8.

 目を離さなければ、男から視線を逸らさなければ、男の姿を見失うことはない。

 五十嵐はそう高をくくっていたが、その予想はあっさりと裏切られてしまった。

 確かに男と同じ電車に乗った。そのはずなのに、男が乗ったと思しき車両へ向かっても、そこに男の姿は見当たらない。

 移動したのかもしれないと思い、他の車両も探してみたが、どの車両にも男の姿はなかった。

 きっと車内を端から端まで歩く五十嵐の姿は他の乗客からは不可解に映っただろう。しかし五十嵐は、はじめに乗った路線よりも更に多い数の魚の姿ばかりが目について、乗客の顔など目に入らなかった。

 結局どの車両にもいないことが分かったところで、五十嵐は運転室の扉にもたれかかって息を吐いた。

 どういうことだろう。あの男の姿までもが、自分の見た幻覚か何かなのだろうか。

 俯くと、くたびれたスニーカーの汚れた爪先が目に入って、五十嵐はのろのろと顔を上げた。

 相変わらず視界には無数の魚が映り込んでいる。それらはやはり現実味がないものの、幻として片付けるにはあまりに無理があるものだった。

 不意に、右手からサーモンピンクと水色の縞模様を持った魚の群れが、五十嵐の鼻先まで近づいてきた。目がチカチカして、反射的に五十嵐は目を閉じる。

 もう通り過ぎただろうか。少し待ってから恐る恐る目を開けて――そこに五十嵐は探し人の姿を認めた。

 薄いインディゴブルーのダンガリーシャツに、ベージュのチノパンを合わせた痩躯。

 見失ったものだとばかり思っていた男が、五十嵐の乗る車両の、五十嵐が立つ場所と反対端に立っていた。

 今度こそ。今度こそ声をかけよう。

 そう五十嵐が決意したところで、電車は駅に到着した。扉が開き、男はまたしても電車を降りて行く。

 当然五十嵐もそれを追いかけて電車を降りた。

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