第74話 SPY
そして土曜日はあっという間に訪れる。
細野先生のじっちゃんの家までわたしが出向き、そこからじっちゃんの愛車のジャガーでお出かけだそうだ。じっちゃん曰く、「ジャグア」若しくは「ジャグワ」だそうだが。
その愛車はガレージに威風堂々と鎮座ましましている。
ガレージは観音開きのサンルーフという凝った作りになっていて、天気の良い今日は、サンルーフが開け放たれており、陽光が降り注いでいる。
因みに今日はじっちゃんの奥様もご一緒する。そう、奥様だ。
先生はばっちゃんと呼んでいたが、とてもそんな雰囲気ではなく、上品な雰囲気で奥様と呼びたくなる和装美人なのだ。恐らく若い頃はかなりきれいだったのだろう。今も勿論きれいなお婆ちゃんだけどね。
但し、本人は奥様なんて堅苦しい呼ばれ方は好まないそうで、すみれさんと名前で呼ぶことになっている。
それで件のジャガー……もといジャグアはEタイプとかいう車だそうで、でろんと鼻先の長いデザインだが、流麗なボディラインが美しいグラマラスな車だ。
深いアーモンドグリーンのボディカラーは美しく艶めかしい輝きを放っている。青々しい木々の若芽やその隙きを縫うようにして届く木漏れ日が映り込んで、それがまるで複雑な模様のプリント柄みたいに見える。
さて、こんな素敵な車で何処へ連れて行ってくれるのだろうか。
それにしてもこの車、後部座席はおまけのようなものだ。
「後ろは狭いじゃろ。悪いな嬢ちゃん。このシートはワンマイルシートと言われておってな。一
なるほどな。これはほぼツーシーターで本当に後ろはおまけだ。
じっちゃんは「よっこらしょ」と声に出しながら乗車したが、その身のこなしは意外に軽やか。この人やっぱり只者じゃないのかもしれないと思わせる程度には。
着物姿のすみれさんが優雅な立ち振舞いで助手席に滑り込むようにして座った。
本皮製のシートはピカピカで布張りのシートと比べるとツルツル滑る。
ダッシュボードにはたくさんの計器類が並んでいて、何が何やら分からないが、Smithsと記されているのだけは読み取れた。
じっちゃんはキーを捻ったが暫くエンジンを掛けずに待っていた。
「エンジンまで燃料が届くのを待っているんじゃよ。燃料ポンプの音が聞こえるじゃろ? さあエンジンに火を入れるぞ」
そう言ってイグニッションキーを回すと、エンジンが動き出す。バタバタとエンジン音が響くが、まだ発進はしない。
「オイルと水温が上がるまでちょっと待っていてな。これのご機嫌を損ねないための儀式じゃよ」
じっちゃんはそんなことを言って、愛おしそうにハンドルを撫でた。まるで恋人か孫でもかわいがるような眼差しで。いや、細野先生を見るときより目尻が下がっている気がする。
狭苦しいワンマイルシートから眺める老夫婦というも案外と乙なもの。ご年配のカップルが古いヨーロッパの美しい車に乗っているなんて洒落ている。特にすみれさんは質の良い大島紬の着物姿だ。何というか、傍から見たらさぞフォトジェニックに映っていることだろう。
「さてと、今日は儂らの大切な記念日でな。お気に入りのレストランに行こうと思っておる。ちょっと後ろで不自由かけるがその分美味しいものをご馳走するから楽しみにしとれよ」
「こんな車でごめんなさいね。この人の道楽なのよ。普段は二人しか乗らないから許してるんだけども、こういうときには不便ね」
「抜かせ。助手席にかわいこちゃんを乗せるとこれが妬くもんでの。許せよ嬢ちゃん。ほっほっほ」
なんて言ってるが、このお年になってもこういう風に助手席に乗せるのは妻だけっていうの、なんかいいよな。
「そんな大事な日にわたしなんかがお供してもいいんでしょうか?」
「勿論よ。大切な日に素敵なゲストをお迎えして過ごすなんて贅沢な過ごし方じゃない? 偶にはそういう記念日も思い出に残っていいものだわ。それにどうせ夕食は二人で過ごすのよ」
そしてジャグアは西へ。奥多摩にある小さなホテルへと向かっていた。
「このホテルはね。ちょっとした想い出の場所なの」
奥さんがワンマイルシートのわたしの方を向いてそう話しかけてきた。
「へぇ。どんな想い出ですか?」
素直に興味が湧いた。うちの祖父母も仲がいいからきっと色んな思い出があるんだろうけど、そう言えばあまり聞いたことがない。
「うふふふ。わたしたちが若い頃の話だから、今となっては日本昔話になっちゃうわね〜」
そう言ってすみれさんが笑った。
「ふふん、そうじゃの。むか〜し、むかしの話じゃ」
何だ、結局肩透かしを食らった感じか? そっちから話し振ってきたんじゃなかったっけ?
「まあその話は追々ね」
だそうだ。
「そんなことより夏葉ちゃんは今好きな人はいるの? 高校生と言ったら今時は好きな人の一人もいるものかしら?」
う、そういうのは勘弁してほしいんだけどなぁ。わたしのTS事情についてはじっちゃんは知ってるけど、すみれさんには話していないのかな。
その手の質問は苦手だ。だって自分がどっちと恋愛していいのかさっぱり解らないんだからなぁ。
「そんなの、特にいないですけど?」
「まあ、そんなのだなんて。こんなにかわいかったら引く手
思わずそんなのと言ってしまったのだが、こちらにも事情ってものがある。
自分の立場が定まっていないのだからこればっかりは仕方がないのだ。
わたしとしてはただただ苦笑いを返すばかりだった。
それからかれこれ二時間ばかりも走っただろうか。ホテルは木々に囲まれたクラシックな外観で、決して大きくはないが、中に入ると調度品などもよく吟味されているのだろう、どれもこれも主張し過ぎず上品で上質であった。
「わぁ、素敵なホテルですね。こんな場所だったら素敵な思い出ありそうですねぇ」
「うふふ、そうね。まあ、その話もしてあげるからお食事にしましょう」
すみれさんに言われて案内されたのはホテル内のレストランで、そんなに気取った感じのしない、どちらかと言うと街の洋食屋のような雰囲気の店構えだった。
「こういう雰囲気だけどね、シェフはフランスのギー・サヴォワのところで修行した名シェフなのよ」
「へぇ〜、凄いですね。楽しみ」
ギー・サヴォワと言えば、ミシュランの三ツ星レストランを持つ相当な有名シェフだ。その店で修行したとなるとかなりのものだと言える。
「おお、嬢ちゃん、言った通りちゃんと腹を空かせてきたかな? ランチと言ったって今日はフルコースじゃ」
「勿論準備万端。お腹が鳴りそうです」
お腹を空かせてくるように言われていたので、朝食はスムージーを飲んだだけだ。すっかり腹ペコ状態になっているから心配いらんぞ。
コースは胃に負担をかけないようにゆっくりとしたペースで運ばれてくる。そのペースで最終的に満足行くように計算された量が都度出されるので、単品では物足りなさを感じるくらいだ。しかしそれが次の皿への食欲となり、満足へと導いてくれるのだ。本当によく計算されている。
未成年のわたしと運転手のじっちゃんはアルコールは勿論飲めないので、すみれさんだけが食前酒にシードルを頼んだ。
わたしは自家製ジンジャエールを、じっちゃんはペリエを、各々頼んで乾杯した。
魚介と野菜を和えて酸味の効いたソースが掛かったアヴァン・アミューズ。続けてアミューズ・グールは何種類かの野菜のピクルスだった。
酸味の効いた二品で舌も胃も刺激され、増々食欲が湧く。
オードブルはホロホロ鳥と季節の野菜のテリーヌ。これはレバーを使ったものだが、かなり新鮮なものを適切に処理しているようで、臭みも一切なくて滑らかな舌触りの絶品だった。
「美味しいっ!」
思わず何の芸もなく感嘆してしまう。それくらい素晴らしいのだ。
「美味しいわね。ここの料理はいつ来ても素晴らしいのよ」
「うむ、相変わらずいい味じゃ」
続けてスープはビシソワーズなのだが、通常ビシソワーズと言えば冷製のところ、今日のスープは温かい。しかもこのようなコース料理で普通ビシソワーズは出てこないのだが、今日は何故かビシソワーズだ。
ポロネギを低温でじっくり丹念に色が変わらないように炒めているのだろうか、色味が美しく、そしてネギの甘味がよく出ている。
それに余程丹念に裏漉ししたのだろうと分かる
胃が温まったところで今度は口直しのグラニテだ。この緩急というか、温度のギャップ。なるほど、温かいビシソワーズが出てきたのにも意味があったのだ。
グラニテは数種類のベリーを用いたものだった。
すっかり舌がリセットされたようだが、それでもいよいよプラに向けての期待と食欲はしっかり上昇していると感じる。
ポワソンはちょうど旬の焼き鮎だ。マンゴーが添えられていて、うるかのソースが敷かれている。
天然ののりを食べて育った鮎の芳醇な香りを余すことなく味わうことができる。そしてうるかのほろ苦さと香りに、スライスされたマンゴーの優しい甘みと甘い香りが意外にも合うのだ。これは大人の味わいだ。意外と食に関しては年寄りくさい傾向のわたしにはぴったりなのだが。
ヴィヤンドには仔羊のローストだ。ソースはペリグルディーヌというトリュフとフォアグラが使われている何とも贅沢なもの。だからと言って成金趣味の下品な味ということは全然ない。得も言われぬ豊かな香りと深い味わい。この組み合わせには確かに意味と必然性がある。そう思わせるような説得力を感じる味なのだ。
そしてフロマージュ——要するにチーズだが——はワゴンで運ばれてきたものから好きなのを選ぶシステムだ。名前はよく知らないが、美味しそうなものを二、三見繕って頂いた。いずれも美味しかった。
アヴァン・デセールにはカットされた果物が何品か、デセールはラズベリー風味のフォンダン・ショコラか。どれどれ。……あぁ、濃厚。でもラズベリーの酸味と風味が重くなりがちなフォンダン・ショコラに軽さを演出している。
パティシエも優秀だなぁ、ここは。
って、あれ。あまりに料理が素晴らしくて会話も忘れて食べることに思いっきり集中してしまったぁ。
コーヒーと一緒に出されたガトー・ブルトンはメロンパンのような食感の焼き菓子と言うと安っぽいが、その甘みがコーヒーのお茶請けにぴったりだ。
「もう五十年以上も前の話になるかしらね。やだ、本当に日本昔ばなしだわ。うふふふ。二人共仕事でここに来ていたのよね、わたしたち」
「ふん、あんなに手強いおなごは後にも先にも出会うたことがないわ」
「手強い? すみれさん、そんなに手強かったんですかぁ?」
じっちゃんを手こずらせたのだろうか。すみれさんも罪な女だな。
そんなことを思って少しからかうような口調で訊いてみたら、わたしが思っているのと少し違っていたようだ。
「あの頃、まだ駆け出しだった儂は、少々危ない橋も渡るような仕事をしておってな。その仕事もそうじゃったよ。儂が依頼を受けたクライアントのライバル企業から依頼を受けておったのが此奴よ」
ふんっ、と鼻を鳴らして武蔵じっちゃんがすみれさんを顎で指しながら、苦々しげに語る。
じっちゃんがすみれさんに手こずったのはどうやら恋の話ではなく、仕事の話のようだ。と言うことはつまり、スミレさんはじっちゃんの同業者だったということ?
「儂らは産業スパイのようなことをしておったんじゃ。ある重要な特許を持っている企業の買収計画の噂があってのお。そのための話し合いが秘密裏にこのホテルで行われるという情報を掴んで、乗り込んだわけじゃ」
「そうね。そのライバル企業から依頼を受けて潜入していたのがわたしだったの。うふふふ」
うふふふってかわいく笑うすみれさんだが、スパイだったって? 十一夜君たちを見てるから今更だが、わたしの周りには何ていう人たちが集まってくるのだろう。少々自分の引きの強さに呆れ気味なこの頃だ。
「行き着く先々にこれがいてのお。先手先手を取られるもんだからそりゃあもうこっちは歯噛みして悔しがったものよ」
「うふふ。そうなんですって。かわいいところがあるでしょう?」
「大の男を捕まえてかわいいときたもんだ。まったく敵わんよ」
まったくだ。楚々とした雰囲気で奥様と呼びたくなるようなすみれさん。しかし武蔵じっちゃんまでも翻弄する裏の顔を持っているというのか。
何だか人というものが分からなくなってくるな。
「実はな、その時追っていた特許というのが、現在はお前さんたちが追っているMSとかいう組織の手に渡っておるという情報を掴んだのじゃ」
「え?」
この話の流れで何でこうなる?
まったく予想していなかった会話の流れに、一瞬思考が追いつけず停止するわたしであった。
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