第79話 風邪をひいたひょうしに

「あ、十一夜君、おはよう」


「おはよう、華名咲さん」


 そう言ってまた十一夜君はさっさと寝てしまう。

 おい、登校してきたばっかりだろうが。おはようって言ってすぐ寝るのおかしくない?

 まったくもぉ。桐島さんとはどうなったんだよ。教えろ。


 暫く恨めしげに十一夜君の背中を睨んでいたのだが、そこにすっかり元気な友紀ちゃんが登校してきた。


「おはよう、心の友よぉ〜」


 案の定抱き付いてくる。ぎゅうぎゅう締め付けられて呼吸が苦しい。う、マジで苦しいぞ、ジャイアンめ。


「ちょっと。……苦しいから」


 相変わらず馬鹿力の友紀ちゃんをどうにかこうにか引き剥がして呼吸を整える。この怪力女めが。

 あぁ、お陰で何だか一気に具合悪くなってきたわ。


 そんないつものやり取りを繰り広げていると、ちょっと教室がざわついた。

 何だろうと思ってわたしも友紀ちゃんも教室内を見渡すと、入口のところにかの美少女桐島さんが来ていた。

 近くの人に声を掛けて用件を言い渡している様子だ。

 そしてまあ想像した通りだが、「おい、十一夜。呼ばれているぞ、起きろ」と男子から起こされている十一夜君。


 身を起こした十一夜君は、教室中が注目している桐島さんに気付いて事態を把握したのか、いそいそと桐島さんの元へ行き、一言二言言葉を交わすと二人で何処かへ行ってしまった。

 いよいよ騒然とする教室。楓ちゃんも友紀ちゃんも顔を見合わせている。


「ちょっと、どういうことよ。大丈夫なの、夏葉ちゃん?」


 楓ちゃんがそう言ってわたしに詰め寄ってきた。

 大丈夫って、何がだよ。意味が分からん。いや、多分楓ちゃんはわたしと十一夜君が付き合っている風な誤解をしているというのは分かっているけど。


 しかしなぁ、十一夜君は元女だしこっちは元男だぞ? そんな二人がカップルになるとかあるわけ……ん? あれ、お互いに異性同士なんだよな、そう言えば……。て言うかそのせいで今何となく気まずい感じなんじゃないか。

……う〜ん。そう考えれば楓ちゃんが勘違いするのも分からなくもないか。


「やだ、夏葉ちゃんが茫然自失としているわ」


 楓ちゃんのコメントからすると、わたしがショックのあまり茫然自失となったみたいに思われているようだ。違う、そうじゃなくて何だかボーッとしていただけなんだけどな。

 そこに更に被せるようにして友紀ちゃんの声が重なる。


「ちょっとっ! 気をしっかり持つのよ! 夏葉ちゃん……」


 だから違うってのにな。


「うわ、ちょっと。夏葉ちゃん涙が……」


 は? 何言ってるんだよ。泣くわけないだろうが、そんなことでさ。


「ホントだ。うわぁ、どうしよう。ちょっと、夏葉ちゃん。ほら」


 そう言って楓ちゃんが慌ててハンカチでわたしの目元を押さえている。

 何を巫山戯ふざけてるんだよ。……って、あれ? 鼻水が……。


「きゃー、夏葉ちゃんっ」


 あれ、何か気が遠のく……。

 薄れ行く意識の中、友紀ちゃんの悲鳴が遠くで聞こえるような気がした。


 そして気が付けばベッドの中。

 いつの間にか、誰かが保健室まで運んでくれたようだ。


「あ、目が覚めた? 華名咲さん、凄い熱だったのよ。はい、これ」


 養護の先生が目を覚ましたわたしに気づき、体温計を渡してきた。

 わたしは受け取った体温計を脇に挟んで上体を起こした。頭が痛い。


「熱が……どうりで鼻水が出てきたわけだ……」


 鼻水がズルズルだし涙も出てくる。これは酷い。


「風邪かしらね。はい、水分もちゃんと取ってね」


 今度はスポーツドリンクを手渡される。よく冷えていて気持ちがいい。熱で余程体が渇いていたらしく、喉をごくごく鳴らしながら飲んだ。


「熱もあるし、喉も真っ赤だから風邪でしょうけど、あなたのクラスの子が、失恋のショックで倒れたなんて言うからびっくりしたわよ。華の高校生活にだって失恋の一つもあるでしょうけど、そんなに深刻になることないのよ。あなた美人なんだから、もっといい人がきっといるわ」


 別に失恋してないし。それ以前に恋なんてしてないし。何でそういう話の流れになるかな。


「あの……わたし別に失恋も恋もしてませんし……心配していただけるのはありがたいんですが……多分、単純に風邪引いただけです」


 そこははっきりさせておかないとな。これ以上話が広まっても困る。


「そうなの? ……まあいいわ。兎に角早めに病院に行った方がいいわね。お家の方に迎えに来ていただけそうかしら?」


「あぁ、はい。大丈夫です」


「そう、それじゃあ迎えに来てもらって病院行きなさいな」


 と、そこで体温計からピピッと音がした。


「うわ、三十九度二分だぁ……」


「あら、さっきより上がってるわね。連絡は自分でできるかしら? それともわたしがした方がいい?」


「あ、大丈夫です。自分でできます」


 とは言ったものの、あぁ〜、気持ち悪い〜。何か吐きそうだよ。

 ちょっと上体を起こしているのも辛くなって再び横になってから一息つく。


「はぁ〜。……先生、暫くここで休んでいてもいいですか?」


「勿論。それは構わないけど、どんどんきつくなるだけだから早めに病院に行く手配をした方がいいわよ。少し休んだら、迎えに来てもらうように連絡するのをお勧めするわ」


「それもそうですね。んじゃ、そうします」


 スマホはポケットに入れてあったので、取り出して叔母さんに電話した。


「もしもし、夏葉です」


『あららら、酷い鼻声じゃない。風邪引いてたっけ?』


「う〜ん。朝は何ともなかったんだけどね〜」


『熱上がってるの?』


「今計ったら九度二分あった」


『え〜〜、大変じゃな〜い。う〜ん、ごめん。わたしちょっと今はお迎えに行けないから、病院から車を回してもらうわ。着いたらあなたの携帯に電話入れてもらうから待ってなさいね』


「うん、お願い。ごめんね」


『いいのよ。連絡来るまでゆっくり休んでるのよ』


「分かった」


『うん、それじゃあね。体が空いたらすぐわたしも病院に行くから』


「いや、一人で大丈夫だって」


『そんなこと言わないで。ちょっとは甘えなさい』


「は〜い」


『よろしい。あなた保険証は持ってるの?』


「持ってるよ。財布に入ってる」


『そう。じゃあ気を付けてね』


 叔母さんが言う病院というのは親戚がやっている病院で、華名咲ホールディングス傘下だから融通が利く。休んでいると、暫くしてスマホが鳴ってお迎えの到着が知らされた。そのまま待っているようにという指示だ。


 それで待っていると、何と救急隊員が担架を持ってやってきた。しかもお迎えの車が救急車。リムジンで送迎してもらうような生徒も珍しくないこの学校で、救急車のお迎えはめずらしすぎる。


 恥ずかしいから。大袈裟すぎるから。ただでさえ目立ちがちなのに、お願いだから勘弁してくれ。


 と、一応思いはしたが、体の方は三十九度以上の高熱状態。吐き気はするし怠すぎて動けないし、おとなしく恥を忍んで担架と救急車のお世話になった。

 荷物や鞄は教室に置きっ放しだけど、もうそんなことどうでもいいくらい体調が悪い。


 そのまま病院へ救急搬送され、診察室へと直行だった。診察室と言っても、ここは華名咲家の人間が診療を受ける時にいつも使われる部屋だ。差し詰め身内用といったところだろうか。一般の外来患者は来ない。

 医者は三十代の女医さんだが、カルテを見て開口一番こう言った。


「あら、あなた夏葉君? 男の子じゃなかったっけ? 秋菜ちゃんじゃないわよね?」


 うわぁ、親戚か? やばいな、これはどう対応したらいいのか……。て言うか具合が悪くてあんまり面倒なことを考えたくないんだが……。


「はい。夏葉ですけど、どこをどう切っても女子です。取り敢えず具合悪くてどうにかなりそうなんで、診察お願いします」


 いや本当に。何を差し置いてもまずは治療して欲しい情況なのだ。


「あ、はいはい、ごめんね。わたし、あなたがまだちっちゃかった頃会ったことあるんだよ。はい、あーんして」


「あ〜ん」


「あ〜、扁桃腺が真っ赤っ赤だね。はい閉じていいよ。お鼻も見せてね」


 そして鼻穴に謎の器具を突っ込まれて光を当てられている。


「あ〜、副鼻腔炎になりかけているわね〜。完全に風邪拗らせちゃってるみたいだけど、こんなになるまで無理しちゃ駄目だよ」


「いや、全然無理したつもりないんですけどね。今朝まで元気でしたし。何で急にこんなんなっちゃったんだろう……」


「あら、そうなの? じゃあ聴診器当てるからブラウスのボタン外して、ブラもできればずらしてもらっていいかな」


 そうか。聴診器当てるのってブラも外さないといけないのか。女医さんで良かったなぁ。元男とは言え、今となってはやはり男性にむやみにおっぱいを見られるのは抵抗があるもんだな。


「あら、本当に女子なのねぇ。わたしの記憶違いだったかなぁ。……肺炎は起こしてないみたいだね。はい、それじゃあ愛彩あやさんが迎えに来てくれるみたいだから、それまで点滴打ちながらベッドで休もうか」


 それからベッドに案内されて、点滴の注射針を刺されたところまでは覚えているのだが、そのまままた眠りに就いてしまったらしい。


 どれくらいそうしていたのだろうか。話し声に気付いて目が覚めると、叔母さんと、わたしを担当した女医さんが、お茶を飲みながら話しているところだった。


「実は幼少期にホルモンの影響で性転換が起こることは知られています。でも実はこれ、厳密には見た目上の性転換現象に過ぎないんですよね。本来の性別のホルモンが上手く出なくて、外見上の性別が十分変化しない状態で生まれて来るんですよ。第二次性徴期になってホルモンが正常に分泌されるようになってやっと本来の性別に相応しい身体的変化を遂げるということなんですね。なので報告されている事例のほとんどが、女子から男子への変化なんです。夏葉君の場合もそういうホルモンの分泌に起因する問題と考える方が自然ではありますが、男子だった頃の染色体を検査する術があれば、今の染色体と比較することができたんですけどねぇ」


 あ……わたしのこと、叔母さんから話したんだな。

 染色体か……当時の自分の染色体を確認するなんて、今となっちゃ無理な話だ。


 それにしても今の話は興味深い。性転換現象が女子から男子へ変化するパターンの方が多いという話だ。以前、丹代さんから聞いた話を思い出す。


 丹代さんが言っていた、MSが行なっている性転換の研究は女子から男子への性転換しか成功しておらず、男子から女子への性転換は技術的にまだ実現していない未知の領域——即ち神秘——なのだという話……。


 言われてみれば、丹代さんも十一夜君も性転換者だとは言え、いずれも女子から男子化したパターンだ。男子から女子化したのはわたしだけということになる。


 もっとも今の話では、本当の性転換ではないってことだった。MSのそれは多分本当の性転換だよな……。わたしたちの身に起こった変化はどうなんだろう?

 元々女だけど、女の特徴が現れない状態で生まれてきて、思春期になって本来の性別に戻ったって言うの?

 でもなぁ。声変わりもしていたし、喉仏もあったし、エロビデオ見ながら中学男子として普通の活動に勤しんでいたわけだしなあ。

 女になってしまったから確実に分かるけど、明らかにあの頃は男だったぞ。


「このことが外部に漏れたりしたら、大変なことになるでしょう?」


「まあ、もし本当の意味での性転換現象だとすればですが……そうだった場合は医学や遺伝学、性差学といった分野は勿論ですが、様々な研究機関から、重要な研究対象と見られるでしょうね。恐らく前例がないか、あったとしても極めて希少な例でしょうから……」


「やっぱりそうよね。……涼音すずねちゃん、夏葉ちゃんのこの件は門外不出よ。本家で話し合って決まったことなので、これは絶対。分かるわね」


「分かりました。そういうことなら逆らえないもの。任せて」


「うん。お願いね」


 話は着いたようだ。この先生の名前は涼音さんっていうのか。華名咲はうちのお祖父ちゃんが本家で、本家の決定は絶対で、親戚筋もその決定には異議を唱えることすら許されていないそうだ。まあそんなことはそうそうないのだけれど、それだけにひと度本家が決定したこととなると、余計に重要度が増すのだ。


「それはそれとして、夏葉ちゃんのへその緒ならあるんだけど……染色体ってへその緒からでも調べられるのかしら?」


「ああ……古いへその緒からの一般的な染色体検査は難しいと思いますが、DNA検査ならできますよ」


「そうなのね。それなら折角だからお願いしていいかしら。情報漏えいも困るし、今までどうしたらいいのか分からなかったけど、ここでそういうことを調べられるならやっておいた方がいいわ。今度夏葉ちゃんのへその緒を持ってくるからよろしくね、涼音ちゃん」


「了解です。院内の臨床検査科でできますから大丈夫ですよ」


 おお、この体が女子化して以来、初めて検査的なアプローチで謎に切り込むことができるのか……。て言うかそもそも最初に病院に来るべきじゃね?


「あ、もうそろそろ点滴終わる頃かしら」


 涼音さんがそう言いながらベッドの方に様子を見に来た。


「あ、目が覚めたようね。気分はどう?」


 そう言えば点滴の効果だろうか。随分と楽になった気がする。


「はい、大分楽になったみたいです」


「そう、よかったわ。それじゃあ点滴外すわね」


 わたしが起きたことに気づき、叔母さんもベッドの場所まで近付いてきた。


「どう? 夏葉ちゃん。動けそうなら連れて帰るわよ」


「ありがとう、叔母さん。うん、もう帰れるよ」


 朝の時点ではまったくの健康状態だったのに、何で急に風邪をこじらせてしまったのだろうか。

 謎だが、あのとき——女子化したとき——もこんな高熱が続いたんだよな。考えてみたら、こんなに熱を出したのはあのとき以来だ。


 ふと、あのときのことが思い出されてしまって、このまま元の体に戻っちゃったりしてなどと、淡い期待が胸に宿る。

 今男子に戻ったとしたらどうなるのかあれこれと想像して、少し複雑な気持ちになってしまった。


 面倒くさいスキンケアやメイクから解放されることを思えば、その点は嬉しい。

 ああ、あと毎月の生理から解放されるのは最高だ。やっぱり女子になって何が辛いかって一番はあれだよな。


 かなり楽になると聞いて、最近生理用カップに挑戦してみようと思ったまではいいんだけど、考えてみたら男性経験すらないのにちょっと異物を入れる勇気がなくて、未だに使えていない。


 だけど……。

 元に戻りたいという気持ちは持っているものの、この学園生活を失うことになる。仲良くなったクラスメイトとろくに別れの挨拶もできないままにこの学校を去らねばならなくなるだろう。今ではかけがいのない人たちと、そんな風に別れなくちゃならないのはかなり辛い。


 それに、今や全身脱毛でツルツルお肌の状態で男に戻ったら……想像してみると、正直なところちょっとキモい気がする。そういう男性もいるけどさ。


 色々考えてぼんやりしているところに、大きな音を立ててドアが開き、叔父さんが血相を変えて飛び込んできた。


「夏葉、大丈夫なのか?」


 心配しすぎだけど、叔父さんらしいや。


「うん、点滴打ってもらって随分楽になった。お仕事忙しいのにごめんね」


「わたしが行くから大丈夫だって言ったんだけどね……香港から帰ってくるから空港までお迎えに行くことになってたけど、行けなくなったって連絡したのよ。あなた、もしかして飛行機の便を早めて帰ってきた?」


「当たり前じゃないか。契約書のサイン先送りにしてチャーター便で帰ってきたっての」


 誇らしげに胸を張る叔父さんだが、それは流石にまずくないか……? 迷惑掛けちゃったな〜。叔父さんごめんなさい。


「相変わらずね〜、あなたって人は」


 呆れたように叔母さんが叔父さんを見ている。


一虎かずとらさん、お久しぶりです」


「ん? あぁ〜、涼音ちゃんか〜。久し振りだね。夏葉の診療してくれたの? ありがとね」


「うふふ。どういたしまして。それにしても、あの一虎さんがこんなに子煩悩になるなんてね〜。意外」


「そうかな?」


 一虎っていうのは叔父さんの名前。うちの父は龍一りゅういちで、二人合わせると龍虎になる。龍虎と言ったって一卵性双生児だけあって仲はいいけどね。


 おんぶすると言って聞かない叔父さんを何とかなだめてやり過ごして、叔母さんの運転するレンジローバーで三人で帰宅した。

 道中叔父さんがわたしのことを心配してあれこれ話し掛けてきては、叔母さんから煩わすなと叱られていた。会社に行かなくて大丈夫なのか? この人。


 そんなこんなで、発熱は翌日まで続いたが、幸か不幸か元の体に戻ったりはしなかった。もしかしてと何度か股間に手を入れて実際に確認したので間違いない。


 結局普通に風邪を引いただけのことだったのだろうな。半分がっかりして、半分ホッとして。病の床はそんな具合にちょっと複雑だった。

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