12.




 五十嵐が願ったように、電車はどこかの駅のホームに滑り込み、止まった。

 アナウンスこそなかったものの、扉がゆっくりと開く。三塚のことも忘れて、五十嵐は魚の群れをかき分けてホームへ飛び出した。

 そこは見知らぬ駅だった。駅名を示す案内板もなければ自販機もなく、待合室や椅子も置かれていない。

 ホームから見える景色はありふれたものなのに、だからこそ、このホームの異常さが際立った。

 呆然と立ち尽くす五十嵐の背後から、不意に足音が響く。

 それは普段ならまるで気にも止めないような小さな音だった。アスファルトをスニーカーのゴム底が叩く音。たった一人分のそれは、ずいぶんと大きく聞こえた。

 恐る恐る、五十嵐は振り返る。

 薄いインディゴのダンガリーシャツに、ベージュのチノパン、そして黒い小振りなメッセンジャーバック。

 三塚が、ゆっくりと五十嵐の元まで近づいてきていた。

 そしてその背後で、電車の中にいた大量の魚たちも、開いた扉から外へ泳ぎだしていくのが見えた。

 まるで音のでないクラッカーをいくつも並べて同時に紐を引っ張ったようだった。色とりどりの魚たちが一斉に扉から出て行く様子は、クラッカーから飛び出すあのカラフルな紙吹雪に似ている。

 やがて電車の扉は閉まり、三塚の背後を音もなく走り出した。

「……俺はずっと、どうしてこんな風に、中途半端な進化をしたのかを考えていた」

 立ち止まって、静かに三塚が切り出す。それが妙に不気味だった。

 思わず後ずさる五十嵐を追うでもなく、三塚はその場に立ったまま続ける。

「俺に二つ目の条件をクリアさせたその人はすぐに魚になれたのに、俺はどうしてこうなのかって、ずっと考えていた」

 でも途中で気付いた。それは俺が条件を二つだとばかり思っていたからで、三つ目の条件をクリアしていないせいだった。

 滔々と三塚が続ける。

「だからこそ俺は色んなところに出向いて三つ目の条件を満たそうと躍起になった。でも、もうそれもおしまいだ」


 ――俺はようやく『進化』出来る。


 心ここにあらずといった面持ちでぶつぶつと話し続けていた三塚が、そこでようやく五十嵐と目を合わせる。

 三塚の吸い込まれそうな黒い瞳に、五十嵐の引きつった顔を映っていた。

 黒々として、有機的で、底が知れない、三塚の瞳が細められる。

 はじめて、三塚は口元だけではなく顔全体で笑ったのだ。

 満面の笑みを浮かべたまま、三塚が後ろ向きに歩き出す。

 呆然と見ていることしか出来なかった五十嵐は、しかし三塚がホームの縁まで辿り着いて、更に言えば、その線路にスピードを落としていない電車が迫っていることに気付いて声を上げた。

 何を叫んだのか、五十嵐は自分でも分からなかった。何か意味の通らないような言葉を、下手すれば喃語のような音の羅列を叫んだのだと思う。

 しかし三塚は足を止めなかった。相変わらず笑ったまま、軽く左足でホームを蹴る。

 その体が、ホームへと投げ出され、そこへ電車が突っ込んでくる。

 一連の流れがスローモーションで五十嵐の目に映った。

 次にくるであろう、鈍い音と人が撥ねられる様子が――映画かなにかで見たそれが脳裏にちらついて、五十嵐は反射的に固く目を瞑る。

 しかし、いつまで経ってもそれらしい音は聞こえてはこなかった。

 妙だ。五十嵐は今まで、人が撥ねられる現場――電車はもちろんのこと、車もだ――を目撃したことがないから、実際に人が撥ねられるときどんな状況になるかを知っている訳ではない。それにしても、何の音も聞こえないのはおかしいのではないか。

 唾を飲み込み、意を決して、五十嵐は目蓋を開く。

 そこは明らかに先ほどまでいた場所とは違っていた。

 目の前に見える美容専門学校の、大きく、それでいて地味な看板や、夜になるとまばゆい光を放つ、電飾付きの居酒屋の看板の数々。どれもこれも古びて秩序なく並べられたそれらに、五十嵐は見覚えがあった。下宿先の最寄り駅のホームから見える景色そのものだったからだ。

 視線を巡らせると、部活帰りの高校生や、これから遊びに出かけるのであろう大学生らしきカップルがちらほら立っている。

 そして何より、ホームの案内板に書かれていたのは、紛れもなく五十嵐が使い慣れた路線と駅の名前だった。

 ほっとすると同時に、それまでの耳が痛くなるような静寂が破られ、うるさいくらいの蝉の鳴き声が耳を刺激した。今年の残暑は長引くと天気予報士が言っていたことを五十嵐は思い出す。

 思えば三塚とともに降り立ったあの駅のホームは、自分と三塚、二人分の声と足音以外は何の音も聞こえなかった。けれど今はこうしてきちんと周囲の雑音だって聞こえるし、何より見慣れた場所だ。

 白昼夢でも見ていたに違いない。きっとそうなのだ。

 まだまだ疑問は尽きないが、ひとまず見慣れた場所に自分がいることに安堵して、五十嵐は深く息を吐く。


 そして五十嵐は、自分の口から大きな気泡がいくつか吐き出されたのを見てしまった。


 まるで水中にいるかのように、まるいシャボン玉にも似たそれは五十嵐の口を離れて上へ上へとのぼっていく。

 思わず目で追うと、それはどこからともなく泳いできた、淡い青色の魚にぶつかって弾けて消えてしまった。

「――あ、」

 思わず間の抜けた声が漏れる。

 またしても、五十嵐の口から目に見える気泡がいくつか生まれて浮かび上がった。

 ホームで電車を待っていた高校生たちが、気味の悪いものを見るようにこちらをちらりと見て小声で何か話し始めたが、五十嵐にはそんなことを気にする余裕はなかった。

 宙を泳ぐ魚。あれは先ほどまで見ていた白昼夢の中だけの存在ではなかったのか。

 上を向いたまま立ち尽くす五十嵐をよそに、その青い魚は大胆にも五十嵐の鼻先まで泳ぎ寄ってきた。

 見覚えのある色合いだ。薄めのインディゴブルー。先ほどまで、ずっと五十嵐が追いかけていた背中の色。

 ――俺はようやく『進化』出来る。

 そういった三塚の言葉を思い出す。

 ああ、三塚は無事に三つ目の条件をクリアしたのだ。

 鼻先まで泳いできたその魚と目が合う。黒々として、有機的で、底が知れない目。

 それは一瞬だが、確かに五十嵐を捉えていた。しかし次の瞬間には、長い尾びれを揺らして上へ上へと泳いでいく。

 しかし五十嵐は、動くことも出来ずその場に立ちすくんでいた。

 気付けば魚は、その一匹だけではなくなっていたからだ。紙吹雪を撒いたように、カラフルで形もさまざまなそれらは、気ままに五十嵐の視界を泳ぎ回っている。

 まだ何も終わってはいないのだ。それどころか、始まったばかりだったのだ。

 このままでは、三塚のように中途半端に進化したまま――ヒトでもなく、魚にもなれないまま、一人さまようことになってしまう。

 早く、三つ目の条件をクリアしなければ。

 逸らしていた首を戻して、五十嵐は周囲を見渡す。

 明らかに自分を不審そうに見る高校生の集団、無関心を決め込みスマートフォンで音楽を聴く大学生、幼い子どもを連れた若い母親。

 この場にいる人間全員が、駄目だった。

 早く、だれか――。

 五十嵐がそう願ったところで、電車の到着を知らせるアナウンスがホームに響き、それから見慣れた黄色いラインの入った電車がホームへと滑り込んできた。

 扉が開き、いくらかの人とそれ以上にたくさんの魚たちが吐き出される。

 そして五十嵐は、降りてきた人間の中に求めていた存在を見つけだした。

 ――私は運がいい。

 気付けば口元が緩んでいた。しかし、五十嵐はそれを引き締めようとも思わなかった。

 魚の群れを散らして、五十嵐は電車から降りてホームに立ち尽くしていた、恐らくは同じ大学生であろう女の元へと歩み寄る。

「見えてるよね?」

 何が、とは言わない。言う必要もないだろう。

 いきなりそんなことを言われたにも関わらず、その女は不審そうな顔をするどころかどこかほっとしたような、期待に満ちたような眼差しをこちらに向けているのだから。

 きっと、自分の身に起きた訳の分からない現象を共有出来る誰かを探しているのだ、この女は。そして、その期待は全く裏切られるというわけではない。

 押し殺せなかった笑いが口の端から漏れて、それは視認出来る気泡となってはっきりと自分の目に映った。

 ――ああ、私は本当に、運がいい。

 三塚は、一ヶ月あの状態でさまよったと言っていた。

 中途半端に「進化」して、ヒトでもサカナでもない状態で、ただ一人きりで。

 それはきっと辛かっただろう。でも自分はそうならなくて済む。

 第三の条件を、こうしてすぐに、クリア出来る。

 いきなり笑った五十嵐を見て、女の顔に怯えが走った。

 気味が悪いのだろう。そう思われても仕方がないが、別に構わなかった。

 もう、誰の目も気にしなくて良くなるのだから。

 構わず五十嵐は続ける。





「聞いたことある?」

「『空は一番大きな水瓶で、それがある日ひび割れてしまった』――こんな話なんだけど」




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八月のワンダーラスト 市井一佳 @11_1ka

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