9.

 決意を固めたはずなのに、それでもいざ男に声をかけようとするとうまく言葉が出ず、結局五十嵐は再びストーカーのごとく男を追いかけることになった。

 視界には人間を遥かに上回る数の魚たちが泳ぎ回っている。

 一体何が本当なのだろう。懸命に足を動かしながらも五十嵐は考える。実はここは海で、自分たち人間の方が異物なのではないか。そんな考えが思い浮かんだが、頭を振ってそれを打ち消す。――そんな馬鹿な話があるものか。

 魚のせいで視界が狭い五十嵐の前を、男は相変わらずゆったりとした、けれど無駄のない足取りで歩いていく。

 工事中なのか、今いる駅の構内は天井が低く、明かりも頼りない仮設のものがついているだけだった。そしてそれがますます五十嵐の不安を煽った。

 そういえば、ここは何という駅だったか。電車を降りる前の車内アナウンスでも聞いた気がするし、ホームにある案内板でも見た気がするのに、思い出すことが出来ない。

 気付けば五十嵐の視界に入るのは、追いかけている男以外は魚だけになっていた。いくら人が少ないといっても、都心でこれは異常ではないか。

 ――そもそもここは、本当に都心なのだろうか。

 そんな馬鹿馬鹿しい疑念がわき上がったが、現在地を調べている間にまた男の姿を見失ってしまいそうで、ひとまず五十嵐は男を追いかけることに専念しようと決めた。

 男は迷いのない足取りで乗り換え用の改札を抜け、階段を下っていく。五十嵐も魚の群れを割ってその後に続いた。

 ホームまで降りると、またしてもタイミングよく電車が来たところだった。

 男がそれに乗り込むのが見えたが、ホームには男以外の姿はなく、その電車から降りてくる者もいない。

 そして、ホームには五十嵐と無数の魚たちだけがいる。

 このまま追いかけて本当に大丈夫なのだろうか。その先に何があるのだろうか。

 魚の存在にしろ、今自分がいるこの場所にしろ、五十嵐には分からないことだらけだった。

 それでも漠然と、この電車に乗ってしまえば引き返せなくなる。そんな予感だけがあった。

 今なら引き返せる。来た道を引き返せば、きっとまだ、間に合う。

 でも、そのことに一体何の意味があるだろう。

 (目を閉じると、耳の奥で母親の声がした。弟の話をするときの、弾んだ声だ)

(「――ねえ、恵。孝志が受かったのよ、K大に」)

(顔もロクに思い出せない級友からの、ノートを貸してほしいという旨のメールが脳裏に浮かぶ)

(「レジュメ? 五十嵐さんに借りればいいじゃん。あの子、授業はマジメに出てるからさ」)

(クスクスと笑う声)

(「ホント、マジメだよね、五十嵐さんって」)

(その言葉が褒め言葉じゃないってことぐらい、私にだって分かるのに)

 ――執着するものなんて、何もないじゃないか。

 閉じていた瞼を開く。

 暫く立ち尽くしていた気がしたが、電車はまだ扉が開いたまま、五十嵐が乗車するのを待つようにホームに留まっていた。

 バックパックを背負い直して、五十嵐は車内に足を踏み入れる。

 アナウンスもなく、五十嵐の背後で扉が静かに閉まった。

 音もなく電車は走り出す。


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