10.

 魚、魚、魚。

 これまで乗ってきた電車や歩いてきた駅構内の比ではないくらいに、その車両にはおびただしい数の魚が泳ぎ回っていた。

 しかし、五十嵐が一歩足を踏み出すと、気ままに泳いでいた魚たちがまるで道を譲るように左右に分かれて泳いでいく。

 大した広さではないが、魚が一匹もいない空間を五十嵐は随分久しぶりに見た気がした。

 もう一歩、足を進める。

 ぽっかりと空いた空間の、青い座席に腰を下ろした男へ向かって、五十嵐は歩を進める。


「『誰しも気付かない間にゆっくりと溺死している』。そういう風には考えられないか?」


 沈黙は、世間話をするような軽い口調で告げられた男の言葉によって、いとも容易く破られた。

 男の長めの前髪の向こうから眠たそうな瞳は、それでも五十嵐をしっかりと捉えている。

 黒々とした瞳は、今日飽きるほど五十嵐が見た魚たちの目とどこか似通っていた。

 黒々として、有機的で、底が知れない目だ。

 五十嵐の返事など期待していないように、男は続ける。

「死ぬってことに対してだ。俺らは目に見えない、触れることすら出来ない水にゆっくりと殺されている」

 そう話を結んで、男はようやく五十嵐から視線を外した。座ったまま掌を差し出して、何の感情も籠らない声で告げる。

「突っ立ってないで座れば? ここにいるのは俺とあんただけだし」

少なくとも人間は。何でもないことのようにそう付け足して、男は五十嵐の出方を窺うように押し黙る。

「……あの、」

 ここにきてようやく、五十嵐も声を上げることが出来た。

 色んなことが一度に起こりすぎて、処理しきれなくなっていた。

 けれど、一つはっきりしたことがある。

 ――この男は、五十嵐が欲しい情報を何かしら握っている。

「この、魚とか……それとあなたの話、とか……訳がわからな」

「説明する。だからまず座って」

 落ち着き払った男の声がもどかしかったが、言われた通りに五十嵐はバックパックを抱えて男の正面に腰を下ろした。

「まあなんだ、いきなり変な話をはじめて悪かった」

 そう詫びてから、男は三塚と名乗った。

 名乗られた以上、自分も名乗らなければと五十嵐も口を開く。

「わ、私は五十嵐です。あの、漢数字で五十と嵐って書いて、五十嵐。あの、三塚、さんは」

「呼び捨てで良いし、タメ口でいい、俺もそうするから」

 疎ましそうに言い捨てて、三塚が左手の人差し指をたてる。

「五十嵐、話を始める前に一応確認していいか。――魚は見えているんだな?」

「見え、てる」

 掠れた声で答えながら小さく頷くと、三塚もそれに応えるように頷いた。

「じゃあ、もう一つ質問だ。……今から言う言葉を聞いたことがあるかどうか」

 言いながら、三塚は人差し指に続いて折り曲げていた中指もたててみせる。


「『空は一番大きな水瓶で、それがある日ひび割れてしまった』」


 はじめて聞く言葉だった。何かの引用だろうか。

 返事こそしなかったものの、五十嵐の表情から三塚は答えを得たようだった。

 無表情だったその顔の、口の端だけ奇妙に歪む。

 そこに現れたのは、笑っているととれなくもないが、気味の悪さが際立つ表情だった。

 しかしそれも一瞬だった。すぐに三塚の顔は無表情に塗り替えられる。

「それじゃあ順を追って話をしていこう。と言っても馬鹿馬鹿しい話だし、信じられないと思うけど。そうだな、五十嵐は今見えている魚は一体なんだと思う?」

「何って……」

 手で触れることの出来ない宙を泳ぐ魚たち。

 今だって、五十嵐と三塚の間にこそいないものの、それ以外の空間を埋めるようにおびただしい数の魚が車内を泳ぎ回っている。

 その中の、蜂蜜色の鱗をもった魚の一群に目をやりながら、つっかえつっかえ五十嵐は答えた。

「……幻かなにかだと思ってて、私は自分が変になったんじゃないかって」

「幻? 変になった? まあそう思うのも無理はないか」

 器用に右の眉だけを動かして、三塚が呟く。

「結論から言えば、魚を見ることが出来るということは、進化の条件を一つ、クリアしたってことになる」

「進化の条件?」

 ただでさえ混乱しているというのに、更に訳の分からない話が出てきて五十嵐は戸惑う。

 そんな五十嵐の様子を、三塚は馬鹿にするでもなく、かといって安心させようともせず、じっと見ていた。

「一番はじめに俺が言ったこと、覚えているか?」

 一番はじめに三塚が言ったこと。ついさっきのことなのに、五十嵐はそれがずっと昔のことのように思えてならなかった。

 なんとか記憶を掘り返しながら口を開く。

「えっと、誰しも」

「『誰しも気付かない間にゆっくりと溺死している』。そうだ。そしてもう一つ、『空は一番大きな水瓶で、それがある日ひび割れてしまった』」

 話が全く見えなかった。

 三塚も五十嵐の表情からそれを察したらしい。

「こんなことを大真面目に考えた連中がいたんだよ。死というものを、目に見えない水が空という巨大な水瓶をから漏れだして、それによって知らず知らずのうちに溺れた結果だと考えた連中が」

 どうかしてるだろ? 軽口を叩くような口調で言っておきながら、三塚の目は少しも笑っていなかった。

「何もないのに、生きていることそのものに息苦しさを感じたことはないか? 今自分が置かれている環境から解放されたいと思ったことは? 全てが疎ましく思えたことはないか?」

 畳み掛けるように三塚が言う。

 しかしそのどれに対しても返事を求めていたわけではなかったようで、一度息をついてから再び三塚は口を開いた。

「きっとそう思ったときに、進化のための一つ目の条件をクリア出来るようになる。そして一つ目の条件は『魚を目視出来ること』だ」

「あの、そもそもその『進化』って――まさか」

 見えない水で満たされた空間で、それに気付かずに溺れることが死の定義だとして。

 生き残るための方法が「進化」だと言うのなら。

 表情を変えず三塚は頷く。


「そう、この魚たちは『進化』した人間の姿だ」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます