのゲームの完成度を高めるためだったら、プレイヤーが死ぬぐらいなんだっていうんですか! クソッ、今回だって楽してレベルアップできる狩場を根こそぎ潰しただけなのに、ピーチクパーチクさえずりやがってよ! デスゲームに参加しているくせにお客様気分かよ! クソッ、クソッ!」

「お、おう」


 メガネの社員は舌打ちを繰り返す。伊藤はなんだか触れてはいけない扉に触れてしまった気がして、少し身を引いた。


「リアルゲームオンラインはサービス開始から二年が経過しているデスゲームですからね。もうすっかりとプレイヤーは運営の対応に慣れきってしまっているんでしょうね」


 キーボードを叩きながらさらりとつぶやく紫乃に、伊藤は驚いた。


「二年!? そんなにゲームの中にいるんですか!?」

「ええ。おかげでバージョンアップのたびに苦情が殺到で、GMコールや抗議のメールが山ほど来ます。デスゲーム運営の対応が悪い、デスゲーム運営の手順が悪い。詫び石よこせ、詫び石はよ。そういう風に」

「あいつらお客様気分かよ! クソッ、クソッ!」


 そのフレーズが気に入ったのか連呼する男はメガネを光らせる。


「そうだ、山羊山さん! 見せしめに何人か殺してやりましょうよ! 運営の恐ろしさを今一度見せつけてやりましょうぜ! ほら、ここにDELETEキーが、ほら! どんなやつでも殺せますよ! 誰を殺しますか! ほら、山羊山さん、ほら!」

「いえ」


 ターンと紫乃はキーを叩いた。


「お詫びに、プレイヤーのみなさんに経験値がしばらくの間二倍になるアイテムを配ることにしました。これで多少は溜飲が下がるはずです」

「そんな、あいつらを甘やかすんですか! 山羊山さん!」


 自分でDELETEキーを押す度胸は一切ないくせにわめく男。そもそもデスゲームのくせに経験値二倍アイテムとかもらってどうすんのと思う伊藤。


 そんな野郎どもを前に、紫乃はくすりと微笑みながら告げた。


「参加者第一主義は、黒崎部長の主義ですから」


 黒崎の名前を出すと彼は地蔵のように黙った。その効果は絶大である。




 その後、何件かの懸念事項を処理したのち、運営統括部に戻って仕事を続けていると、黒崎が帰ってきた。


 黒崎の個室型オフィスに呼び出された紫乃は、とりあえずお土産のういろうを手渡され、そうして決まった言葉をかけられる。


「留守中、なにか変わったことはあったかね?」


 紫乃は黒崎の留守中に処理したいくつかの案件を思い浮かべ、そうして告げた。


「いえ、平穏無事でした」

「そうかそうか、それはよかった」

「では失礼します」

「あっ、待ってくれないか、山羊山くん」


 慌てて呼び止められた。振り返ると、黒崎はその昭和の俳優のような男前の顔を情けなくゆがめている。


「帰りの新幹線で、隣に座った女性の香水がキツくてさ……、なあ、匂いついていないかな? 浮気だって思われないかな?」

「失礼」


 紫乃は黒崎に近づき、その後ろに回って襟の臭いをかぐ。特に匂いはしなかった。


「……大丈夫だと思いますよ。もし心配なら、わたしがクリーニングに出しますか?」

「いや、クリーニングされた背広なんて着て帰ったらそっちのほうが問題だろう! 自分に非があることを認めているようなものだ! 私は断固、このままで帰社するぞ!」

「はあ」


 紫乃が黒崎のスマホを拾い、そこに映っていた待ち受けの画像を見たのがきっかけだった。それ以来、黒崎はこうして紫乃の前でだけ家族思いのパパとしての一面を見せることになった。


 その態度がなんだかかわいらしくて、たまにこうして紫乃はからかってしまう。


「では私がわざとらしくコーヒーを今、ぶち撒けるというのはいかがでしょう?」

「おお、それはいい考えかもしれないな!」

「では再び温め直してきますね」

「待ってくれ! なぜわざわざアッツアツのでやるんだ!? そのままぬるいやつで構わないんじゃないのか!?」


 山羊山紫乃27歳は、そんなうろたえる黒崎を見て、クスクスと笑みをこぼす。


「そういえば伊藤くんなんですが」

「あのバカがまたなにかやったのか」

「いえ、彼は携帯の待ち受けに部長の写真を使っているそうなので、一応ご報告を」

「えっ……」


 黒崎は思いっきり身を引いて、顔を青くした。


「なにそれ、こわい……。どういうことなんだ……。私は妻子をもつ身だぞ……」

「彼を呼びますか?」

「ああ、うん……、いや、いい! やめとこう! 深く知りたくはない! 人にはプライバシーというものがあるからな!」

「ではコーヒーの準備を」

「それもやめよう! なんだね! 君は私に恨みでもあるのかね!?」

「滅相もないです。私は部長のことを尊敬していますよ」


 紫乃は大真面目に告げる。姉ふたりに我慢を強いられて育ったので、ポーカーフェイスは昔から得意だった。


「て、照れるじゃないか、急に」

「奥さんと別れたら、ぜひご一報を」


 げほげほと黒崎がむせた。


 紫乃は「失礼します」と頭を下げて、くすりと笑いながら部屋を出る。一緒にいても気苦労をせずに済む。黒崎は紫乃にとって非常にありがたい上司であった。


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