11.

 馬鹿げていると一笑出来ればどんなに良かっただろう。

 そうするにはあまりにも、これまで自分の身に起こった出来事は不可解で、いっそ三塚が言うような論理が背景にあると考えた方が、筋が通ってしまう。

 なるほど、水の中で生きていくには魚になれば良いと。合理的だ。だけれど。

「まだ色々言いたいことはあるだろうけど、とりあえず最後まで話を聞いてくれ」

 三塚は、進化のために必要な条件が三つある、と告げた。

 一つ目は先ほど言ったように、「魚を目視出来るということ」。

「二つ目は、進化の文脈を知っているということだ。もっと言うなら、さっき俺が言った、『空は一番大きな水瓶で、それがある日ひび割れてしまった』って言葉を知っているかどうかだな」

「……待って、それじゃあ私は、」

 三塚は三つの条件を満たせば『進化』出来ると言った。そして、二つ目までの条件を五十嵐はクリアしている。

 それならば、つまりは。

「五十嵐も、もう一つの条件を満たせば進化出来るってこと」

 進化出来る。つまりは魚になるということ。

 確かに五十嵐は逃げたいと思っていた。

 何もかも投げうって、どこかへ行きたいとも思っていた。

 けれど、人間ではなくなってしまうということを、魚になるということを、到底受け容れられるはずがない。

 言いたいことは山のようにあったものの、なんとか五十嵐が沈黙を守っていると、三塚は自身の右手に漂う魚の群れに視線を移した。

「話は逸れるけど、俺が二つ目の条件をクリアしたのはちょうど一ヶ月前だった。そしてそのときは、条件が二つだとばかり思っていたから、もう自分も進化出来ると信じて疑わなかった。……五十嵐は違うみたいだけど、俺は進化出来ることを喜んだよ。もう飽き飽きしていたから」

 何が、とは三塚は言わなかった。けれどそれくらいは五十嵐にだって想像がつく。

「それなのに、一向に俺は進化出来なかった。いや、中途半端に進化したと言うべきかな。俺は今の状態を幼形成熟だと思っている。ニュアンスは正確ではないだろうけど」

 幼形成熟。ネオテニー。

 ぼんやりとそれがどんなものかを五十嵐は知っていたが、今の話とはまったく結びつかなかった。

「それは、どういう、」

 おずおずと五十嵐が口を挟むと、三塚は再び五十嵐へと視線を戻した。

「魚の姿は、ふつうの人間には見えない。見えている人間にも触れることは出来ない。そうだっただろ?」

 三塚が何を言わんとしているのか、五十嵐にもようやく理解出来た。

「……つまり人間の姿のまま、そうなったってこと?」

 五十嵐の言葉に三塚は浅く顎を引いて肯定の意を示す。

「その通り。誰にも俺の姿は見えなくなって、声も届かなくなっていた。おまけに鏡にも映らない。腹は減らないし、眠らなくても済むようになったけど、かといって何が出来るってわけでもない。透明人間にでもなった気分だった」

 この一ヶ月を思い出しているのだろう。三塚の目がどこか遠くを見るように細められる。

 そして、はたと気づいたようにメッセンジャーバックから財布を取り出し、更にその中からICカード出して五十嵐に示した。

「ただ面白いことに、電車にはいくら乗ってもこいつの残高は減らなかった。だから宛てもなく――いや、宛てはあったな。ともかく来る日も来る日も色んなところへ出かけた」

「今まで全くその、三塚のことに気付いた人はいなかった?」

 訊ねると、三塚は平坦な声でゼロじゃない、と答えた。

「でも、気付いてくれたと思って声をかければ俺の勘違いだったり、あるいは無視されたりするのが常だった」

 ――だから、さっき五十嵐と目が合っても、大して期待はしなかった。今回もハズレだろうって。

 付け加えられた三塚の言葉は、しかし情報を情報を整理しようと躍起になっている五十嵐の耳には入らなかった。

 誰にも認識されなくなって、更には食事も睡眠も必要のない体になって、ひとり街をさまようというのは、どんな気分だろう。

 五十嵐は思い浮かべてみる。

 それも一日や二日ではないのだ。一ヶ月の間、ずっと。

 自分だったら耐えられるだろうか。気が触れてしまいそうだ。

 ――気が触れる?

 五十嵐の頭の中で警鐘が鳴りだす。

 地下鉄なのだから窓の外が暗いのは当たり前なのに、それが五十嵐には急に恐ろしく感じられた。

 そしてこの電車に乗り込んでからずっと感じていた違和感の正体にもようやく気付く。

 全く音をたてずに走っているのだ、この電車は。

 それに、都心の地下鉄ならせいぜい二三分に一度は停車するはずなのに、この電車は五十嵐が乗ってから一度も停車していない。

 一つおかしな点に気付くと、次々と今乗っている電車のおかしな点が浮かび上がってきた。なぜ今まで気付かなかったのだろう。

 そもそもこの電車は、一体どこへ向かっているのか。

 パニックになりながらも五十嵐は立ち上がって電光掲示板を確認する。

 そこには何も表示されていなかった。ただ黒い画面があるだけだ。


「――まあ、それも今日で終わりだ」


 ますますパニックになる五十嵐をよそに、ぼそりと三塚がそんなことを呟いて立ち上がる。

 突如、窓の外が明るくなった。まるで三塚の立ち上がる動作を合図にしたように、偶然というにはあまりにも出来過ぎたタイミングで。

 どうもこの路線は地上に出るものだったらしい。見覚えはないが、特段おかしくもない風景が車窓から見えて、五十嵐は少しだけ落ち着きを取り戻す。

 おまけに電車は徐々にスピードを落としていた。間もなく停車するらしい。

 なかなか停車しない上に、電光掲示板には何も表示されず、おまけに車内は自分とどうかしている男が一人だけで動転していたが、時間の感覚が麻痺していただけできちんと電車は止まるようだし、電光掲示板だってたまたま故障かなにかしていただけで、乗客が自分たち以外にいないのだって、きっと偶然に違いない。相変わらずそこらを泳ぎ回る魚の存在には、今は目をつぶることにした。

 そう、五十嵐はなんとか自分を取り巻く状況に理由をつけて、落ち着こうとしていたのだ。

 そして、だからこそ、三塚の発したその一言に意識が回らなかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます