断章
正義を糾弾するもの
かつてブラックバードと呼ばれたその殺人者にとって、目の前の光景は見知ったものに過ぎなかった。
噛み千切られたように粗雑な切断面をさらす左手。
プツプツとした黄色い脂肪層と、血管、筋線維を垂れ下がらせるズタボロの右足、同じ有様の左足。
そして、間欠泉のようにいまだ熱い血液を噴き散らす、ねじ切られ、皮一枚でつながる首。
まるで野獣に襲われたのだと言えば、大半の人間は信じてしまうような無残な傷口の死体が、そこには転がっているのだった。
多くの人間がそれを見れば、嫌悪に眉根を寄せ、
しかし、ブラックバードは違う。
《この遺体はいま、無意味である》。
と、そう考える。
無意味であり、無価値であると。
ゆえに、無意味にしてはいけない、無価値のままにしてはいけないと。
それでは重荷を、たったひとりが背負うことになるからと。
これが芸術ではなくただの罪となるからと。
なにより、
いまならばもっと綺麗に素材をはぎ取ることができる。
ブラックバードは、そう考える。
その視線が見つめるのは、遺体の唯一無事な右手であった。
殺人者は検分に使っていた血塗れの凶器を丁寧にハンカチでぬぐうと、代わりに懐から〝それ〟を取り出した。
もっともポピュラーであり、もっとも知名度の高い手術器具──刀子メスであった。
医療用の、芸術的切れ味を誇るその消耗品を複数取り出しながら、ブラックバードはなお思う。
いまのブラックバードにとって、そのメスは掛け替えのない仕事道具だった。
(代替可能なこんなものが掛け替えがないなんて、どうしてこんなに矛盾することになったのか)
それはまるで自分自身のことをさしているように思えて、殺人者は
矛盾といえば、なにもかもがそうであるようにブラックバードには思えた。
いま、手順と理由が前後してしまった、目の前の遺骸についてさえも。
死ぬ必要がなかったものが、みずからのために、みずからの〝手〟で死に絶えることも。
(そう、矛盾だ)
独白とともに、ブラックバードがみずからと大差のない凶器を構え、物言わぬ死体から綺麗なままの右手を切断しようと手をのばした──そのときだった。
パチ、パチ、パチ……
暗がりの中から、乾いた音が何度も響いた。
拍手。
それがそうであるとブラックバードが認識するまで、いっときの時間があり、そしてその音を紡いでいる存在が姿を現すまで、さらに一拍の間があった。
ズルリ──と。
闇の中から、それは生じる。
冴えない風貌の男だった。
中肉中背。
彫こそ深いものの、それ以上の印象は残らない不思議な顔立ち。
無造作に散らかった髪の毛は、あまりきれいなものではない。
服装も、壊滅的にセンスのないジャケット姿である。
辛うじてネクタイ──それだけが闇のなかでもわかるほどに赤い。
そうして、その眼だけが見えない。
闇がベールをかけるように、その瞳が、暗闇に属すように。
瞳だけが、誰にも見えない。
そんな人物が、陰々滅滅とした表情を浮かべたまま、拍手を重ねている。
誰だ、と。
ブラックバードは問うていた。
暗闇は、こう答えた。
「
「…………」
「まったくもってはしゃぎ過ぎだ。我慢できないからと言って7人は殺し過ぎたのだ。おまけに前後してしまった。あれはもはや看過すまい。だから、せいぜい私は利用させてもらうことにする。おまえを、おまえの手足を。名探偵を気取る犯罪王を、ただの端役に失墜させるために」
男は無表情に、機械的に、非生物的にそう語り、親指で人差し指を弾いた。
パチンと広がる指を鳴らす音。
それは、催眠術をかけるかのように、永崎の夜の闇に伝播していく。
そうして、連続傷害事件は加速する。
ブラックバードの犯行が、殺人が、機織りの紋様を描くように、縦に横にと、より合わさって。
終幕へ、死刑台を目指し、足を早めるかのように──
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます